高志の女王、奴奈川姫との出会い

「うひゃああぁぁぁ~っ!」


 健の身体は天地も左右も前後もない不思議な空間を落下していた。

 だが空を飛んだり、四次元の世界を浮遊している訳では無い。

『落下していた』というのは、まるで上空から投げ出されたように、垂直方向に落ちているのが体感的にわかったからだ。


 どれだけ、経っただろうか。

 いや、どのくらい落下したのだろうか。


 健の視界が突然にひらけた。

 すると薄暗い木造の建物の天井付近に居た。

『居た』というのは、そこに留まっていた訳では無い。

 その光景を一瞬だけ視線で捉えた、という程度のものだった。

 ばきばき、がさがさと騒がしい音を立てて茅葺きの屋根を盛大に突き破る。


 健はそのまま木製の堅い床に落下し、尻と背中を派手に打った。

「ぐえっ! いてて……なんだってんだよ……」

 健が尻を撫でていると、眼前の女性と目が合った。

 それは夢の中で見た、色鮮やかな薄衣を幾重にも着ていた日本史の教科書によく出てくる大昔の女性、清少納言とか平安絵巻でよくあるものよりはもっと昔のイメージだ。例えるなら、古墳時代とか飛鳥時代が出てくる単元のあたり。


「えっ? うそだ、なんだこれ? あの、ここは……どこですか?」

 健は痛む尻を撫でたり、服についた木屑を払いながら女性に尋ねる。

 しかし女性は言葉も無く唖然と健を見ていた。

 だが、やがて瞳を潤ませると、歓喜の声を上げた。

天上てんじょう界より神がいらっしゃった! わたしの祈りが通じたのだ!」

 すると女性は健に向かって、うやうやしく頭を下げた。

「はあっ? 神? 僕がから落ちたから?」

「我ら出雲いずも高志こしのためにお力をお借りしたく、巫術ふじゅつでいずれかの神々がご降臨くださるよう、祈りを捧げておりました」

「いずも? こし? えっとあの、ごめんなさい。まだ僕にはなにがなんだか……」

「おぉ、そうでしょう。なにせ突然に下界に降りられたのですから。畏れ多きことでございます」


 女性は自分が座っていた毛皮の敷物から降りて、木製の平床に移る。

 そして再び健に向けてぬかづく。

「高志ではいにしえより言い伝えがございます。『天より降りし翡翠を司る者、来たりてクニの未来を導く』と」

 健も呆然と話を聞いていたが、自分が着けていた勾玉のアクセサリーを掴む。

「それが僕ってこと?」

「そこでどうか、神に申し上げたき儀がひとつございます!」

「いやいや、ちょっと待ってくださいよ! そんなホントに僕は別にエラい神様でもなんでもなくて……」

 慌てて両手を振る健だったが、女性は興奮しているのか早口に奏上する。


「我が息子ミホススミが行方を眩ませてどれだけの月日が経ったか……どうかご神力で探し出すことはできますまいか。加えて間近に迫るヤマトとの戦、出雲に勝利のご託宣を……」

