越の翠華 ~僕と古代出雲大戦

邑楽 じゅん

序章 ある少年の回顧録

 広大な平原の前で、両軍は睨み合っている。


 武器を手に前線に立つ男衆は、麻か綿で織られた簡素な衣服を身に着けていた。

 身を守る物と言えば、粗鉄や青銅を加工して造られた肩防具や胸当てくらいだ。

 中には防具らしい防具を着けていない、衣服だけの剥き身の者もいる。


 手にした得物えものは槍、短剣。

 後方には弓を構えた部隊が待機し、さらにその背後には投擲とうてきに使用される石が積まれている。



 両軍が対峙する前線から後方に向かって駆けていく二人の姿。

 ある少年と、それに寄り添う従者の兵。

 筋骨隆々の他の男達に比べれば少年の身体は華奢で、わずかに走っただけで息を切らしていた。

 ただその背丈は周囲の男に比べれば平均的なそれよりも高く、脚も長い。

 そして、その服装は白のワイシャツ、黒のズボンには革のベルト、紺色のベストに灰色のストライプのネクタイ。

 周囲の者と比べても、彼の衣服は異質であった。

 かと言って、交易で入手した舶来品とはとても呼べない。

 いまこの時代の技術や素材で編まれた被服とは隔世のものであるのは一目瞭然だ。


「タケミナカタ殿! この状況を早くヌナカワ姫様にお伝えくだされ!」

 従者の一人は前線からある程度離れた場所まで少年を送り届けたところで、片膝をついて奏上する。

「わかってます! どうかみんなも無事で!」

 それから少年は単身、草原を駆けていく。

 見晴らしの良い低地の周囲には屹立した小高い山々が散見され、薄雲が幾重にも山頂付近にまとわりつく。

 やがて少年は草むらの窪地に身を屈めると、その姿は途端に消えていった。




 しばし目を瞑っていた少年は、丸めていた背を伸ばす。

 そこは先程まで居た草原ではない。

 眼前には高い波が押し寄せる海岸線。

 大小さまざまな石くれが波に洗われ、その身を輝かせている。


 少年は、大きな木造の建物へと向かっていく。

 枝葉を落とした丸太で造られた塀が建物を取り囲み、その周囲には土塁ができている。高貴な者が住むであろう屋敷なのだが、武器を手にした警護の兵たちは慌ただしく動き回り、なにやら物々しい雰囲気に包まれている。

