翡翠の石に誘われて

 少年は夢を見ていた。



 薄暗い木造の家の中。

 屋根は茅葺かやぶきのようで、柱も床もごつごつとした木肌で覆われていて、すきま風も多そうだし、部屋の隅では蜘蛛が巣を張ったり、床を虫が這っている。

 住み慣れた近代住宅と比べると、あまり快適そうにない。


 小さな囲炉裏のようなところの前で女性が火をくべている。

 彼女の座るところは毛皮らしき敷物がある。

 さらにその女性は、歴史の授業で習ったような、大昔の人が着る赤や橙や青といった薄衣を何枚も羽織っている。

 きっと高貴な人なんだろう。

 その周りには荒い麻の生地で作られたと思われる質素な服装の男女。

 男性は長髪を耳の脇で結わいている。

 彼らは高貴な女性が祈る間、ずっと床に額を付けていた。

 縄文時代なのか、弥生時代なのか。

 学校の教科書のワンシーンのような場面を自分は見ている。


 中央の女性は、両手に淡い青緑の石を大切に抱えていた。

 そして、幾度となく上体を折り、火起こしされた燃える『なにか』に向かってずっと囁き続けている。

 燃えているのは白いもの。

 大型の動物の骨だろうか。

 それはさながらに、校外学習の資料館で見たような光景だ。

 古代の家屋を再現した建物の中では模型の人形が複数置かれて、呪術の様子を解説している。そのままであった。

 女性は大きく両手を広げ、何かを叫びだした。

「天の神々に奏上す。その加護により、この地に降らんとする災厄をけたまえ」

 すると女性は少しだけ声を抑えると、手元の石を強く握った。

「そして我が息子、ミホススミが無事であらんことを……」

 


 突然の無機質な機械音に少年は、はたと目を醒ます。

 玄関のインターホンが、来客を知らせていたのだ。

 だらしなく流れていた口元のよだれを慌てて拭きながら、周囲を見回す。

 そこは見慣れた自分の部屋。

 学校から真っ直ぐ戻った彼は、両親が共働きで不在なので、玄関前に置かれた宅配の料理キットの食材を冷蔵庫に仕舞うと、自室のベッドで昼寝をしていた。

 平日の彼の日課みたいなものであった。


「なんだかヘンな夢を見てたな」

 慌てて上半身を飛び起こすと、階下の玄関に向かう。

南方みなかたさんのお宅ですか? こちらにハンコをお願いします」

 配達業者から大きな段ボールを受け取る。

 伝票を見ると、それは母宛てであった。

 発送主は彼の母方の実家である、島根の祖母から。

「ばあちゃんから?」 

 彼がまだ中学二年生だった頃、見舞いにいったのが祖父との最後の対面であった。

 その翌年、祖父は亡くなった。

 それから二年を経て今は高校二年生になっていた。

 つい先日、実家の父の三回忌に向かうため母は数日留守にしていたが、昨日帰宅したばかりであった。

 てっきり祖母が東京に嫁いだ娘に向けての仕送りの品か、母が身軽に帰宅するために法事を終えて自宅に送った荷物であろうと思った彼は、段ボールを開封することもなく、母の帰宅を待っていた。



 その日の夕食。

 食卓に座りスマートフォンを眺めながら晩御飯を待っていた彼の目の前に、小さな包みが置かれる。

「はい、これ。タケルにおじいちゃんからよ」

 驚いた少年――健は、目の前の小箱を喜び勇んで開けた。

 祖父はもう亡くなっているわけだから、生前の贈与品か何かだろうか――わずかな期待と共に箱を開けると、そこには脈絡ない物品の数々。

「これは……ハンドルを回すとスマホを充電できる防災用アイテム?」

 それだけではない。

 ソーラータイプの充電器に予備のスマートフォンバッテリー。

 グリップを握ると火が点くガンタイプのプラスチックライター。

 仏前に供えるものとは思えない長さのロウソク。

 日本地図の全国版に、小難しそうな日本史の書籍。日本神話の本もある。

 そして祖母の文字と思われるメモが入っていた。

『おじいちゃんから健へ。夢のお告げだそうです』

「なんだろ? なんのお告げなんだ? キャンプ場でも行って勉強合宿して、文系の大学で歴史を専攻しろって意味かな?」


 若干、期待外れともいえる品々を前に健は困惑していたが、夢と言えばつい先程、昼寝の際に見た奇妙な光景が脳裏をよぎった。


 だが、箱の奥には小さな封筒も入っている。

 これこそがきっと、ばあちゃんからの小遣いに違いない――そう思った彼は途端に夢の事など忘れて、嬉々として封筒を逆さまにすると、首紐のついた淡い緑色の石が落ちてきた。

