九月十八日、午前七時

 僕たちの救急車が到着したのは、クレメンチューク市街の中心付近に位置するクレメンチューク第三市立病院だった。朝焼けに照らされたクレメンチュークの街は、いたるところに攻撃の跡が残る悲惨な状態である。

 病院のスタッフが救急車のドアを開けるとすぐ、腕時計を二つ右腕につけた老人が言った。彼は少し慌てた様子で古い方の腕時計を指差している。

「ドニプロを出たのは今朝の四時半だった。今は何時か教えてくれ」

 スタッフは驚いた表情を浮かべ、無言のまま老人の右腕を見る。

「すまんが、この腕時計は今朝でどっちも壊れちまったんだ。なんせ古いもんでね、動いてた俺のも爆発の衝撃で止まっちまった。止まってるからボケ老人でも出た時間が分かるんだがな。まあそんなことはどうでもいい、今は何時だ」

 老人は異様なほど切羽詰まった表情でスタッフに時間を聞く。

「どうされたんですか、そんなに時間を気にしなくてもいいのに」

 隣にいた老婆がそういっても聞くのをやめない老人に、スタッフは不思議そうにしながらも口を開いた。

「今ちょうど午前七時になりました」

 そう言いながらスタッフは僕たち全員の脈をとり、検温を済ませていく。

「ではしばらく車内で待機していてください」

 スタッフはそう言って、車を出て行った。時計の文字盤をのぞき込む老人に、隣の老婆は苛立った様子で言う。

「どうしてあんなこと言ったんですか?」

 そう言われて、老人は途端に泣き伏した。

「すまない……、本当に。俺の……、息子の時計なんだ……」

 皆が何かを察した様子で、車内の空気が悲しみに包まれる。老人は我を忘れたかのように、さっき指差していなかった方の時計を撫でた。涙が顎を伝い、老人の腕を、膝を濡らす。僕は老人の撫でている時計が軍用時計だと気づいた。車の中にいる誰もが気づいていただろう。

「すみませんでした」

 老婆はそう言って気まずそうにしている。老人は涙を左手の袖で拭き、作り笑いを浮かべた。

「いいんだ、俺が悪かった。みんなも同じかもしれないのに」

 僕は何も言えないまま、ただ救急車の窓の外を見つめた。病院のスタッフがなにやら話し合っているのが見える。円を描くように集まった彼らは一様にうなずくと、それぞれ別の救急車へと駆けてゆく。僕たちは老人の息子をも背負い込んでまだ生きているのだと思う間もなく、救急車に駆け寄ってきたスタッフはドアを開け、まずは老人たちを一人ずつ救急車の外へと案内した。彼らは腰に手を当て痛そうにしながら病院の入り口を抜ける。続いてギブスをつけて老人たちの隣で、あるいは老人たちの向こうですやすやと眠っていた子供たちが病院に入り、最後に僕とマリーティカに声がかかった。

「あなたたちはリハビリテーションセンターに移送しますので今少し待機していてください」

 スタッフの指示に従い、椅子に座ったままでいると、車椅子が運ばれてきた。僕は車椅子に乗せられて病院に入り、マリーティカは三角巾をつけて肩を保護してから歩いて病院に入る。この日、二〇二二年九月十八日から、僕の本格的なリハビリが始まった。

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