第8話

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 既にことは済んでいた。

 草原を踏み均して進む殉教の群は変わらず淡々と歩を進めている。失った血族には一顧だにせず、ただ大地を踏みしめている。黙々とただ進む。哀悼であるとか悲壮であるとかは微塵もない。大地もまた彼らの進行をただ受け止めて、すべては永遠に繰り返されるかのように続いていく。何の情動も伴わない天の運行を地で行うように、何もかもが調和のうちに過ぎ去っていた。

 その群の、南側に位置する岩に赤毛の友は悠々と寝そべっていた。岩影には丸々とした子羊が横たわり、虚ろな瞳を虚空に投げ掛けている。子羊の腹部は既に食い破られて半ば空洞になっていた。喉笛から腹にかけてが赤黒く汚れた子羊は、打ち捨てられた捧げ物のようにじっと岩の下で食い尽くされるのを待っている。

 祭壇のような岩の上からシャシャが走り来るのを見つけた狐は、得意気な顔で微笑む。

「やあ、シャシャ。ずいぶんゆっくりしていたようだね。早くお食べよ」

「首尾よくいったのか」

「うん、まあ、それなりにね」

 歯切れの悪い狐を不審に思ったシャシャは、岩から降りるよう促したが、彼は疲れているからとそれを拒んだ。その様がよりシャシャには奇妙だった。じっと見ていると赤毛は少しばかりばつの悪そうな顔をする。だがやはり動かない。しばらくが経ち、シャシャが獲物を平らげてしまっても、なお狐は岩に陣取っている。シャシャは今度はより強く友に呼び掛け、前肢で小突いてみた。赤毛は微かな呻き声を上げて身動ぎ、ほとんど転げ落ちるようにしてシャシャと同じ高さに立つ。

 彼の腹には裂傷があった。この事態を予想してもよかったはずだが、何故かシャシャの頭の中には狐が狩りの最中に負傷するという考えは微塵もなかった。全く不思議なことに、いつ起きてもおかしくないこのような不都合な事柄をシャシャは驚愕を持って迎えたのだった。

 それはどうやら狐にとっても同じようで、身の置き所がないというような様子で彼もまた言葉なくシャシャを上目遣いで見ている。ただ驚いて絶句するシャシャも、不注意と慢心の言い訳を持たない狐も、しばらく己の滑稽さを受け入れるために時間を要した。そしてその準備が整った時、先に口を開いたのはシャシャであった。

「どれくらい深そうなんだ」

「どうだろう。熱くて脈打つ感じがしているのだけれど、傷の深さまではわからないな。何というか、済まない」

「構わない。おれたちが揃って油断していたことがいけなかった」

 どうやら狐はゆっくりであれば進むこともできるようではあった。それから数日は傷が熱を持つようで呻くことが多かったが、直接訴えることはなかった。シャシャは狐の歩みに合わせて進み、狐と己の分の狩りをした。狐は朗らかにシャシャの仕事を褒め、回復が近いことを仄めかすこともあった。

 

 遅々としたものではあったが、二匹は確実に前進した。草原の景色は変化に乏しく、羊たちが過ぎ去ったことで余計にだだっ広く感じられたが、それでも無限がないことを二匹はよく知っている。進行方向に対する疑念はここまで来てしまえばもはやなかった。今更戻ることも方向を変えることも無意味だということは、それぞれの身体に深く染み込んだ疲労が示していたし、何より互いを励ましながらの道程はそれほど悪いものではなかった。今や進む以外の何もかもが無意味だった。

 月は正確に満ちて欠けて、また満ちて欠けて、幾度繰り返したことか判然としなかった。もしかしたらシャシャが思っているよりも少ない回数だったかも知れない。狐の様子は変わらない。食は少しずつ細くなり、歩みもそれにつれて遅くなった。そのせいか風はいっそう激しく吹きすさぶようにシャシャには感じられた。

 この間、シャシャは己についてあることに気が付いた。

 シャシャは自分が考えていたほど明晰ではなかったし、利己的な合理化が得意だったということである。生き物は大体において、自分の都合のよいように物事を解釈しようとする。春がもうすぐ来るはずであるとか、食料が得られさえすればこの身が安泰であるとか、今隣にいる友には不幸が近付いていないだとか、信じて待っていることで現状を維持できるだとか、そういった勘違いをしがちなものだ。シャシャ自身も己のそういった勘違いのせいで幾度も痛い目にあって、己はもうそんな過ちから脱したものであると漠然と思っていた。

 だが振り返ってみればどうだったろうか。兎を見失ったときも、狐が狩りで腹を抉られたときも、シャシャは確かに油断していた。信じたいことを信じるように無意識に努めていた。そして今もまだ、狐が回復するものだと信じて疑わない。頭では理解している。成長した羊は大きく力強く、その角で傷付いた狐が容易に回復するものとは考えがたい。