「……なにこれ?」

 彼は金銭的価値のわからない、小さな石くれを見て明らかに落胆させた。


 だが、盛り付けをしたおかずの皿をテーブルに置いた母は、健が持つその石を見て笑い出す。

「やだ、お父さんったら。タケルに翡翠ひすいのアクセサリーなんて、女の子じゃあるまいし」

「翡翠?」

「ジェイドって言ってもわからないわよね? まぁようするに宝石の一種みたいなものよ。でもあんたのおじいちゃんが住んでた出雲は、そういう石をたくさん加工してたって有名らしいわよ」

「じいちゃんはそれを勉強しろって意味で、この本を入れたのかな?」


 健は天井の照明に石をかざして、まじまじと見る。

 白色の混じった淡い緑色のそれは、薄い楕円形に加工されており、中央よりも上に寄ったところには孔を穿って、そこに紐が通されていた。

「アクセサリーって言うには、なんだかヘンなカタチだ」

 夕食の支度を終えた母はタオルで手の水気を拭くと、自分のスマートフォンを手に取る。祖母に礼を伝えようとしたところ、先駆けて祖母からの新着メッセージが入っていた。

「お母さんは美保みほの所にもなんか送ったらしいわよ」

「姉さんのところにも?」




 翌日。

 健は学校の最寄りから数駅の、静かな住宅街のある改札口に降り立った。

 商店街のはずれの裏路地にある、二階に住居を備えた小さな店舗で、閉店した路面沿いの喫茶店ごと、居抜きで借りたものだった。

「兄さん、お邪魔するよ」

「よう。来たな、タケル。ゆっくりしてけよ」

 兄とは呼んだが、実際は健の姉である美保の夫――すなわち義理の兄、すすむ

 ここは彼が営む店だ。

 雑貨屋ではあるが、大きなL字型のモダンなカウンターはそのままにしてある。

 非常に雰囲気があるから、との店主のこだわりだ。

 進の妻でもあり健の姉の美保は大手商社の外渉部でキャリアウーマンとして働いている。義兄はそんな姉や友人らが海外の出張先や旅行先で見つけてきた珍品を細々と売る雑貨屋の店主として、悠々自適にやっていた。

 店内はアンティークっぽい調度品や、ビンテージなのかよくわからないくたびれた衣類が置かれていたり、さほど高価ではない貴金属もそこそこあるが、大半はなにやら怪しげなブリキのおもちゃだったり、コレクターズアイテムらしき古いレコード盤だったりと、統一感はない。



 前の店からそのまま残置されていたカウンターにコルク製のコースターとグラスを置いた進は、そこにソーダ水を注いでいく。

 商品の陳列だけでなく、客との商談や来訪者との雑談のため、敢えてカフェコーナーとしても機能を残していた。

「ゆうべ、島根のばあちゃんからなんか届いた?」

「あぁ、美保の母方のおばあさんだろ? 俺みたいな限りなく他人な者にも、わざわざ心尽くしをくれて、ありがたいもんだ」

 姉と義兄には、いくらかの金銭が渡ったと勘違いした健はわずかに腐る。

 そんな義弟の様子を察知した進は苦笑した。

「魚の干物や海苔の佃煮だよ。お前が期待した物では無いから安心しろ」

「ふーん……それでも僕も食べ物ならまだ良かったよ」


 健は未だ腐った様子で、乱雑にトートバッグをカウンターに置いた。

 その中には、ゆうべ島根の祖母から届いた荷物を入れていた。


「ローソクに『チャッカ君』、日本地図と歴史の本、オマケにスマホの防災用充電器ってどういう意味だと思う?」

「どこか隔世の秘境で、のんびり勉強合宿でもして来いという意味じゃないか?」

「やっぱり兄さんもそう思うよね?」


 進はその中のひとつであるガンタイプのライターを借りると、換気扇のスイッチを入れて、煙草に火をつけた。

 そして健とは反対方向に大きく息を吐き出す。

 灰皿に置かれた煙草の先端からは、紫煙が換気扇で攪拌された室内の空気に揺られて、行く当て無くゆらゆらと漂う。


「あとは、こんな石しかないんだけど……」

 健は小さな封筒を逆さまにした。昨晩と同様に、淡い緑の石が付いたアクセサリーがころんとカウンターに落ちる。

「ほう、翡翠の勾玉まがたまか。面白いな」

「せめてこれを売ったら、いくらかの価値はあるかな?」

「どうだろうなぁ……石の価値はピンキリだからな。パッと見では、そんなに精巧に造られたり、年代物って風合いがあるのかどうかすら、わからんなぁ。そもそもおばあさんがお前にくれた物を売るなよ」