「いや、お願い一個じゃなくて二個じゃん! それに僕は……」

「お手には神器をお持ちではございませぬか。天界のありがたい秘宝とお見受け致しますぞ」

「えっ、この傘のことですか? これはかもなって思ったから、たまたま持ってただけで」

御自おんみずから『天降あめふる』とご承知だったのですな。さすがは神でございます!」

「ちょっと、いったん落ち着きましょうよ。僕もあなたも!」

 健が緊張と狼狽でうわずった声を上げると、薄衣の女性はぴたりと会話をやめる。

 そして頭を平に下げて神、もとい健からの託宣を待っていた。


 健はその状況に困惑しながらも、女性に説得を試みた。

「まず、そもそも僕は神様じゃないです。急にここに来た普通の人間ですってば」

「よもや空から人が降りますまい。ですので神であらせられると」

「それもなんとなく、っていうか、たまたまここに落ちただけですよ」

「ですが、実際に我らの祈りを聞き届けて、天から降りられたのでは?」

「確かにあなたの声が聞こえたり、ヘンな夢をずっと見てたけど、知らないですよ。急にこんなとこに来て。僕はえっと……二十一世紀から来たんです」

「にじゅういっせいき?」

「そこから説明する必要があるの? じゃあ、そもそもここはどこなんです?」

「わたくしこと姫巫女であり王である、ヌナカワが治める高志の国でございます。いま夫が統治する出雲とこの高志は、ヤマトとの戦が近い状態なのです」

 健は腕を組みながら、彼女の話を反芻する。

 どうやらここが日本らしいのは理解できた。

 次に日本史と地理の授業を思い返し、自分がどこに来たのかを推測した。


「出雲って島根県ですよね? ごめんなさい、高志はわからないけど、ヤマトなんて国は僕の時代にはもう無いですよ」

「では、いずれ出雲方が勝利できるとのご神託で間違いございませぬか!」

 ヌナカワと名乗る女性は両手を床につけたまま、瞳に力を込めて上半身を健に寄せた。

 ミホススミという息子が居るとは言っていたが、彼女はまだ姉の美保とさほど年齢も変わらないのでは、というくらいに若々しかった。

 加えてさすがの女王である。その佇まいや所作には気品がある。

 次第に冷静になっていった健は相手の美貌を知るなり、相手に黙って見つめられるとなんとなしに照れてしまうのであった。

「いえ、出雲は島根に母方のじいちゃんの家があったから良く知ってるけど……高志はどこだか知らないんです。未来はヤマトの国じゃないですよ。江戸時代に海外から貿易のために開国しろって言われたり、昭和には外国と戦争をして負けちゃったりしたけど、いまはみんな普通に平和に暮らしてますよ」

「まことでございますか? なんと、よもや洋外に真の敵がおったとは……ヤマトと交易をする大陸の連中なのだろうか……」

 途端に顔色を失っていくヌナカワ。

 それから顎に手を当てると、ぶつぶつと独り言を始めた。

「ヤマトに倣って大陸との交易をしていたが、やはりすぐにやめるよう出雲に伝えるべきか? だがその優れた技術力が無ければヤマトとの戦では勝てまい……」


「あのぉ、すいません……」

 健の声に我に返ったヌナカワは、改めて彼に問い掛ける。

「それだけの未来視が出来るということは、やはりあなたは神では……」

「だから、たぶんこの時代よりもずっと未来から、勝手に来ちゃったんですってば!  僕のいた時代に帰してくださいよ! それに確か……歴史の授業では大化の改新だっけか? もっと前かな? ヤマト朝廷ってのが出来るんですから。たぶん出雲も高志も、そのうち負けちゃうんですよ」

