わたつみを還すもの
南方 華
・
私は小学生の頃から、背の高いことがコンプレックスだった。
男子にからかわれ、泣きながら家に帰ってくることも多かった。
そんな私が変わったのは、とある暑い夏の夜のことがきっかけだった。
「入った、完璧な
テレビの前に私はかじりついた。
かっこいい、ものすごくかっこいい……!
背の高くスレンダーな姿のその人が金メダルを手に笑顔を向ける姿を見て、私もこんな風になりたい、強くなりたい、と思うようになった。
それから、――数年の月日が経ち。
「今日はここまで!」
「
私は中学三年生になり、近くにある道場で練習に精を出していた。
「美佐江、もう少し
「押忍!」
「大会も近い。慢心するな」
「押忍!」
小学生ではチャンピオンとなったものの、中学生では一年、二年と振るわなかった私は親の転勤で、この知多半島の美浜町というのどかな地で暮らすこととなった。
中学校に柔道部すらない環境であったが、柔道道場は一か所だけあり、そこで師範に恵まれた私は、男子に引けを取らないほどの成長を遂げた……と自負している。
そんなことを考えながら、家路への道を自転車で駆け抜けていく。
海辺で夏が近いこの時期は、少し湿気の多い空気がまとわりついてくる。
一方で、夜もこの時間になると車はほとんど通っておらず、走りは快適だ。
鼻歌でも歌いそうな心持ちでいると。
ふと、背後から妙な気配を感じ、スピードを落とし、振り向く。
が、誰もいない。
「気のせいかな……」
そのまま進んで行き、
灯台前の広場に入り、自転車を止め、恐る恐る後ろを確認する、と。
そこに居たのは、全身緑色の怪物だった。
「ひいいいいい?!」
「おおっと、驚かせてしまったようだね」
穏やかな声がその怪物から返ってくる。
あまりにも落ち着いた声に拍子抜けしつつ、こういう時こそ冷静に、と心を静めながら、目の前に居る緑色を再確認する。
それは、何度かは目にしたことのあるモノだった。
「野間……太郎?」
野間太郎とは、知多半島の西海岸沿いにある野間海水浴場の近くに立つ、
海を目の前にしてなぜか造られたその河童像は、いつしか美浜町の観光名所としてもてはやされるようになっていた。
「いかにも。野間太郎だ」
「帰ろ……。今日の乱取りきつかったもんね……」
「ええい、娘! 現実を直視せよ!」
そう言われて、改めて見る。
緑色のつるんとした身体はなんとも言えない可愛らしさがあり、本来河童という妖怪の持つ不気味さを見事に相殺している。
「うん。で、帰りたいんだけど……」
「ふ。娘よ……、貴様は選ばれたのだ」
「何に?」
もうこの時点でろくなことにならないという直感はあった。
けれど、このあまりにも非現実的な状況に少し興奮していたのかもしれない。
私は野間太郎の話を聞くことにした。
「ところで、河童の川流れというものを知っているか」
「ことわざだよね。泳ぎの上手い河童でもうまく泳げず、川に流されてしまうことがあるという」
似たような表現に、弘法も筆の誤り、猿も木から落ちる、などがある。
「それで、川に流された河童はどこに行く?」
「どこって、それは……」
川は上流から下流に流れていく。
そして、その終着点は。
「海……に流される?」
「ご明察だ、娘よ。最後は海に流されるわけだが、基本的に河童は淡水でしか生息できぬ、海水では生きられぬのだ。だが――、稀に環境に適応する河童が居る。それは海と一体化し、やがて、こう呼ばれる」
「何それ、河じゃなくて海の
「ああ、そうだ。海童、これは別の読み方もある……、それは
その時、波の音がひときわ大きく響いた気がした。
「ワタツミとなった
「海の神様って何となくいい雰囲気だけど」
「確かに日本の神話でも、ご利益のある存在として描かれている。航海安全、豊漁、
「同時にこういう意味もある。
「いい意味だと思うけど」
だが、野間太郎の口振りにはどうしようもなく不吉の気配が見え隠れしている。
「
「それは、勿論、流される。……それって?!」
「そう、神話の世界ではままあること。圧倒的な水の力を以てすれば、地上文明を終わらせることなど造作もない」
私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
野間太郎の言葉は、真に迫ったものだったからだ。
「そして、今日はその『海童』が現れる日なのだ」
「そんな……」
「我々、海を見る河童達は、毎日それを監視する役目を授かっていた。と、同時にその災厄から人々を守る者を探す役割も担っていた」
野間太郎は、まるで指を差すかのように、身体を少しだけ傾ける。
「芦田美佐江。おまえこそ、このピンチを救える存在なのだ」
「へ……? でも、海童って神様なんでしょ? サイズは?!」
「そこにある灯台よりデカい」
「いや、無理。無理だって、私、戦うとかそんなのは」
「戦うのではない。『取組』に勝つのだ」
「と、とりくみ?」
「娘よ、河童の好きなスポーツは何だ」
「そりゃ、あれでしょ。相撲……」
「そう、お前には海童と相撲を取ってもらう!」
頭の中に、相撲の伝統的な寄せ太鼓の音が流れていく。
いや、待って。
「って、柔道は少しくらいできるけど、さすがに相撲はちょっとお門違いかな?!」
「似て非なるもの。が、根源は同じである」
「……まあ、技とか似ている部分もあるけれど」
柔道は間合いとせめぎ合い、力の流れを読み取り、一瞬を制する競技だ。
一方の相撲は、まず力と力とのぶつかり合い、そしてその力のせめぎ合いの中から力の流れを汲み取り、支配する競技だ。
勝ち負けのルールも違うし、それに応じて身体の作りも変わってくる。
本当に似て非なるもの、なのだ。
「あと、相撲の土俵は女人禁制では……」
「神の決まり事にそれはない。
言われてみればそうである。
リアルな土俵だったらきっと、とてつもない怒られ方をしていることだろう。
「でも、神様相手で力の勝負はちょっと……」
「大丈夫だ、このスカーフを首に巻くがよい」
野間太郎の手に突然赤いスカーフが現れ、手渡される。
私は言われるがままに着けてみると。
「ふおおおおお?!」
見る見るうちに身体が巨大化していく。
「ちょうど海童と同じ大きさくらいだ。そのスカーフに込められたエネルギーにより、力も互角となる」
「つまり、あとは、競技者としての力量……!」
といっても、相撲はやったことがないから不安ではあるけれど。
何となくスカーフから流れ込んでくる強大な力は何でも出来そうな高揚感を生み出している。
野間太郎の言うことが事実であれば、何とかしないとこの世界はピンチなのだ。
こうなったら、やってみるしかない!
