この者の名は、建御名方なり

 健がスマートフォンに表示させたのは、日本の歴史と各地の地理を記したウェブサイトだった。その画面をヌナカワに見せるが彼女は眉を寄せて目を細めると、何度も小首を傾げた。

「なんだ? なにやら細かい文様もんようが浮かび上がっておる……」

「そっか、まだあの時代には文字らしいものって伝わってなかったんだ。高志の国は今の富山県から新潟県あたり。そこを統治していた女王ヌナカワ姫。出雲の国の王様だったオオクニヌシさんと結婚して、確かにお子さんがいた」

「どういうことだ? なぜ、わたしのことを知っておる?」

「こういう情報が現代ではぜんぶこのスマホで……つまりこの機械で調べられるんですよ。姫の時代の歴史も調べられるんです」


 健は糸魚川市内に点在するヌナカワのブロンズ像の画像も表示させた。

「これが姫です。ちゃんと立派に像になってるみたいですね。さすがいかにも観光地っぽいな」

「わたしのうつの模造だと? しかもこれほどに巨大な岩石を垂直に立てて、精密に加工する技があるのか。この時代には」

 いくらか元気を取り戻した様子のヌナカワを見て、健は再度、食事を促す。

「うちにあったお米がちょうど新潟県産のコシヒカリなんです。もちろん魚沼産とかの高級品じゃないですけど……もしかしたら姫の国のお米かもしれないですよ。食べてください」


 女王であるためか、給仕の者たちが配膳をしてくれていたのか、食事をじかに手で取ることに躊躇していたが、ヌナカワはおにぎりを恐る恐るひとくちかじる。

 すると驚いた様子で目を見開き、口元に手を添えながら感想を漏らした。

「……とても甘い。それにコメの一粒一粒が研いだ石のように白いではないか。わたしが普段食べている米とは全然違うぞ」

「たぶん精米してるからですかね? 米ぬかを取ってるからかな?」

 次に健はカップにもなる水筒の蓋を取り、中身を注いだ。

 まだ湯気の立つ味噌汁をヌナカワはひとくち飲む。

「これはなんとも言えぬ甘美な味だ。ほのかな塩みが米とよく合う」

「味噌汁ですよ」

「みそとな? なんだ、それは」

 彼女の反応を見て、健はスマートフォンで味噌を検索する。

 大陸から伝来してきたのは七世紀頃で、国内での醸造はまだまだヌナカワにとっては未来の出来事のようだ。

「あー、ずっと後になって作られる調味料みたいですね」


 普段食べ慣れた自分の食事とは全く異なる未来の叡智に感動したヌナカワは、健に向き合うと膝を正した。

「礼を申すぞ。そなたの名はなんという?」

「僕はタケル。南方健みなかたたけるです」

「そうか。改めて礼を言う。南方健よ」

「タケルで構わないですよ。友達にもそう呼ばれているんで」

「あい、わかった。タケルだな」

 そこで初めてヌナカワは笑みを浮かべた。

 子持ちの人妻であるとは知っているが、現代人と比べても遜色ない、高貴な雰囲気や美麗な相貌は、やはり健の心をざわつかせる。

「そう言えばタケル。先程、ヤマトが日本を支配すると申したな? それにはにわかに賛同しがたいが、やがて外洋の国と戦争を始めて敗れるとも。そこでヤマトの国体は崩壊するのか?」

「どうなんですかね? それよりずっと前に日本は日本になってた気がするけど……ヤマトが支配するってよりは武士が出てきて幕府ができたり、戦争で負けた時は外国の人に統治されて……でも大王おおきみってようするに朝廷のことだよな。じゃあ、たぶん日本人を代表する象徴的な存在になっていったんですよ」