 なにせ神は人智をも超越した存在である。最初は余裕で冗談を言っていると本気で信じていたヌナカワも、健の必死な様子に次第に顔を曇らせていく。

「来たるべき未来にヤマトが王権を造る……ですと?」

「そうですよ。詳しくは知らないけど、たぶんヤマトが戦争に勝つんです」


 それを聞くなり、ヌナカワはゆらりと立ち上がった。

 そして神前に捧げていた短剣を取り出した。

「出雲と高志が敗れて、ヤマトが勝利するなどという嘘偽りの数々……やはりこの者が申す通り神でないのであろう、おそらくヤマトの間者かんじゃに違いない」

「いや、あの……なにをするんですか?」

「この剣で貴様をほふる」

 相手の態度が急変したことを察知した健は、思わず傘を胸元に引き寄せた。


 ヌナカワは短剣を強く握りしめると、ゆっくりと健に近づいた。

 それに呼応するように、健も黒い傘を両手に構える。

「あ、あの……ぼ、僕だって男ですよ、いちおう。あんまり女の人が無理するとケガしちゃうと思いますけど? ケンカはやめといた方がいいと思うな」

「なんと! 子の親であり人の妻である、わたしに辱しめを与えると申すのか!」

「いや、そんなことまではしないけど、そっちが殺す気まんまんだからじゃん!」

「ならば高志の女王として最期まで気高く在るまで!」


 すると今度は、ヌナカワは短剣の先端を自らの喉元に照準を合わせた。

「ヤマトの間者にこの身を穢される前に我が子に会いたかった……無念。ミホススミよ、母は先に逝きますよ」

「うわぁっ! 早まっちゃダメですってば!」

 健は咄嗟に傘を逆さまにして腕を伸ばすと、湾曲した持ち手のフックにヌナカワの手首を引っ掛けて強く引いた。

 バランスを崩した彼女は、短剣を放り出すと健の胸元に倒れ込む。

「えぇい、放せ、汚らわしい! やはりわたしの身体が目的か! この獣めっ!」

「おわっ、ちょ……そんなことしませんってば!」

「未来から来ただの神を騙るだの、この嘘つきめ! ならばわたしにその未来とやらを見せてみろ!」

 両手を激しく振り回すヌナカワを落ち着かせるために、健は彼女の腕や手首を抑え込もうとした時だ。

 揉み合うさなか、彼女の身に着けた淡い緑の勾玉の首飾りと、健の首元の翡翠の石が触れ合う。


 その刹那。

 薄暗い木造の建屋が、強烈な光に包まれた。

 二人の持つ翠緑の石は眩い程に輝き出したのだ。

「うわあっ、なんだよ、これ!」

「あなおそろしや……やはりそなたは神、いや、よもや黄泉の国から来た悪神ではないのか!」

 すると、館の木床が抜けて突然に二人の身体は宙に投げ出された。


「おわあぁっ!」

「ひいっ!」


 健とヌナカワは、またも中空から木床に叩きつけられる。

 転落の影響で、健の身体をクッションにするように、彼女は胸の上で重なるように倒れていた。

「いたた……あの、ちょっと重いんですけど。早くどいてください」

「あいすまぬ……いや、わたしが重いことはあるまい! 無礼だぞ!」

 彼女がいつの時代の人だかは知れぬが、このあたりの配慮と機微が女性に対しては常に必要なのだと、健も痛感させられた。不躾な言葉は刃物よりも鋭い、と。


「あれ? そういえばここって……」

 健が周囲を見回すと、その見慣れた景色を前に途端に安堵していく。

「なんだ、ここは? 誰の館ぞ?」

 対するヌナカワは一気に顔色を失い、おもむろに立ち上がると周囲を見回す。

 木造の薄暗い屋内。ござが敷かれた床。そして中央には神鏡。

 それは健の自宅そばにあった神社の拝殿だ。


「なんなのだ、あれは……」

 彼女は建物の外の景色を見るなり、重い足取りで歩き出す。

 鎮守の森のはずれ、切り立った高台の崖からは、正方形に切り取られた石組の巨大な物体がいくつも林立している。

 小石が敷かれたところを轟音を鳴らしながら、研ぎ磨かれた金属の奇妙な塊が、牛馬のように猛然と走っている。

 次に高台から反対方向に首を向けると、森の脇をくろがねの塊が走り去っていく。その色も黒曜石のようであったり翠緑であったり、眩いばかりの空の青や、炎の赤など様々だ。

 また人間も細い金属の棒を組み立てた心もとないふたつの輪にまたがり、転ぶこともなく悠然と走っている。


「いったい、わたしは何を見ているというのだ……」

「だから、ここが僕の暮らしていた現代ですよ。さっきのは電車。あれは車で、人が乗ってたのは自転車です。たぶんあなたの……千五百年かヘタしたらもっと、二千年くらい後じゃないですか?」

「いかほどの後だというのだ! 出雲とヤマトの戦はどうなった?」

「もう出雲もヤマトも無くなってるんですってば。今は全体で日本っていう普通の国ですよ。朝がきて夜になって、また次の朝が来てを……えーと、五十万回くらい繰り返したんじゃないですかね?」

「そんなばかな……」

 ヌナカワは高台の下の景色を見下ろしながら、膝から崩れる。

 そのまま地面にへたり込んだ。


 健は頭を掻きながら、その後ろ姿を見守っていたが、境内の入口にある鳥居の下に犬を連れて散歩にやって来た老人の姿を発見した。

「やばい、ヌナカワさんの姿を見られちゃう。さぁ隠れましょうよ」

 健は地に膝を付いた彼女の手を強く引いて、また拝殿の奥に身を隠した。



 日没にはまだ早い、午後の高台の神社。

 しかしその屋内は非常に薄暗い。

 いつの間にか曇天の空からは雨粒が降り出し、拝殿の建屋には雨の打ち付ける音が響いていたせいだ。

 健はビニール傘を閉じて水滴を払うと、慎重に周囲の様子をうかがう。

 それから拝殿の中に一歩、また一歩と入っていった。


 神社の拝殿の奥では、すっかりと肩を丸めたヌナカワが茫然自失といった感じで、足元の畳のござの網目をじっと見ている。

「ヌナカワさん。ご飯もってきたから、食べてくださいよ」 

 健は自宅からラップに包んだおにぎりと、湯を入れたインスタント味噌汁を水筒に移して持参していた。

「わたしは……これからどうしたらよいのだ。出雲や高志の国の行く末を見守ることもできず、こんなはるか後世だか未来だかわからぬ時代で朽ち果てようとは……悔しくてかなわぬ」

「きっと過去に帰る方法も見つかりますよ。僕だってこの時代に戻ってこれたんですから」

 正座をするヌナカワの足元に食事を置いた健は、改めて食事を勧める。

「はやく、冷めちゃいますよ。高志の国で作ったお米のおにぎりですから」

 それを聞いたヌナカワはわずかに視線を上げて、健の顔を見た。

「高志の米だと? どういうことだ?」


 健はポケットからスマートフォンを取り出す。

「僕は学校の成績は悪くない方だと思ってるけど、歴史や古文の授業はあんまり得意じゃないんです。だって実体験が伴わないから、学生なんかに分かる訳ないじゃないですか? だからヌナカワさんにここで待っててもらってた間に調べたんです」

 ヌナカワは彼の手の中にある、反射する程に磨かれた細長く平べったく硬いものを指差す。

「いったいなんだ、その薄く研磨された石は?」

「スマホです。調べものができる機械ですよ。ネットで何でも見られるんです」

 健は得意満面といった風情で指を払い、画面を上下にスクロールさせた。

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