第39話 object(目的とするものは何か)



 


 人の幸せとは何か? 時々そんなことを考えることが多くなってきた。


 以前、解剖学教室に通っていた頃、病理解剖の依頼を受けて主治医とともに執刀することがあった。

現在では大型の冷蔵庫があり、次の日から解剖が始まることが普通だ。

コミネの若い頃は、そんな冷蔵庫も無く、病院で亡くなられた遺体は、早々に解剖室に運び込まれ、執刀が始まる。

当時は、解剖をするにあたって執刀は朝まで待ってほしい、などと言おうものなら、そんなに時間がかかるのなら引き取らせて下さい、などと言われることも少なくはなかった。

司法解剖は別である、そこには有無を言わせない権力がある。

そして、また、病理解剖に話を戻すと、外科系で亡くなられた場合などは、解剖の依頼をしようものなら、


「あなた方は、まだ切ろうとするのですか」


などと非難を浴びることもある。


 若かった頃のコミネは、遺体を見て思う。

この老人は、どんな生活をしてどんな経験をしてきたのであろうか? 幼い子を解剖する前には、目に涙を溜めて、残りの人生は天国で過ごしてね、と思いながら黙祷して執刀したものだ。


 昔から今も変わらないことがある。

看護師は患者の死に直面して泣く人が多い。

医者は泣かない人が多い。

看護学は医学では無いと言ったら非難を浴びるだろうか? 医者のみが医学をおこなっていると言っているのではない。

医者が患者の死を前にして泣かない理由の一つとして、彼らは人を診ているのでは無い、ということだと思う。

彼らは対患者ではなく対病気なのだ。


 それに対して看護師達が勉強してきた看護学は、対病気ではなく、対患者であるということ。


 人の幸せとは、対病気、対患者、其処からの観点から始めれば分かりやすいかもしれない。


 オオサワは、常に対腫瘍である。そこに人の幸せを考えているのか? とコミネは思っている。


 病を治す、それだけが目的ならば、医学者は既に人を人生を見ていない。

全ての医学者がそうであるとは言えないが、オオサワのような考え方をしている医学者は少なからず、同じようなものであろうと、やはりコミネは思ってしまう。


 人を幸せにする、結果的にそうなったとしても、それは彼らの研究の目的ではない。彼らの目的とするもの、其処には難病を治す治療法の確立の裏に隠れた名誉と名声。


 目的は、名誉名声、そして金銭である。

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