第11球 咲わぬ春を忘れぬ月に

前話 『第10球 陽の色が混ざれば』

https://kakuyomu.jp/works/16817139555854103666/episodes/16817139556543430187


 ――そう。あれはたしか春休み。

 鼻がムズムズするような、よく晴れた日のことだった。


 ほんのり酸っぱいケチャップと卵が甘いスクランブルエッグ、そして、芳ばしいトーストの香りが漂う食卓。そこには、私とお母さん、そして、姉さんの三人。朝練のある兄貴と、毎朝早い父さんはもう家を出ている時間だった。それはいつも通りな朝。

 ただ、あの日は。英語の小テストがあって、私は単語帳を片手にトーストを齧ってた。


「……ねぇ。マーマレードとって」


 突然、足をガンっと蹴られる。

 顔を上げると、眉をひそめて、にらむ姉さん。お日様みたいだったあの頃の笑顔はもうすっかり影をひそめ、真っ白な肌は消費期限切れの塩大福みたいだった。


「……何 ぼーっとしてんの」

 彼女はもう何年も家から出ていない。それどころか、部屋からもほとんど出てこなくて、こうしてご飯のときだけ、部屋から出てくる。それだけは我が家のルールだから。


「あたしもトーストに塗りたいから、早くちょうだいって言ってんの。さっさとして」

 ムッとしたけど、私の口はトーストでいっぱい。押し込むように牛乳をあおった。


「――んっ、だからって蹴らなくてもいいじゃん!」

 食ってかかると、澄ました顔でマーマレードを塗る姉さん。もう、私の言葉なんて聞いてない。それどころか、こちらを見向きもしない。

 この頃の姉さんはいつもそうだった。私の気持ちなんて無視して、自分の勝手ばかり。

 少しむくれて、視線をそらしたとき、ふとマーマレードが視界の端で光って見えた。


 それは透き通った橙色。クレヨンで描いた太陽をのまま絞ったみたいな明るい色。姉さんはそれを、半分に切ったトーストにこぼれそうなくらい厚く塗りつけ、溶けたバターがたっぷり染み込んだ片割れを載せた。喉の奥が見えそうなくらい大きく口を開け、パクリとかぶりつく。

 そして、すぐに顔をしかめた。


「あんたがチンタラしてるせいで、トーストが冷めちゃった」

 口元をぐっとぬぐって、ため息をつく姉さん。私が言い返しかけたとき、マーマレードがトーストからあふれて、ベチャッとお皿に落ちた。

 パンくずでいっぱいな平皿の、甘く淡い黄色のペースト。その果皮の鮮やかさが何だかとても虚しかったのを、なぜか今でも覚えている。


「……もうっ、ケンカしないの」

 お母さんにそう言われ、私は黙って、再び牛乳を喉へ流し込む。哀しそうに微笑む母の顔は、昔のハル姉とそっくりな気がした。


 私や兄貴と違い、勉強が得意だったハル姉姉さん。彼女は中学受験をして、隣町にある中高一貫の私学に通っていた。中学でも成績は変わらず優秀だったし、部活動や生徒会活動にも取り組んで、とても楽しそうだった。

 中学を卒業するまでは。


 高校に入った途端、姉さんは変わってしまった。それこそ人が変わったように、いや、変わったというより、電池が切れてしまったようだった。

 まず、彼女は高校に行くのをやめた。友達はたくさんいたし、先生から信頼もされていたはずなのに。

「大丈夫。ちょっと高校行かないくらいで、何か変わったりしないから」

 ……なんて、笑っていた彼女は、しまいには家から出ることもなくなった。


 私もはじめは、買い物に誘ったり、外に連れ出そうとした。お母さんの言う通り、『長めの夏休み』みたいなものなんだって、思ってた。でも、

「姉だからって、変な気遣いしてないで、休みの日くらい遊んできなよ」

「友達と行けば。別にあたしとじゃなくてもいいでしょ。気にしないで」

 と断られるようになり始めた。同時に、家の中での会話も減った。


 ――あの頃のハル姉の気持ち。今になって、少しわかる気がした。

 隣ですごく心配そうに私を見つめるましろを見て、そう思った。

 ……だって。あのくそ兄貴だって、私がいなけりゃ、あんなオカマ野郎にはならずに済んだはずだもの。せめて、私じゃなくて、ハル姉が生きていれば。……でも、


「私はハル姉が好きだったんです。

 私のお姉ちゃんハル姉だから好きだった」



 ――あの日、部活の帰り道。

 日が沈んで、空は赤から淡い黄土色、藍色へと変わり始めていた。お洒落に言うなら、逢魔が時。を少し過ぎた頃。仄明るい空から、丸い月が見下ろしていた

 近所の歩道橋にパトカーと人だかりができていて、何か事件でもあったのかなと、思ったことを覚えている。

 遠くに聴こえるサイレンの音を聴きながら、家のチャイムを押した。珍しくハル姉の部屋のカーテンが開いていた。

 いつもはすぐ出てくれるお母さんがなかなか出てこなくて、私は鍵を出そうと鞄を開いた。そのときに、やっと兄貴からメールが来ていたことに気がついた。


『ハルが歩道橋から落ちた。車に跳ねられた』

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