 すぐ鼻先には喪失の匂いが濃く漂っているのに、シャシャはそれでもそれを受け入れることを身を硬くして拒んでいる。他愛のない思出話や身の回りのことについて明るく話す狐のせいにして、シャシャは己にだけ都合のよいように歪められた認識にすがりついている。

 だがまた幾晩かが過ぎて、狐はとうとうシャシャに切り出した。

「ぼくを置いていけ」

 こう言った狐は、明け始めた夜の残り香に酔っているように見えた。まだ半分覚醒しただけの、はっきりとしない意識で言葉を吐き出したように見えた。それがまたシャシャの利己的な妄想であることを、シャシャも薄々感じている。

 だがそれが根拠あることのように見せているのは狐自身だった。細い息で身を震わせ、閉じかけた瞳をシャシャに向けている。いつも活力に満ちていた尾も今は、先に息絶えたように沈黙している。香油を塗られたように美しい毛並みだけが変わらず輝くことが恐ろしかった。あの黄金と夕焼けの溶け合った瞳が瞼の隙間からシャシャの様子を窺っている。

 シャシャが言葉を探せずにいると、狐は困ったような顔をする。

「話したいことがたくさんある」

「話せ」

「きみと楽園を見てみたい。よいものがすべてあると聞いたと言ったろう?よいものとは何だろう、鳥たちの集めていたような香木だろうか。従順な獲物たちだろうか、それとも他にもっといろいろあるのだろうか」

「すべてというならすべてだろう。獲物も香木も住処も、きっと何もかもだ」

「行ってみたいな。きっと王もそこにいるだろう」

「今向かっているのだから、いずれ着く」

 昇り始めた太陽は赤毛を鮮やかに照らし出した。その燃える毛並みに焼き尽くされるようにして狐は頼りない息を搾って声を出す。

「それから、考えていたんだが」

「なんだ」

「やっぱりぼくはただの狐でいい」

「何の話だ」

「どうも名前というものは、特別なようじゃないか。だからぼくにもあればいいかとも思ったんだが、やっぱりぼくは要らないな」

「どうしてそう思った」

「彼女が言っていただろう、彼の名前を呼べれば孤独が紛らわせたかも知れないと。きっとそれは正しい。でも名前は本物じゃない。ぼくも彼女も、シャシャも、みんなこの身体で生きているんだ。名前があればその魂を懐かしむことはできるだろうが、肉体を伴ってすべてを繋ぎ止めることはできない。いずれ正しく霧散していくはずのものを無理に呼び止めて何になる?」

 狐の瞳はもうほとんど閉じかけている。風が止んだ。空気が停滞すると、狐の身体からは甘くすえた匂いが立ち上っている。それは傷口から発する死にかけた生き物の匂いだった。

「もっと分かりやすく言うと、もしもシャシャが死んでしまったとして、ぼくはきみの姿が思い出せなくなるような遥か先にもシャシャという音を忘れてしまえるまでずっときみの名前を呼ぶだろう。暗闇できみのその揺らめくような瞳が見えた気がしたときだけじゃない、もっと何でもないときにすらシャシャという言葉が口をついて出るんだ」

 再び風が甘い匂いをかき消して、炎がいっそう強く燃えるように赤毛が揺らぐと、狐の瞳もまた見開かれた。彼の金の瞳が陽光を取り込み、四肢に力を与える。息はまだ浅い。

「でも反対にぼくが息耐えたとして、きみはずっとぼくを呼び続けることはない。それは幸運なことだ。ぼくは、ぼくが彼女を徐々に思い出さなくなったのと同じようにきみにもぼくを徐々に忘れてほしい。自然に、ゆっくりと」

「呼び名がなくともおれがおまえのことを忘れなかったらどうする」

「それならそれで仕方ない。でもきっと呼ぶ名前があるよりずっとましさ」

「おれはそんな風に考えたくない」

 狐は少しシャシャに向かって歩もうとして身体を揺らす。四肢のうちどれかが地から離れると、彼の身体はすぐに傾いだ。シャシャはその狐を首を胸の辺りに差し入れて支えた。

「生きるとはそういうことだ。シャシャは嫌かも知れないが、ぼくはそうあって欲しい」

「おれはおまえと一緒に王に会って、楽園にも行って、必要ならば海も渡るつもりだ」

 狐は顎をしゃくってシャシャを己から引き離す。シャシャは狐の身体を押してしまうことが恐ろしく、されるがままに数歩下がった。

「ぼくを置いていけ。先に行くんだ」

「おれは」

「シャシャ、きみは知らないだろうがきみはとびきり美しい。稲妻を閉じ込めたような瞳をしていて、長い毛並みは優雅だ。太い尾と四肢は強く、生き抜くのに相応しい力を持っている。ぼくはきみが好きだ。だから先に行け」

 狐は赤く燃え上がり、太陽は彼の身体を包み込んで共に燃えた。焼かれた木立が地に伏すように狐の身体も静かに倒れ、それでもなお彼は太陽と同化して燃えた。焼き尽くす炎は衰えることなく燃え続け、やがて熱と光は彼方へ運び去られて、夜が来た。

 

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