第9話
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命というものは、いつも孤独と絶望と親和する。それは命の本質が変化であるせいだった。それぞれの命の変化は決して一定ではなく、急速な変質を遂げるものもあればゆっくりと研磨されていくものもある。ひとつの変化は他のそれとは必ず分離して、些細だった距離はいずれ計り知れない離別へと至る。命自身も己の変貌を正確には把握できず、大体の場合それはずっと後になってから、時には他から示されて初めて明らかになるものだった。
そのあり方は水に酷似している。ゆっくりと乾き嵩がなくなる水、あるいは知らぬ間に腐っていた水、音を立てて地に溢れ落ちて消える水、緩やかな小川を緩慢に流れる水、それらすべてが今自分がどこでどう存在しているかを知らない。そのせいでいつも変化に戸惑い、混乱のうちに絶望して揺蕩う。
長い時間しっかりとシャシャを支えて歩みを担保していたはずの大地は、今や曖昧で捉え所のない不安定な砂地となった。地はいつからか乾きはじめて、草が疎らに枯れている。遠かった山脈はいっそう彼方へと身を隠そうとしていた。
姿を変えて消えたように見える水のように、シャシャから去った命たちが地に染み込み天に吸い込まれて、それでも存在していればよいと、この時のシャシャは願っていた。これはただの妄執であった。己の都合のよいように合理化しようとする努力は今なおシャシャを蝕み、疲労で混濁した頭蓋のうちで星のように瞬いてはシャシャを惑わす。シャシャはその願望を真剣に吟味しかけて思考を放棄することを繰り返して、ただ進んだ。昼もなく夜もなく歩を進めて、重く引きずる身体から砂地に力が流れ出しているようだった。
太陽が天を支配する時間は、いつしか夜を凌駕している。驚くべき執拗さで太陽はシャシャを照らし続け、狐を燃やし尽くしたのと同じ熱で苛んだ。おそらくこの地はシャシャがそうであるよりとずっと長い時間を太陽の責め苦に晒されたのだろう、溶解するように砂へと姿を転じて、シャシャを引きずり込むために身を捩る。
その砂地はきっと、いつだか狐がおとぎ話のように語った砂漠というものなのだろう。狐が言うことには、地のどこかには砂がすべてを飲み込んで覆い尽くす砂漠と、それと対抗するように水が押し寄せる海という場所があるという。狐は寝物語にその地の生き物について語ってくれた。そのときの狐の様子を思い起こすと、力が干からび底をついたように感じているのにシャシャは少し笑ってしまうのだった。
彼はいつでも、見てきたように知らないものごとについて語った。彼が話す物語では珍奇な動植物が生き生きと動き回り、草木ですら意思を持っているようだった。大袈裟な身振りと軽妙な語りは無関心を装うシャシャもつい引き込まれ、ついそのまま夜を明かしてしまったこともある。
そういう点は兎とは大違いだった。兎はいつも静かに話した。経験を元にして考えを整理しながら語る兎は臨場感を持った狐の語り口のようには話さなかった。それでもやっぱりシャシャの思考を深く引きずり込んで、共に考えて寄り添うことを教えてくれた。ゆったりと話す兎は、その心音があれほど小刻みであることを忘れているようであった。
兎と狐のそれぞれの様を次々と思い起こしながら、シャシャは少しずつ楽しい気分になる。身体中から力が枯渇していくような疲労は癒えることはないのに、そのような心地がすることは本当に不思議なことではあった。だがこの楽しさはシャシャに力を与え、なおも歩かせる。そうして更に深く砂の大地を分け行って、また月が満ちたときに蛇と出会った。
その晩月は煌々と照っていて、砂は星が無数に紛れ込んだように輝いていた。森から出た夜降り注いでいた星たちが皆ここで力尽きているようで、天にはただ月だけが取り残されている。巨大な月は冷たく青ざめて、星が地に砕け落ちた今途方に暮れて佇んでいる。
最初に現れたのは蛇自身ではなく、波打つ跡であった。シャシャの道行きを先んじて途切れなく続くその痕跡を、シャシャは追うともなく追った。他に生物の仕業らしきものは砂漠ではついぞ見なかったため興味を引かれたというのもある。だが何かしら追わねばならないという気もしていた。
規則正しくうねるその跡は、予測していたほど長くは続かなかった。蛇は幾何学的な曲線を自らの周囲に張り巡らせてその延長にいた。鱗は正しく輝いていた。身の内から光るのではなく、月と同じように反射して輝いている。砂に紛れて砕けている星たちの残渣を浴びて硬く輝く。その身は大きな輪を二度描いて、交点に小振りな三角形の頭部があった。
蛇は乾きかけた血の色をした虹彩をシャシャに向けている。
「待っていた」
