第7話

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 果てない草原を風は遥か彼方から駆け抜けて、シャシャも犬も羊も狐も、すべてを後ろに置き去りにしてまた彼方へと去っていく。もちろん無限の彼方からやってくるという訳ではなく、おそらくは小さく見える山並みからやってくるのだろう。灰紫色に世界の半分を取り巻いて見える山脈は頂上の辺りにはまだ雪の色を残している。そのように遥か遠くからやってきた風は冷たく乾燥していて、陽射しの熱を奪い去っていく。太陽と風は憎み合うようにして交互に獣たちを苛んだ。植物はそれらどれとも関係がないというような顔をして泰然としているが、彼らは唐突にやってくる羊の群に蹂躙されては食い荒らされてしまう。

 しばらくはそのようにして時間が過ぎていった。一行は確実に西に進んでいるはずであるのに、変化を持たない道程のせいでどれほど進み来たのかは誰にもわからなかった。

 この間に狐は犬に対して態度を軟化させた。犬もまた山猫という存在を理解しつつあった。慣れという生物すべてに与えられた偉大な習慣の産物であった。一方でただシャシャだけが、自身に対しての嫌悪と疑いを深めていった。

 気持ちの悪い不格好な病巣こそ自分の正体だったのではないか。この疑念は日に日にシャシャのうちで大きくなる。これはシャシャだけの妄想であるかも知れない。実際狐も犬も、かつての雪豹もビーユーもそんなことは言わなかった。あの忌憚ない兎もついぞそんなことは言わない。それでも一度巣食い始めた妄執は決してシャシャを逃がそうとはしない。あれから兎が一向に姿を見せないこともその証左であるようにシャシャには感じられる。

 犬は時々昔話をしたがった。単に喋りたいような時もあれば道行きを共にする山猫と狐の過去を語らせたいような時もある。そういう時狐は必ず彼女の話を避けて旅の道中出会った奇妙な場所場所の話に巧みに摩り替えるのだった。

「わたしは実は町を知らないんだ」

 満月に照らされるとドニは斑に浮かび上がる毛並みのせいで、見慣れぬ化け物のように見える。時々風に合わせて混ぜ返される斑は白くも茶色くもなるが、黒い部分は闇の中に溶け出して消えてしまう。瞳もまた濃い焦げ茶色であるから目線を落として言う彼の眼窩には何も存在しないように見えた。

「へえ、人のところにいたからと言って町を知っているとも限らないんだね」

「我々の主はずっと集落にいて、町へは連れていってもらえなかった。わたしには家族を守る仕事があるから。でも彼のまだ幼かった妹はいつも町へ行きたがっていたんだ」

「ふうん」

「シャシャはどうだ?」

 ドニは急に視線をシャシャに向ける。動きに合わせて唐突に現れた瞳は無垢な好奇心だけを表していた。

「どうとはなんだ」

「町を知っているか」

 ふと見ると赤毛の友もまた好奇心に満ちた顔をしてこちらを見ている。

「いたにはいたが、よくは知らない」

「何で?」

「家の外へ出たのは、森に捨てられる日だけだった」

 シャシャには特に思うところはない。事実を口にしただけだったが、ドニは気まずそうに視線を落とす。憐れみがその仕草に滲み出るのを見るとシャシャはどうにも腹が立った。

「おまえと何が違う」

「わたしたちは捨てられたのではない」

「そうか。ではおまえの主人はいつになったら迎えに来るんだ」

「シャシャ、止そう」

「捨てるにせよ捨てられるにせよ訣別は訣別だ。自分たちだけはそういう無情なものから逃れられるとでも思っていたか。望んで離れることと望まず別れることと、何が違う。何がその差を保証する」