 それは平時の、富める国の穏やかな首都の雰囲気ではない。

 ここも戦乱に巻き込まれようとしているのだから。



 槍を構えた兵は、息も絶え絶えに駆けてきた少年に敬礼をする。

 そのまま少年は革靴も脱がずに屋敷にあがると、木床を騒がしく蹴りながら、ある一室に向かった。



 薄暗い部屋では、火を焚かれている。

 赤橙に揺らめくほむらは、まるで人の影が踊るように木造の壁に浮かび上がり、重苦しい室内の雰囲気と相まって、さも呪術が行われているかのようだ。

 いや、実際にこの部屋では祭祀が行われていた。

 男達が膝を折り炎にぬかづく。

 火が焚かれた正面では、長い黒髪を頭上で束ね、色彩豊かな衣を幾重にも纏った女性が、榊の枝を振っていた。


「姫っ! 大変だっ!」

「おぉ、戻ったか。構わぬ、祭祀は後回しじゃ。みな、すまぬがしばし下がってくれぬか。息子と話がしたい」


 少年が姫と呼んだ女性は、榊を置いて立ち上がると人払いをする。

 だが、俗に世間一般の『姫』と呼ばれる者達や、祭祀を行う巫女にしては、やや歳を重ねていたようだ。

 それでも、男達に下知を出せる冠位や地位の者であるらしく、加えて周囲に居る兵や家臣と比べれば充分に若々しい。

 その命に従い、男衆は一様に頭を下げると、退室して行った。

 周囲に人の姿が無くなったところで、祭祀を行う女性は声を落として尋ねる。

「で、どうであった、タケルよ。首尾は?」


 タケミナカタともタケルとも呼ばれた少年は、焦った様子で何度も首を横に振る。

出雲いずもはもうヤマトの軍勢に囲まれているんだ。兵の数や武器でも圧倒的すぎるよ。たぶん陥落するのはもうじきだよ」

 すると女性は端正な顔を苦々しく歪めると、爪を噛んだ。

「やはり一気に動き出した、ということか」

「それだけじゃなくてさ。こっちにも……高志こしだけじゃなくて、科野しなのにも兵が向かっているんだよ。姫も早く逃げた方がいいよ」

 だが、少年の提案には女性は毅然と掌を伸ばす。きっぱりと断るように。


「タケル、そなただけでも逃げて落ち延びろ。わたしは高志の女王、ヌナカワとしての責務がある。このクニの民と共にここで最期まで戦うつもりだ」

「ダメだってば! 姫までそんなこと言ってたら、それこそ出雲が逆転するチャンスが無くなっちゃうよ!」

「もはや、その夢も叶うまい……あぁ、口惜しや。ヤマトはやはり老獪で姑息な連中であったか……」


 そんな会話の最中、建物の外がにわかに騒がしくなった。

 男達の怒号や、女性や子供の悲鳴が聞こえる。


「そなたの言う通り、ここや科野の州羽すわにも兵を同時に仕向けていたのであろう。よもやヤマトに内通する者が居たのか、我らに協力すると見せかけて掌を返したクニがあったか……いよいよ戦が始まったようだのう」

 どこか他人事のようで、遠い目をしながらヌナカワはあらぬ方を見ている。

 それは出雲の方角。

 別居する夫が統治する国であり、自分の息子の故郷でもあった。

「せめて出雲が負けなけりゃ……やっぱり出雲は負けちゃうなんて……」


 だが、少年はそこで、はたと思い出す。

 自分が発した言葉であったのだが、その耳に残る語感や既視感は、既に聞いた言葉であったかのようだ。

 それはいつの頃だったか。



 確か、その言葉を聞いたのは中学生の頃だったはずだ。

 祖父だ。


 母方の祖父が亡くなる前年、病気の見舞いも兼ねて、夏休みの盆を利用して家族で会いにいった。

 鳥取県の境港さかいみなとと隣接する、島根県の湾の近く。

 漁業を支える港や、巨大な造船所、コンビナートなどがあったが、都市部を離れたらすぐに田舎の景色に変わる。

 平地は少なく、切り立った山々が海岸線のすぐ近くまで迫り出していた。

 潮風は山頂でぶつかり、もくもくと湧き出る雲のせいでいつも曇天の少し陰鬱とした町だったと少年は記憶していた。



 でも、彼の祖父はその景色が好きだと言う。

『八雲立つ』という言葉を教えてくれたのも祖父だった。

 別に雲が八個ある訳じゃない。八割の確率で曇りという訳でも無い。

 なぜだか『八』はたくさんって意味らしい。

 八百万やおよろずとかもそうだ。

 本当に八百万柱の神様が居るわけじゃなくて、凄いたくさんってことだ。

『八』とか『八十』もそうだ。

 そんな彼の祖父は晩年、すっかりと病気と高齢で弱っていた。

 なので母の実家に皆で遊びに行った時、祖父は自宅のベッドに横になったまま健に向かって言葉を絞り出した。

『もし出雲がヤマトに勝っていたらどうなっていただろうか……なぜ出雲は負けてしまうのだろうか……』と。

 少年にはその時、発言の真意がわからなかった。


 でも今ならその理由が分かる。

 やっぱりヤマトには勝てないのか、って。

 しょせん出雲は負け続けるのかって――。



「さぁ、タケルよ。追手から逃れて科野の州羽の海に向かうのだ」

「いや、ダメだよ! やっぱり姫も一緒に逃げようよ! 逃げて逃げて逃げまくって、反撃のチャンスを窺えばいいじゃん!」

 合戦の物音はすぐそこまで近づいてくる。

 だが、女王ヌナカワは首を横に振ると、少年の手を握った。

 そこに託したのは、ひとつの翡翠の石。

「これはわたしとタケルとの思い出だ。どうか大切に持ってて欲しい」

 彼の掌には、小さな石が翠緑に光る。

 この石のせいでこんな目に遭うなんて、と最初は憎たらしく思ったものだが、少年は今やその石を見るうちに、不甲斐なく瞳に涙をいっぱいに溜めた。


 これは足元にどこにでも落ちているという、高志ではごく普通の石くれ。

 しかし、この時代では祭祀や儀礼に用いられるとても大切なものでもあった。巫術や呪術を司る魔性の石でもあり、神の加護を得た奇跡の石でもある。

 それゆえに彩色が美麗ではなかったり、加工に失敗した不必品ならば、簡単に打ち捨てられる程に潤沢に採れる石だ。

 だが、この石こそがこの旅の最初の発端であった。



 そして物語は遡る。

 少年が暮らす現代の時間では、ほんのわずかな間のことであった――。

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