掠れきった声音が、砂を這うようにして発せられた。
「おまえは」
「わたしは蛇だ。地を這うもの、手足をもがれたもの、初めに罰せられたもの、それがわたしだ。だがわたしは引き換えに何もかもを知っている。おまえがひとりでここへ至ることも知っていた」
「おまえが生き物たちの王なのか」
シャシャが進みながら尋ねると、蛇は口腔を見せて笑ったように見えた。笑い声は漏れず、口を開けただけなのか笑ったのかの判別が付かない。瞳は可笑しそうに細められたから、おそらく笑ったのだろう。
「まさか、そんな訳はないとわかっているだろう」
「では王はどこにいる」
「そんなに先を急ぐことはない。どうせここより他に至るべきところはもうないのだから」
「そんなことはない。おれは兎との約束を果たすためにここまで来た」
「それはどうだろう。本当はおまえだって知っているはずだ。兎にとってそんなことはもうどうでもよいし、おまえにとってももう重要ではない。おまえは最早疲れ果てて、すべてのことが同じに見えているのだから」
まじまじと見ると、やはり蛇は笑っているようだった。掠れた声に抑揚はないが嘲笑しているような不快さがある。シャシャはやや苛立ちながらも蛇の言葉を遮ることはしなかった。
「おまえにはもう力が残っておらず、この果ての地で砂に埋もれるだろう。おまえの名もこれ以上は呼ばれず、兎の名を得たところでそれも呼ぶことはない。もうこれ以上何も意味のあることは存在し得ない」
「だからどうした」
蛇は少し驚いたような様子で口を閉じた。だがそれも本当に驚いたのか、口が乾いてただ黙ってみただけなのかわからない。
「兎にとって意味があるか、おれがこれからどうするかは問題ではない。おれは兎と約束をした。おれは今でもその約束を尊重したい」
「なぜ?」
「それが約束というものだ」
蛇はまた呆れたような嘲笑う目をする。掠れた溜め息がその口から漏れ出て、それを追うようにして顔をつき出す。
「おまえはまだそんな表面的なことに捕らわれているのか。約束なんて何の意味もなかっただろう。現に兎は食われてしまったし、白子の蝙蝠は黄金の薔薇を台無しにしてしまった。約束をする時は誠実かもしれないが、いつまでもそうであるとは限らない」
「おまえが約束を破りたければそうすればいい。だがおれまで不誠実である必要はない」
「シャシャ、それは願望だろう?おまえは誠実でありたいのではない。他に誠実であってほしいだけだ」
「いや、おれは誠実でありたい」
「だから、それは何のためだと言っているんだ。おまえは他に裏切られたくないから裏切らないだけじゃないのか。だがそれも無駄だったろう。思い出せ、幼いおまえは森に棄てられた。今もまだあの家族に誠実であったら、今頃森の入り口で骨も残っていないだろう」
蛇は舌を小刻みに震わせ、からかうように話す。時折身をしならせて近付こうとするような素振りを見せるが、蛇とシャシャの距離は変わらない。蛇は器用に身の上半分だけをくねらせて、言葉を続ける。
「諦めたじゃないか。おまえは一度見棄てられたことを受け入れて、愛されることを諦めてひとりで生きることにした。同じことをまたすればよい」
「おまえが罰せられた理由がわかったように思う」
「言ってみろ」
「おまえは、おまえの願いをさも相手の願いであるかのように言う。丸め込んで唆しておまえの願いを偽ることがおまえの罪だったんだろう」
「それがおまえの願いでもあるからだ」
「それは違う。おれは、他の誰がどうしようと構わない。おれを棄てたければ捨てればよい。裏切りたければ裏切ればよい。もし兎がおれを騙していたとして、兎にとって約束が意味のないものだったとして、それでもおれは兎を信じただろうし約束を放棄するつもりはない。おまえはそもそもが間違っている」
シャシャは、今はすっかり遠くなってしまったあの家を思い起こしていた。安全で狭く、懐かしい。放逐されたときは何がなんだかわからず、それが拒絶だとわかってからは嫌悪していた。今から思えば馬鹿馬鹿しい。拒絶されたからとその一点に拘ってすべてを恨みに思う必要はなかった。だがその後の疎外感がシャシャの記憶のすべてを覆い隠して、長年こんがらがった憎悪と痛みに捕らわれていた。
「森にいた頃はおれも知らなかったが、おまえは間違っている。何もなくても信じることが、信じるということだ。担保がなくてもよい。裏切ることを知っていても信じるのが、本当に信じるということだ」
「それじゃあまるっきり馬鹿だ」
「そうだ。最初からそれでよかったんだ」
蛇は、掠れた息だけを吐き出した。言葉は生まれなかった。シャシャもまた沈黙した。砂漠には風もなく、月はやはり静かに天空に君臨するばかりで、何も示しはしなかった。