「それ以上わたしたち家族を侮辱するな」

「違う。ちゃんと考えろ。他を憐れんで昔を懐かしみ、おまえはおまえの自尊心を守る代わりに何を犠牲にしているのかわかっていない」

 ドニは歯を剥き出しにして敵意を表明している。再び眼窩は闇に沈みこんで瞳を喪い、時々強い風に雲が途切れると月明かりを得て輝きを取り戻す。シャシャは憮然として威嚇する犬をただ見つめた。名誉を傷付けられたと感じるにしても、始めたのはドニの方ではないか。本当に何もわかっていない。シャシャにしてみれば、いわれのない憐憫こそ侮辱だった。シャシャは決して歯を剥き出すことも毛を逆立てることもせず、ただ見つめる。ドニがあからさまにした抗議を真っ向から受けるつもりなど毛頭なかった。

 狐は珍しく困惑して山猫と牧羊犬を交互に見ている。シャシャの言い争う姿など初めてだったのだから、きっと内心驚いていることだろう。取り持つべきか否か迷っている様子で、狐も口を開かない。

「謝罪しろ」

 ドニの低い唸りは、風に流されて辛うじて聞き取れる程度だった。シャシャはそれを無視してひたすら観察を続けた。唸り声は続く。おそらく彼は引き下がらない。シャシャもまた、このことについて譲歩するつもりはない。

「おまえたちは憐れだ」

 柄にもないことをしてるとは思った。

「結局生きていかねばならないんだ。感情の問題がどうあれ、おまえたちも今はもう柵のないこの地を彷徨うしかないんだ。おれも、おまえも、皆ひとりだ」

 犬はシャシャから目を逸らし、シャシャもまた彼を見やることを止めた。自分で言った言葉であるのに、それはあまりにも痛々しく臓腑を掻き回す。狐までもが目線を落として、それぞれがそれぞれの現実に途方に暮れた。

 しばらくするとドニはとぼとぼと背を向けて歩きだし、やがて毛並みのすべてが夜に溶け出して消えていった。狐はまだ沈黙を守っている。シャシャは狐の胸中を思うと先ほどとはまた別の痛みを感じる。シャシャが振り上げた爪が思いがけず友まで傷付けたことには、己の短慮を悔しく思う。だが一方で、どこかでこのことについてははっきりさせなければならないとも感じていた。

 

 明け方近くなり、月がその力を失いかけた頃にやっとシャシャと狐は視線を合わせた。シャシャは、狐が何か言おうとするのを制して口を開くつもりが、あまりにも長く考えていたせいで舌は強張ったままただ口を開閉させるだけに終わった。友は少し笑うような表情を作る。

「シャシャ、ぼくの話を聞いてくれないか」

 ただ頷いた。

「ぼくは何と言うか、執着できないんだ。わかるかな?思い詰めることが基本的にできない。それなりに仲間とも上手くやれていたし、どこでも何となく生きていける。すごく悩んだり困ったりはそんなにしない」

 見慣れた顔が、やけに尖って見えた。小刻みに動く瞳は彼の居心地の悪さを主張している。地に下ろしかけた尾を再び持ち上げて、それもまた止めて、躊躇いながら狐は話す。

「上手くはやれるけど、それだけなんだ。それはぼくも相手も同じだと思う。同じ場所でずっと上手くやろうとするとすごく疲れるんだよ。だからぼくはいつも逃げ出してきた。長居するのに向いていないんだ。ぼくはそんなぼくがすごく嫌で、目を背けてきた。ほら、最初にドニに合った時もそうだ。彼ほどぼくが執着できないことが嫌だった。だから、きみにも実は嫉妬したことがある」

 赤と金が、狐の瞳の中で溶け合っている。豊かな赤毛は緩やかに輝きを強めている。明るくなり始めた空から真っ先に光が降ろされたように、彼は強くしなやかな存在だった。

「どうかぼくを嫌いにならないでくれ、シャシャ。きみも彼女も過去に生きていることはよくわかっているんだ。きみたちはぼくには誑かしようのないくらい強い意思で、自分の命を律している。どこにも向かないその視線の強さに、ぼくは安心するんだ。ぼくは、ぼくはね、シャシャ、この世のどこにも身を置けないきみの、ただ味方でありたい」

 言いきった狐は、じっとシャシャの言葉を待っている。シャシャは少し狐に歩み寄って、その首元に鼻先を寄せてみた。狐の鼓動は兎よりもやや遅い。見た目ほど体温は高くなかった。