「出雲と高志はどうなるのだ?」

「なんというか……僕は公民や政治経済の授業も苦手で、たぶん王様ほどじゃないけど、それぞれに知事っていう役職の人がいて、自治を任されている感じですね」

「ふむ、遠い未来に外洋からの諸敵は現れど、ヤマトはこの国の象徴として君臨しておるのか」


 食事の手を止めたヌナカワは、握り飯を足元に置く。

「タケルよ。いま申したのは、この国の行く末なのだろう?」

「そうですね。姫から見たら、もう決まってる未来というか……」

「では、そなたが知る歴史とは真逆のことをすれば、例えば未来を変えられるということは無いか?」

「その可能性はあります……あるのかな? どうなんだろ? 歴史が書き換わるってこと?」

 すると、ふたたび膝を正したヌナカワは、両手をついて上体を低く伏す。

「そなたの力、わたしに貸してくれぬか」

「僕のちから?」

「そなたは未来人として出雲と高志に知恵を貸してくれ。そしてヤマトを負かして、新たな歴史を紡ぐために協力してくれ!」

「はあっ? 僕がですかっ!」


 今度は勇ましく立ち上がったヌナカワは、歓喜に打ち震える手指をぐっと握る。

「未来を知るタケルから知恵を貰えれば、迫る戦火も戦の結果も、全て変えられるではないか。そうなれば出雲も高志も無敵だぞ! さぁっ、タケルよ。わたしと手を携えてヤマトを撃破しようではないかっ!」

「いや、そうは言っても……」

「高志じゅうから美しい傍女そばめや山海の珍味などを、いくらでも用意してやるぞ。悪い話ではあるまい?」

「いや、まぁ確かに、東北の人は美人が多いって言うけど……」

 健は頭を掻きながら大きな息を吐いた。

「そもそも、それにはヌナカワ姫がどうやって過去に戻るんです?」


 それまでは笑みを隠さず、すっかり興奮していたヌナカワだったが、それを聞いたきり微動だにせず視線をさまよわせる。

 しかし闇雲に騒いだり狼狽したりしないのは職業柄、民を無闇に不安にさせないという女王としての矜持であった。

「どこかから落ちてきたようであったな。このあたりにわたしとタケルの時代を繋ぐ抜け穴があるのではないか?」

 ヌナカワは神社の拝殿の木床をせわしなく歩き回る。

「……どこにもないではないか」

 にわかに表情を曇らせるヌナカワに、健も首を傾げた。

「おかしいな、僕はヌナカワ姫に会う前は、たしかあのあたりを歩いてたんです」

 健は拝殿の外、鳥居から賽銭箱まで続く石畳を指差した。

「ちょうどわたしが神々を降らし奉るための祈祷をしていた時であったな」

 ふたりは拝殿の外に出ると、石畳の上を踏みしめながら慎重に歩く。

「はやく元のわたしの時代に帰りたいのだ。よく思い出せ」

「そんなこと言われても。そんでちょうど、このへんを歩いてて、そしたら急に……って、おわあっ!」」

 突然に彼の足は、地面をすり抜けた。

「ひえぇっ!」

 バランスを崩した健は思わずヌナカワの右手に掴まる。

「やめぬか! わたしを引っ張るな……ひぃっ!」

 ヌナカワもまた、足場を急に失ったような感覚とともに地面の下へと滑落する。

 ふたりの身体は大地に吸い込まれていった。




 一方その頃。女王ヌナカワの屋敷。

 彼女が祈祷を行っている最中は入室厳禁として、女中は次の間で控えていたが、なにやら今日の祈祷はずいぶんと長い。

 加えて室内が静かになったので、女王の様子を案じていた女中たちであった。

 だが、続けざまに室内から大きな物音がしたので、驚いて戸を開ける。

「女王さま、失礼いたします!」


 すると、祈祷を行う祭壇と供物を乗せた素焼きの皿の前で、女王ヌナカワと見知らぬ男が折り重なるように倒れていた。

「ひえっ! 女王さまを狙うものだ! 兵たちよ、早くここへ!」

「ちっ……違います、僕は!」

 女中の悲鳴を聞きつけて駆け寄ってきた男たちは健に向けて剣や槍を構えた。

「僕は怪しい者じゃありませんってば!」

「だいたい怪しい者がそういう事を言い出すのです!」

 必死に釈明する健や騒ぐ女中を収めるようにヌナカワが一喝する。

「皆の者、静かにせよ!」

 そしてヌナカワは何も無かったように立ち上がると、健に抱きついてきた。


 突然に美女に身体を密着させられると、健は息を呑む。

 だが、相手はまるで自分を子供扱いするかのように、頭を撫でたり背中に手を添えてきた。

 こうして年上の美人のお姉さんに甘やかされるのも悪くない――健は少しばかり鼻の下を伸ばしながら、されるがままに身を任せる。

州羽すわに向かったまま行方知れずになっていた、我が息子ミホススミは無事に立派な武士もののふとなって戻ってきたというに、喜びのあまり突然わたしに抱き着いてきて……まったく、大きく育っても母に甘えてばかりの情けないおのこですね」

