最低な男
石花うめ
最低な男
会社の売上げ110万円が、金庫から消えた。
昨日の仕事終わりに確認したときは、たしかにあったのに。
売上げ金は経理担当の僕が仕事始めと仕事終わりに確認し、金庫で厳重に保管しているので、誰かが盗む隙は無いはずだ。一応金庫の鍵は社長も持っているのだが、緊急時以外には開けないことになっている。
出社早々、そのことを社長に報告しに行った。
社長は「以前から少し、君の管理意識が低いと思っていたんだ」と、腕組みしながら言った。
「申し訳ございませんでした」
僕は頭を下げる。
「水島くん。もしかしたら、君が横領したんじゃないかね?」
社長は僕を睨みつけて言った。
「そんなことは断じてありません」
「しかし、他にそんなことができる奴はいないだろう。君しか鍵を持っていないんだから」
「社長だって鍵持っているじゃありませんか」
「まさか、俺が横領したとでも言いたいのか?」
目をカッと見開いた社長は、声を張り上げた。
「いえ、そういうわけでは……」
「それなら君しかいないだろう。君の処分は考えておくから、ひとまず今日の仕事を始める準備をしろ」
「はい……。失礼しました」
管理意識が低いという社長の言葉に、僕は一瞬どきりとした。たしかに昨日の夜は、会社から帰って少し羽目を外してしまったからだ。しかし、それは仕事には関係の無いことなので、特に気に留めないことにした。
社長室から戻ると、オフィスが少し騒がしかった。
騒ぎの中心にいるのは、どうやら社員の相羽らしい。相羽は「俺の4630円が消えた! 誰だ、盗ったのは!」としきりに叫んでいる。
相羽は真面目な社員だ。まさかそんなことで大声を上げる人だとは思わなかった。それとも、お金のことだからこそ、いつもより荒くなっているのだろうか。
「相羽、落ち着け。身内を疑うのは良くないぞ」
僕が近寄って肩に手を置くと、相羽は露骨に僕を睨んだ。
「あなたですか、水島さん! あなたが俺の4630円を盗ったんでしょ!」
水島が怒鳴る。波紋は周りの社員にも広がり、オフィス全体がざわめきだす。
「いいから落ち着けよ、相羽」僕は相羽の肩をさすりながら言う。「僕が盗ったって言うんなら、僕の財布でも引き出しでも、好きに見ればいいさ」
「じゃあ、そうさせてもらいますわ」
相羽は僕のデスクに向かい、無遠慮に引き出しを開けた。
——残念。引き出しには、仕事の書類しか入っていないよ。
「見つけたぞ! 水島さんが犯人だ!」
「嘘だ!」
僕は相羽が開けた引き出しの中を見た。そこにはたしかに、4630円。小銭まできっちりと置かれている。
「……そんなはずないだろ。僕はちゃんと確かめて帰ったし……」
「でも、こうしてあったからには、タダじゃおきませんよ。きっちりと責任を取ってもらわないと」
相羽が何を言っているのか、分からなくなってきた。朝から二つも事件に巻き込まれるなんて、ツイてなさすぎる。
頭がくらくらしてきて、僕は思わず椅子に座って項垂れた。オフィスのざわめきが、僕の脳に黒い靄をかけてくる。
「おはようございます。朝礼を始めます。……水島、どうかしたか?」
社長の声が聞こえる。僕が顔を上げると、朝礼のためにオフィスに来た社長と目が合った。
「なんでもないです」僕は椅子から立ち上がる。
「なんでもなくないでしょ!」相羽がまた大声を出した。
相羽が社長に事情を説明すると、社長は重いため息をついて一言だけ言った。
「水島、後で俺の部屋に来い」
「はい」
失望を浮かべた社長の顔は、僕に言い訳の余地を与えなかった。
朝礼が終わった後、僕は言われるがまま社長室に来た。
「水島、君には失望したよ。まさか、会社のお金だけじゃなくて、人のお金まで盗むなんて」
「……僕はやってません」
「この期に及んで、まだそんなことを言っているのかね……。それにしても、人のお金を盗むのは絶対にやってはいけないことだ。会社のお金のことは一旦置いておくとして、ひとまず相羽に謝罪し、盗んだお金を返すように」社長はため息をつく。「それと、君の処分のことだが、相羽の件も加わると更に重くせざるを得ないな」