シャシャは蛇をじっと見る。一体いつからここにいて、どこから来たものだろうか。この地はおよそ長期の生活ができるとは思えない。視線を受け止めた蛇は、心なしか首を傾けてシャシャを見返す。
「おまえの疑問はもっともだ。わたしは彼の元から出てここへ来て、それからずっとここにいる。どれほど経ったかはわからない。わたしは彼に許されるまで、ずっとここにいる」
「彼というのは誰だ」
「たぶん、おまえたちが王と呼ぶものだ。確かに彼は何でも知っている。何もかもをなし得る。だがもうずっといない」
蛇は目をそらしす。その様子は言い難いことを言おうとする時の狐によく似ていて、躊躇うような瞳の揺れは、ビーユーにも似ていた。
「疎外を初めにもたらしたのは、彼だった。罰として追い出すことや、爪弾きにすることを教えたのも彼だった。すべての呪いは彼から発して、その最初の呪いはわたしにかけられたままだ。わたしは彼を信じなかった。おまえのように、彼が何をしてもわたしは彼を信じるべきだったのに」
シャシャは、この蛇の言葉をじっと待った。何も変化しない砂漠では他にすることはないし、何より蛇が最後の手がかりでもある。もう一歩たりとも進める気がしない。ここで王へ辿り着くことができなければ、もう永遠に約束は果たせないような予感が、じりじりとシャシャの臓腑を焼いている。
「本当は、彼はいないのではなくわたしには現れないだけだ。だがもしかしたらおまえには現れていたかも知れない。彼はそこここにあって、我々には彼に気が付くことが難しいだけかも知れない。おまえが本当に彼に言葉を求めるなら、きっと彼はすでに答えを示している。彼はそういう存在だ」
「おまえは、彼とよほど親しいのだな」
「親しかったさ。わたしはいつだって彼に近付きたくて必死だった。でもきっとそれがいけなかったのだろう。彼に近付くための手段として他を利用し、自分の望みを偽った」
蛇の鱗は星を練って焼き上げたように光沢を放ち、強固にその身を守っている。自然に適して研磨を続けられた形態が美しいのであれば、狐と同じくらい蛇はシャシャの目には美しい。それなのに蛇は己に備わった力を存分に発揮して望み叶えるのではない道を選んだ。
「わたしは彼を裏切って憎み合うはめになったが、それでも彼をよく知っている。シャシャ、おまえはきっともう彼から答えを受け取っている。彼は己の力を尽くして、望みと世界に誠実であろうとするものを見棄てはしないのだから。彼はこれまでずっとおまえと共にあったはずだ。だからもう少しだけ進んでみることだ。この地に終わりはなくおまえはこれ以上進んだところでどこへも行きつけないが、それでも倒れ伏すまで進むとよい。それだけが、おまえに答えをもたらすだろう」
蛇は砂に埋もれるようにしてシャシャの背後に回り込むと、その背を押した。よろけながら進み出したシャシャは、言われるがまま脚を交互に動かし続ける。ただ月が眼前にあり、砂はシャシャを受け止めるともなく受け止めて、空気は力尽きたように動かず、シャシャの歩みだけがこの天地に亀裂を走らせ変化をもたらした。
だがシャシャのもたらす程度の変化は微々たるものであって、それだけでは何も変わらぬように見える。それでも蛇の言葉を疑うほどの力はもうなかった。ただ進む。やがて脚には感覚がなくなり、思考はいっそう不明瞭になった。身体中に砂が詰まっていくようだった。シャシャはシャシャであることも忘れて、ただ兎の名を求めて歩いた。夜は一向に明けない。月は高くも低くもならず、ただシャシャの足取りを見守っている。
砂が荒涼と続くだけだった。そこに変化が見てとれたのは、あと一歩でシャシャが倒れ伏そうとする時だった。少し先に、輝く何かが落ちている。それは星だった。小さな星、自ら輝く、本当に小さな小さな、シャシャの頭よりもずっと小さな星が、半ば埋もれて落ちている。
星は、ずっとここでシャシャを待っていた。何故だかシャシャはそのことに安堵を感じ、星を抱え込むようにして倒れた。感覚の失われた身体にも、星が仄かに温かいことは感じられる。懐かしいよく知った温度だ。
ずっとここにいたのだと悟ると、シャシャは目を閉じる。これ以上何も探す必要はなく、これでやっと休むことができる。すべてはここで満ち足りる。何か言うべきことがあるようにも感じたが、もうその必要もなかった。すべてが溶け合い融和して、星とシャシャとは砂に埋もれて姿を消した。
夜は明けなかった。砂は光輝いていた。空気は揺れなかった。すべてが親和して混ざり合った。
夜明けのカスパール 大槻 羊 @SeNNyou93622
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