 不安と若干の興奮がない交ぜになったままヌナカワを見守る健とは対照的に、彼女は平然と芝居を続ける。


 統治者の言葉は全て真実。女王陛下が仰る事はそれまた事実なり。

 加えて、普段の彼女は巫術を駆使している祭祀王であるのも一因であろう。

 ある程度は役に入り込むなどお手の物だ。


「皆の者よ。こんなめでたいことはないぞ。こうして我が子は無事に科野しなのより戻ったのだ! これよりは息子ミホススミの名を、まさに勇猛果敢な者であり神の名の元に命を授けられた者の証として、タケミナカタと改める!」

「えっ! ちょっと……」

 慌てふためく健に対し、ヌナカワは小声で制止する。

「よいか。ここはわたしの芝居に合わせよ」

 そばに控えていた女中や、物音を聞きつけてやってきた家臣の男衆も唖然とする。

 健は学校から帰宅したその時のままに、制服の黒のズボンに白のシャツ、学校指定の紺色のベストにチェックのネクタイを着ていた。そして右手には通学カバンを持ち左手には黒いビニール傘や味噌汁の入っていた水筒を持っている。

 その見知らぬ繊維や色彩の服に、家臣たちは訝しそうに彼の全身を見ている。

「愛おしい、我が息子タケミナカタよ。本当に立派な姿になり、またこの世の物とも思えぬ服装や武具の数々、これぞまさに神の奇跡と言わずに何と言えましょう」


 健は周囲の男性たちの姿を見る。

 確かに、現代人の自分よりは背丈が小さく、彼らからみたら自分は立派な巨人ではあるだろう。

 だが筋骨隆々の彼らに比べると、あまりスポーツもせず体育の授業も渋々参加しているだけなので、胸板も薄く身体の線も細い。

 いかにもな現代の若者である健は、この嘘で騙し通せるのか内心不安であった。

 未だ疑心暗鬼といった風の男衆ではあったが、髭も薄く頬骨も張っておらずとても中性的で小さな顔と、世の男性と比べても恵まれた背丈とはるかに長い脚を見た女中たちは、それが女王の息子であると聞かされた途端に、にわかに頬を染める。

「さぁ、タケミナカタよ。長い旅で疲れたでしょう。わたしの部屋でゆるりとするが良い。母に旅の話でも聞かせておくれ」

 ヌナカワは健の背中を強めに押して、強引に自室へと案内していく。

 そして部屋の前で振り返ると、女中や男衆に念押しをした。

「愛する息子と積もる話がある。わたしが開けるまでは、なんびとも部屋に入るでないぞ。またタケミナカタを襲うヤマト方の輩が現れるかもしれぬ。屋敷の警護を入念にせよ」

 そう言い残して人払いをしてから、ヌナカワは戸を閉めた。



 薄暗い室内では、かがり火が怪しく揺らめき、健とヌナカワの影を躍らせていた。

 ヌナカワはアーティスト写真によく有りそうな顔半分が闇に沈んだまま、やや得意げな笑みを浮かべている。

「我が息子の幼名ミホススミから、そなたの南方健を取って、咄嗟にタケミナカタと思いついたのは、我ながら見事な芝居だったのう」

 自画自賛しながらうなずく彼女に対し、健はずっと困惑したままだ。

「どうするんですか? 僕が姫の息子ってことになっちゃったじゃん」

「その方が出雲や高志の国内を動き易いであろう? 良いかタケル。お前はこの時代に居る間は我が息子タケミナカタだ。タケルも同様に芝居をするのだ。わたしのことは母様ははさまと呼ぶが良い」

 ヌナカワの提案には健も呆れて声にならない声と共に嘆息を漏らすしかなかった。

「いや、そうじゃなくてさ、僕がタケミナカタさんって事にしたらさすがにみんなにバレるでしょう?」

「出雲にも高志にも、ミホススミの幼い頃の姿を知る者しかおらぬ。誤魔化しはどうとでもできよう」

「幼い頃って? そういえば僕もここに最初に来た時に、息子さんが行方不明って言ってましたけど」

「そうであったな。そなたが我が息子としての芝居をするならば、詳細を伝えねばならぬな……」


 ヌナカワはわずかに表情を曇らせて、静かに床に座る。

 健もその向かいにあぐらをかいて、話を待った。

「では、まずはミホススミの事を教えねばなるまいな」

 母ヌナカワは、我が子のことを神妙に語り出した。

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