僕は何も言えなかった。冤罪とはいえ、ここまでいろいろ重なってしまったらクビを覚悟する必要がある。
喉の奥に何かが詰まったような感覚に襲われ、気分が悪くなった。
オフィスに戻り、先ほどデスクの引き出しに入っていた4630円を相羽にきっちり返した。
相羽はそのお金を僕の手から握り取り、
「水島さん、真面目な人だと思ってたんですけど、そういう人だったんですね」
と、目を合わせないまま吐き捨てた。
理不尽さに腹を立てながらも、僕は黙って頭を下げるしかなかった。
結局その日の仕事は全く集中できないまま、タスクは次の日に残して定時で退勤した。朝の一件以降、社長に呼ばれることはなかった。社長は僕の処分内容を決めかねているのかもしれない。それくらい、今日はいろいろなことが起こりすぎた。
家に帰った僕は、普段会社や外で使っているものとは違う、もう一台のスマホを開いた。
「なるべく、この方法は使いたくなかったんだけどなぁ」
その目的は、僕に罪を擦り付けた真犯人を探すことだ。
スマホの画面には、長時間の動画リストがずらりと表示される。僕はその中から、録画日時が昨日の夜のものをタップした。昨日僕が退社した後の時間帯だ。
オフィス全体を映した映像が再生される。
実は、オフィス内に隠しカメラを仕込んでいるのだ。
「ふざけんなよ!」僕は思わず叫んだ。
僕のデスクの引き出しにお金を入れたのは、相羽だったのだ。
映像にははっきりと、その瞬間が収められていた。相羽は僕のデスクの引き出しにお金を仕舞った後、キョロキョロとあたりを見回しながら画面奥の通路に消えていった。
「ん?」何かがおかしい。
相羽が消えていった通路は、社員がオフィスを出入りするときに使う通路ではない。社長室につながっている通路だ。
「まさか」
僕は、社長室に仕込んだ隠しカメラの映像を再生した。やはり相羽が映っている。
「グルだったのかよ」
社長室に仕込んだ盗聴器を再生すると、二人の話し声がばっちり録音されていた。
『社長。言われた通り、水島さんのデスクにお金を入れてきました』
『よし。報酬の一万円だ。それと、相羽くんがデスクに入れてきたお金も、そのまま君がもらっていいぞ』
『いいんですか?』
『ああ。あと、次の査定で君のランクを一つ上げよう。昇給だ』
『ありがとうございます! ——にしても、どうして水島さんなんですか?』
『彼が経理担当だからだ。彼には、俺のスケープゴートになってもらう必要があるからな』
『どういうことですか?』
『あまり深堀はするな。相羽くんに渡したお金の意味が分からないのか? 口止め料だよ』
『は、はい、ごめんなさい』
『俺に逆らうようなことをすれば、君をクビにすることも簡単にできるんだからな。それを忘れないように』
『はい、失礼しました』社長室の扉が閉まる音がした。
僕は思わず笑ってしまった。
——社長。あんたの罪、全部自分の口で白状してもらうぞ。
その時、玄関のインターホンが鳴った。
次の日の朝。大事な映像と音声が入ったスマホをポケットに入れ、僕は社長室の扉をノックした。
「失礼します」
幅の広い黒のエグゼクティブチェアに踏ん反り返って座る社長は、僕を軽蔑の眼差しで見ながら言った。
「何か用かね?」
「僕の処分についてですが……」
「君はクビだ」
社長はねっとりとした声で告げた。
「これを見ても、僕をクビにするおつもりですか?」
僕はポケットからスマホを取り出し、昨日撮れた映像を社長に見せつける。
「僕のデスクにお金を入れた犯人、相羽ですよ」
社長の眉間に皺が寄った。瞬きの回数が明らかに増えている。
しかし、よく見えないと言った様子で、老眼鏡を上げ下げして白を切る。
映像を無理やり見せつけるように、社長の顔にスマホを近づけると、社長はとぼけるような様子で「ああ」と言った。