 よく知る宝石のイメージのように決して美しく光るものではなく、淡泊な色味は、健が子供の頃に買っていたラムネ味のキャンディを思い出させた。

 おまけに楕円形でCの字になった真ん中には穴を開けて、安っぽい紐まで通してある。ファッションで身に着けるにしても、その珍妙な形状は、いささか人目を引いてしまい恥ずかしそうだ。


「翡翠のネックレスなら、ここにもあるぞ」

 健は義兄の進がカウンターの脇に並べたネックレスをまじまじと見る。

 勾玉とかいう妙な形状ではなく、研磨されて輝く小さな緑の石がチェーンの先端についており、これこそがまさに装飾品という風体であった。

「同じ石とは思えないや。どうせならこういうやつが欲しかったのに」

「なんだ。タケルも調子に乗ってアクセサリーでも着けてモテようとしてるのか?」

「いや、僕がアクセサリーをするってよりは、売ったらお小遣いになるかなって」


 未だ小遣いに執着している義弟に、進も呆れて次の煙草を取り出した。

「兄さんだってその石は、ばあちゃんかじいちゃんから貰ったやつを勝手に売ってるんじゃないの?」

「バカ言うな。ちゃんと知り合いが北陸に行った時に仕入れた物だ。新潟県の糸魚川いといがわが有名な産地なんだよ」

「ふーん、島根で採れる石じゃないんだ」

「タケルはやっぱり地理や歴史の勉強が必要だな。雑学ってのは客との商談でも使えるし、知識はお前自身の武器になるんだぞ」

 勉強にはあまり身の入らない健は、進からの忠告に苦笑いをする。


「もともと翡翠は糸魚川が一大産地だったんだ。島根の玉造たまつくりをはじめ、東北や九州と、相当広範囲に輸出されていたんだ」

「この石が? だって勾玉って日本史で習ったけど、たしか昔の人がサバトみたいな儀式で使ってたやつなんでしょ? そんな価値があるの?」

 進は目を丸める義弟を見て、笑みを浮かべながらうなずく。

 そして煙草を灰皿で揉み消すと、カウンターに置かれたブリキ製のぜんまい自動車を手に取った。

「物の価値ってのは、その時代に併せて変遷していくものだ。他の人から見たらガラクタでも、ある時代ではその物の用途と価値が高騰していることもある。十六世紀のヨーロッパではチューリップの球根が高値で取引されたくらいだ」

「古墳時代とかの当時は凄い価値だったってこと?」

「金銭的な価値うんぬんではないだろうな。祈祷や呪術で用いる石だ。ある種の権力の象徴だったり、未知なる力の証ってところだ」

「へぇ、この石がねぇ……」


 なんとなく理解できていない健は、カウンターで陳列されたアクセサリーの先端にある石に触れた。

「こら、あんまり触るなよ。売却済だから、これから客に引き渡すんだぞ」

 それを聞いた健は、焦って制服のシャツの袖口で石を撫でた。

 その瞬間、石は彼の網膜に届くかどうかの、淡い光を幾度も輝かせる。

「えっ?」

 ふたたびまじまじと石を眺めたが、もう光ることはなかった。

 店内の照明か、窓から差す太陽光の加減だろう――。

 健もそれきり、気にすることはなかった。



 そこに、入り口のドアがノックされ、ゆっくりと開かれた。

 それでも店内には、呼び鈴がわりのドアベルがからからと鳴り響く。

「おじゃまします……あれ? 南方くん?」

 入口を開けた少女は、カウンターに座る健を見るなり、驚きの声を上げた。

 それに反応した健も、その少女を見返すと驚いて肩を跳ね上げる。

「えっ? 弥栄やさかさん?」

「なんだ、うちの常連さんと健は知り合いなのか?」

 そんな二人の様子を見ていた進は、にやにやと問い掛ける。


「いや、クラスメイトの女の子だけど……どうしたのさ?」

「南方くんこそ、どうしたのよ。なんでここにいるの?」

 会話は一向に進展せぬまま、クラスメイトの弥栄は店内に入って来た。





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