亡霊の復活
リハビリが始まって三か月、早くもクリスマスが近づきつつある。ゼレンスキー大統領はアメリカ合衆国やEUの支援を受け、戦闘機や戦車をなるべく多くそろえるべくさらなる支援を呼びかけているが諸外国の態度は煮え切らないものだ。そんな十二月のとある日曜日のことだ。僕はこの三か月でかなり楽に歩けるようになり、今日は病院内を歩いていた。
「この前はすまなかった」
そんな声が聞こえてきて顔を上げると、ドニプロから脱出した朝も時計を二つつけていた、あの老人が立っていた。
「謝らないでください」
言うと老人は携帯電話を取り出す。待ち受け画面には30代後半であろうか、精悍な眼差しの男が映っている。
「息子さんですか」
「ああ。つい五か月前まではドニプロの街を守る中隊長だった。ロシア軍の攻撃で死んでしまったがね」
老人の右腕では、傷だらけだが新しい、軍用の腕時計が動いている。僕がそれを見つめていると、老人はまた話し始めた。
「九月十八日だったか、あの朝に俺の時計が止まったあと突然動き始めたんだ。あいつが帰ってきたような気がしたよ」
「それであんなに時間を聞いてたんですね」
僕は自分の時計と老人の右腕で動いている時計を見比べる。時計の針は二時間五分進んだ時間を指していた。
「息子の時計が指した時間は違っていた。俺は最初合わせようと思った」
「でも、そうはしなかったんですね」
老人はうなずく。彼の目には、あの朝にはなかった生気のようなものが宿っていた。
「息子の時間だ。俺に合わせちゃいけないと思い直したよ。俺の時計は後で修理したいが、あいつの時計はこのままでいい。あいつは間違いなく俺より進んでいた」
「そうなんですね」
老人から目をそらす。彼の言いたいことは、僕の心を刺した。僕がいた世界の方が、不本意ながら進んでいた。何もかもが最善だった。しかし、今ここにある現実はあの現実より何倍も遅れていて、不本意なものだ。
「君も、あいつと同じだろう」
「どういう意味ですか?」
反射的に聞いていた。この世界のために、もう一度戦う理由がほしいからだと気づくのにしばらく時間がかかった。
「そのままの意味だよ。あいつはこの国と自由、そして何より愛する者たちのために戦いに行くと言っていた。俺も行きたかったが、結局は歳のせいにして諦めた。よく聞く話だが……戦って傷つき、そして死んでいく兵士達がその人生の最後に口にする言葉で一番多いのは母を呼ぶ言葉、次に多いのが助けを乞う言葉らしい。結局、心から愛する者のために戦う兵士は皆、同じなのだろう。極限まで突き詰めれば兵士達は身の回りにある、自分が愛すべき世界を守るために戦っているんだと俺は信じている。君らからしたら今の言葉におかしなところは山ほどあるかもしれない。でも俺は少なくとも俺のやってた店で、そうした理由で戦う兵士達をたくさん見てきた」
僕は少し迷った挙句、老人に心の中にある
「……実は僕には、撃墜された時までの記憶がありません。身の回りの世界を守ろうと思ったところで、身の周りはもう書き換わっているんです。ですから僕がもう一度戦って家に帰ったとしても、そこに愛する家族はもういない。いたとしても永遠に別人です。だから、僕はきっと戦う理由が欲しいんです。もう一度あの空を飛ぶ理由が」
「俺たちは我らがウクライナ軍を応援しながら困難に耐えていることしかできないが、あんたたちウクライナ軍の兵士は実際に戦ってる。もしよければ、戦争が終わったら……そして全てが元通りになったら、その時あんたが覚えていたらドニプロに来てくれ。俺の店が再開できてたら一杯やろうじゃないか」
老人はそう言って僕を見つめる。僕は大きくうなずいて老人に応えた。僕の心の中は、もう一度飛ぼうと試みる幼鳥のようだった。
キエフの亡霊Ⅱ――THE SCORPION GRASS―― 古井論理 @Robot10ShoHei
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