「ちなみに、取組に勝つまでそのスカーフは取れない。しかも、取組が始まってから4分以内に取らなければ、ずっとその身体のサイズのまま生きることになる」
「……え?」
*
灯台前の海に唐突に設けられた土俵に、私は上がる。
そして、奥の伊勢湾から、ソレは現れた。
野間太郎のような全身緑色の身体で、腹はカエルのように大きく膨らんでいる。
上半身裸で、きっちりまわしを装着している。
間違いなく、相撲取りとして完成された姿をしていた。
「西ぃ~、海童~、海童~」
「東ぃ~、美佐江~、美佐江~」
どこからともなく行司の声が響き渡る。
特に塩をまくといった行動はせず、向き合い、手を突いて――。
全力で、がっぷり四つ組み合う。
それは、10トントラックと正面衝突でもしたんじゃないかという凄まじい衝撃だった。
だが、信じられないほどの圧を受けつつも、私はそれをしっかりと止めている。
負けていない……!!
柔道ではないため、
長い手足はこういう時に便利だ。
一方の海童も私の制服のウエスト部分を取り、
膠着状態とは言うが、密着している部分は常に強い力がかかっており、少しでも気を抜けばバランスが崩れ、一気に技をかけられるだろう。
また、脚の動きも見逃せない。
海童の足は、元河童らしく少しシャープで、長い。
つまり、柔道のように足技を
師匠の言葉をふと思い出す。
隙を見せろ。
そして、相手の攻めを誘え――、それこそが。
「いよっし!」
瞬間、ぐっと一気に力を溜めると、腕だけで投げに行こうと重心を動かす。
と、その瞬間、待っていましたと言わんばかりに海童は外側から足をかけ、崩そうとする。
いわゆる小外掛け、相撲では何というのだろうか。
この状態の相手は技の動きに入って足も浮いている。
これこそが、最大のチャンス。
柔道では使えなかったけど、一度だけ遊びで使って道場出禁寸前まで怒られたけど、確か相撲では問題ないはず……!
「とおおおおりゃああああああ!」
飛んできた外掛けの足を内側から巻き取るようにひっかけ、そのまま後方に投げ落とす。
まさか河童相手に使うとは思わなかったけれど――。
「――ただいまの決まり手は河津掛け、河津掛けで美佐江の勝ちぃ~」
大きく息を吐くと、定位置に戻り、勝ちの姿勢を取る。
目の前を見ると、海童は背を向け海へと去っていくところだった。
満足な取組であるのは、その誇らしげな背中からも容易に見て取れた。
……と、勝利の余韻に浸っている場合ではない。
「時間は……!」
取れるようになった赤いスカーフを慌てて外す。
が、しかし……少しだけ縮んで、そこから全く元に戻る気配がない。
野間太郎が、残念そうに
「娘よ、残念だったな……」
「そんな!!!」
あまりのショックに私はバランスを崩し、野間埼灯台を抱きしめるようにして、何とか身体を支える。
こうして、私は人よりデカい女、から、人外のデカさを持つ女へと進化を遂げたのだった。
*
「というのは冗談だ。ほれ、これを食え!」
と、野間太郎はそれを悲しんでしゃくりあげる私の口の中に放り込む。
すると。
「あ、あれ」
次の瞬間には元通りのサイズに戻っていた。
「全く、秘蔵の
「え、そんなもの食べさせられたの」
尻子玉って、人間のお尻の中にある謎の玉なんじゃなかったっけ。
「まあ、そこはさておき万能の薬だ」
「そっか……」
「それはそれとして、例を言うぞ、娘よ」
「まあ、ただ相撲を取っただけなんだけどね」
「神相手に相撲を取り、勝つというのは、並の人間には出来ぬ芸当だ、誇るがよい。では、私は元の位置に戻り、この陸の安全のため、海を見守ることにしよう」
「……また、会いに行くよ」
「ふ、その時はおそらく何のリアクションも出来んだろうがな」
手を振って去っていく野間太郎を見ながら、私は自転車を
時間を見ると、最後に確認した時から、たったの数分しか経過していなかった。
幻でも見たんだろうか。
いや、あれはきっと特別な時間だったのだ。
私は身体に残る熱を全身に感じながら、前へ、前へとペダルを押していく。
わたつみを還すもの 南方 華 @minakataharu
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