「おれはあいつとの約束を守るために一生を棒に振るだろう」

「それでいいんだ」

「おまえはおれと同じくらい馬鹿だったんだな。それに不器用だ」

 狐は少し不服そうな顔をしたが、何も言わずにシャシャを見つめた。

「行こう」

 

 ドニとは仲違いをしたまま、シャシャも狐も顧みることはなかった。

 羊たちの群とは付かず離れずの距離を保ったまま進み続けて、夜には時々あの身の内側から捻れていくような遠吠えが響く。随分歩いたはずだが草原はまだ途切れることなく続いている。季節がこの地を忘れてしまったように、太陽はいつでも高く、風はいつでも強く、山脈の上部は白い。

 狐は以前より頻繁に足の痛みを訴えるようになった。シャシャもまた変化のない道程に疲労を感じていた。シャシャと狐は彼女の話をするようになった。兎の話はやはりしなかったが、それは避けているというよりも言葉が見つからなかったからだった。兎はいつも何を考えていたのかわからないし、不思議な考えを持っていた。兎自身が色々なものを諦めていて、たったひとつ望んだことと言えば名前を得ることだった。もしかしたら、兎も自分のことがよくわからなかったのかも知れない。どこにでもいて何にでも食われる兎たち、どこでも変わらず多産で個を区別し難く、いつも生き残るのに精一杯な兎たち、そしてそこから、あの兎はやっぱり溢れ落ちていたのかも知れない。

 そう考えると、シャシャは兎についてどう語ればよいのかわからない。だから仕方なしに口をつぐんで、代わりに鵲や故郷について語った。

「シャシャは、自分の名前についてはどう思っているんだい?」

「さあ、深く考えたことはなかった」

 ある時狐が唐突に投げ掛けたこの質問は、シャシャにとっては全く目新しいものだった。そういうものだとばかり考えていた。確かに思い返してみれば、いざ兎の頼みに答えようと名前を考え始めた当初、シャシャは名付けの方法について頭を捻ったのだし、きっとこの名前を付けた人のこどももそれなりに考えて付けたのだろう。

 しばらく思い出そうと試みたがその頃の記憶はどうにも曖昧で、霞に覆い隠されたように判然としない。小さく頭を振ってそのことを示すと、狐は意外そうな表情をした。

「そういうのって、もっと思い出深いというか感慨があるものだと思っていたよ」

「そういう奴もいるだろうとは思う。おれは初めからそうだったものについて深く考えなかった」

 これは嘘だった。正しく言えば、考えまいとしていた。不本意な自分の立ち位置を正面から受け入れることになるこの問題は、常にシャシャの不安を煽ってきた。シャシャという四つの意味不明な音節に規定された自己とどう向き合えばよいのかわからず、それを真剣に考慮するには膨大な気力と集中を要する。この音声に意味があるならそれは救いなのかも知れないが、万が一なければどうすればよいだろうか。もし受け入れがたい意味であればどうしようか。もしも最初から祝福されていないことを示す暗号が、シャシャという音の塊の意味であったとしたら。

 狐は一抹の疑いを目元に残したまま、羊の群に目を向ける。

「もう用はないし、そろそろいいかな」

 たぶん、狐は羊を狩ってもよい頃だと言いたいのだろう。シャシャとしてももはやそれほど興味はない。今はすでに先へと進むべき時であって、何も知らなかったドニにも祈りを捧げるばかりで主体を失った羊たちにも用はない。シャシャは同意を示すと、犬には気を付けろとだけ伝えた。どうもこの友は気の抜けたところがある。最近の足を気にする素振りも頭を過り、余計かも知れないと思いながらもシャシャは狐を案じた。

 狐が軽い足音を残して離れると、シャシャはドニに注意を向けた。彼は今群の前方にあって、羊と同化してしまったように頭を垂れている。疲労と失望があの長毛と共に渦巻いて彼をすっぽり包み込んでしまって、その重さに引きずられるように見えた。彼とシャシャとはそれなりに距離はあるが、しばらくシャシャが歩みを止めればいずれ出会うだろう。狐のために牧羊犬の注意をひく腹積もりと、最後にもう一度王について確認をしたいような気がして、シャシャはドニの到着を待った。