「水島くん、すまなかったね。どうやら相羽くんの一件は、彼の自作自演だったようだ。君の処分を軽くして、相羽くんを注意するよ」
社長は、「気は済んだかね?」と言い、僕の顔を睨んだ。明らかに僕を追い返そうとしている。
「いいえ、まだです」僕は、盗聴していた音声データを再生する。
「問題は、相羽がなぜ僕のデスクにお金を入れたのか、ということです。相羽に指示したのは社長、あなたですよね」
盗聴していた音声が、二人きりの静かな社長室に響く。
「き、貴様!」
社長は目玉が落ちそうなほど目を見開き、下唇を震わせる。
「社長は相羽を使って、僕が4630円を盗んだことにしようとした。その理由は、僕の社内での信用を失わせて、社長が着服した会社の110万円を隠ぺいするためだ」
「違う! 110万円を盗んだのは俺じゃない。そうだ、多分相羽だ! 相羽が社長室に忍び込んで、金庫のカギを盗んだんだ!」
「いいえ、違います。あなたは自分の鍵で金庫を開け、110万円を盗んだ。そして、そのお金の中から、相羽に口止め料を払った。4630円が盗まれたと相羽に騒がせることで、社内の注目をそちらに向けた。110万円の件を誰かが怪しんだときに社長自身が疑われないよう、もう一つの鍵を持っている僕に疑いの目を向けさせようとしたんじゃないですか?」
「証拠は! 証拠はあるのかね?」
「証拠は、ありません」
社長はほくそ笑む。
「証拠なんてあるはずがないです。社長はそのお金で、ブランド品を買ってしまったから」
僕が言うと、社長の歪んだ笑みは一気に崩れた。
「なぜそこまで知っている! そんなこと、妻くらいしか知らないだろ!」
「ショップの店員に聞き込みを行ったんです。僕に罪を被せたあなたに、罪を認めさせるためにね」
社長は椅子から立ち上がり、必死の形相で僕の手を握った。
「た、頼む、頼むから何も知らなかったことにしてくれ! 君の処分は白紙に戻すから、何もかも無かったことにしてくれ!」
「それなら約束してください。これから僕が何をしても、文句を言わないこと」
「はい」
「社長から何を奪っても、文句を言わないこと」
「はい」
「それさえ守ってくれたら、今回の件は水に流しましょう」
「分かった。分かったから、内密にしてくれ」
社長は禿げた頭を僕に見せつけるように、深々と頭を下げる。
「別に、大丈夫ですよ。僕は勝手にやらせてもらいますので」
僕は社長の荒い息遣いを背中で聞きながら、社長室を出た。
社長に背を向ける瞬間まで、口元の緩みを隠すのに必死だった。
・
俺が110万円を金庫から盗んだのは、妻にブランド品を買うためだった。なんとか妻を繋ぎ止めるために。
妻の朱美は、社長だが結婚相手のいなかった50歳の俺に訪れた、最後のチャンスだった。取引先の役員から紹介してもらった彼女は、少々金遣いが荒い面があった。好きなものに惜しげもなくお金を使うし、旅行にもたくさん行く人だった。それでも、30歳と若く、容姿端麗で甘え上手な彼女に俺は惹かれた。彼女が俺と結婚した理由がお金目的だったとしても、朱美のような美女と結婚できればそれでよかった。だから俺は、必死に彼女に貢いだ。
しかし、結婚式を境に彼女は変わってしまった。
結婚式で記憶を無くすほど飲んだ俺は、翌日朱美にこっぴどく怒られた。「あなたが飲み過ぎたせいで大変だった」「汚されたから弁償してほしい」などと言われ、彼女の要求はエスカレートしていった。
そんな彼女の機嫌を取るために、ブランド品や高価な化粧品などを貢いでいた。しかし、とうとう俺のポケットマネーが底をつき、会社のお金にまで手を出してしまったというわけだ。
俺の最大の失敗は、水島の用心深さを侮ったことだ。俺は昨日、彼に対して「管理意識が低い」と言ったが、そんなことはなかった。完全に騙された。
どうして彼は、隠しカメラや盗聴器を仕込んでいたのだろう。はっきり言って異常だ。
まさか彼は、俺が会社のお金を盗むことを予想していた?