 しばらくして山猫が己を見つめていることに気が付いたドニは、落ち着かない様子ではあるが避けはしなかった。何を言うでもなくただシャシャを見やる。焼け焦げた木材のような掠れた茶色の、小さな瞳が向けられた。煤けた埃っぽい毛皮の奥で、瞳自体が居場所を失っている。この不便な長毛も、歪な家系図の産物だろうかとシャシャはぼんやり考えた。

「この前は、酷なことを言った。すまなかった」

「いや、わたしはただ、違うんだと言いたかったんだ。怒りたかったんじゃない」

「そうか」

「わたしも、おまえも、慈しまれていたと言いたかったんだ。かつて与えられた愛が今ないからといって、こちらも愛を捨てる必要はないと言いたかったんだ。おまえの愛はおまえのものなのだから」

「おまえは今でも、羊たちを家族だと思い、主人を探すつもりなのか」

「今はもうわからない。わたしの愛はわたしのものだが、わたしは彼を愛していたことしかわからない。彼が愛した羊たちをわたしも愛する必要はないし、そう思い始めたら、わたしが今どうすべきかもはやわからないんだ」

 風が一際強く吹いた。ドニの耳は靡き、黒と茶は再び混沌とした。ドニの口から覗く牙は紛れもなく生きるための力を有しているのに、元々彼のものではなかった様々な要素に覆われてしまって彼自身その存在を知らない。シャシャはこの牧羊犬を、今度こそ本当に憐れに思った。今頃狐は彼の欲望を満たして再び群を離れている頃だろうか。それともまだ子羊を追っているだろうか。

「もしも仮に、これは決して侮辱したいのではないが、仮におまえの主人がもう帰ってこないことが確かになったとしても、おまえは彼を愛することができると思うか」

 何故だかこの問いを口にするのは、シャシャにとって非常に緊張することであった。口の中が渇き舌が喉奥にへばりつくのを、辛うじて制する。声は掠れて唸り声とほとんど区別が付かないほどだったが、ドニには正確に届いたようで彼もまた緊張した面持ちでシャシャの言葉が届くのを待っていた。

 少し口を開き、また閉じて、何かを飲み込むような味わうような動きを繰り返している。犬の瞳はどこにも向けられず虚空の何かを見るようにして彷徨い、やがて再びシャシャを捕らえた。一度ぴったりと口を閉じてから、ドニはよく通る声を発した。

「わたしは、仮にあの人の遺体が見つかったとしてもきっとあの人の不在を受け入れはしないだろう。あの人の匂いや熱を感じることのできるあらゆるものを探し求めるはずだし、あの人の残したすべてのものを変わらず愛する。シャシャ、きみだってそうだろう。仮にもう二度と会えないとしても、それは愛さない理由にはならない。生きていてなお帰ってこないとしても、恨んでも愛すはずだ」

 ドニは少し言葉を切ると、シャシャに数歩近寄って声を潜めた。

「わたしはやっぱり、羊たちを家族だとは思えそうにない。それでも彼が大切にしていたものを脅かすことは何にも許さない。だからこれからは羊たちに手は出さないでくれ。今日のことはわたし自身への罰と戒めだと思って受け入れるが、これで最初で最後だ」

 シャシャが驚いてドニを見ると、彼は何が面白いのかこれまでで一番屈託のない笑顔でシャシャを見やっていた。風に混ぜ返された毛を邪魔そうにしながらも、払いのけることはせずにその奥で笑っている。

「お互い不自由だな」

「おまえはわかっていたのか」

「わたしは牧羊犬だから。シャシャ、忘れるな。例え完璧な自然でなくとも、我々は決して弱くない。命というものは、それが与えられたものであっても己の尊厳にしがみついて奮闘するものなのだ。わたしもおまえも、呪われていない」

 

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