いや、そんなことはあり得ない。きっと。
・
今日も玄関のインターホンが鳴る。僕がドアを開けると、朱美が立っていた。
相変わらず綺麗で、とても30歳に見えない。あの社長と結婚しているのが心底もったいないと思う。
まあ、もうすぐ僕の女になるわけだが。
彼女の肩には、ヘルメスのショルダーバッグがかかっていて、バッグの口からはクッチの財布がはみ出している。昨日彼女が説明してくれたのだが、それらは社長が彼女に買ったものだ。僕がブランドショップの店員に聞き込みを行ったなんていうのは嘘で、彼女から直接聞いたのだ。
玄関の扉を閉めた瞬間、彼女はバッグを玄関に下ろし、僕に抱きついてキスをした。
舌を絡ませ長々とキスをした後、僕たちはソファに横になった。一枚一枚と脱いでいき、ゆっくりと重なる。
僕は懐かしい感覚を覚える。思い出すのは、社長と朱美の結婚式の夜のこと。その日、飲み過ぎた社長を寝かせた僕たちは、二人で飲みに出かけ、勢いで一線を越えた。
それから今日まで一年間、ずっと僕たちの関係は続いている。昨日も一昨日も、一緒に酒を飲んでは体を交わらせていた。毎日遅くまで会社に残っている社長の様子は隠しカメラと盗聴器で把握しているので、僕たちは安心して行為に励んだ。
僕が一度果てると、彼女は煙草をふかしながら「あのさ」と切り出した。
「私、決めたわ。あなたと一緒になる」
「ほんと? 社長のことはもういいの?」
「だってあいつ、金さえあれば私を自分のものにできるって、思い上がってるのよ。たしかに私は金遣いが荒い方かもしれないけど、だからと言って、金さえあれば満足する女だと思われるのはなんか心外なの」最後に彼女は、笑いながら言った。「それにあいつ、もう勃たないし」
「それならどうして、社長と結婚したの?」
「私が、パパのメンツを気にしてたっていうのがあるかな。あとは、私自身もう30だし、誰ももらってくれないかもしれないっていう焦りもあった」
「そうなんだ」
「でも、ダメね。焦ったっていいことなかったわ。あいつと結婚してみて、好きでもない男と結婚するなら死んだ方がマシっだって思った。まあ、あいつと結婚したおかげであなたと出会えたからよかったわ。それに、あいつがたくさん私に貢いでくれたおかげで、あなたと生活するためのお金が稼げたし。だから今になって少し感謝してるけど」
彼女は笑いながら、灰皿に煙草を潰し入れた。
それからまた、僕は朱美とキスをして、濡れた先端に新しい帽子を被せた。
・
俺が会社に行くと、水島のデスクの上には辞表が置かれていた。
「あいつ、何の冗談だ?」
辞表には、お決まりの文句の他に、追伸が書かれている。
『追伸。社長が女や金に惑わされることなく、これから真面目に業務に励み、いい会社になることを願っております』
最後まで鼻に着くやつだ——そう思いつつ、その続きを読んだ俺は背中に滝のような冷や汗をかき始めた。
『会社を辞めても、僕は当分お金に困りません。彼女が、誰かから買ってもらったブランド品を全部売ってくれるらしいので。彼女はもう、お金に興味は無いそうですよ』
俺は急いでオフィスを飛び出し、家に帰った。
玄関を開けて家中を探し回ったが、朱美の姿は無い。それどころか、俺が買ってあげたブランド品も、高級な枕も、ベッドも、歯ブラシすらも、何もかもが無くなっていた。
足が床に吸い込まれるように、俺は一歩も動けなくなった。
「お金なんか要らない! 朱美を、朱美を返してくれ!」
了
最低な男 石花うめ @umimei_over
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