第2話 ささやかな平穏

 昼休みの教室にはある種の緊張感が漂っていた。


 二年生になりクラス替えが行われ、それまでの人間関係がリセットされた。

 クラスの連中は仲間外れになる事を恐れ、我先にと集まって間合いを取り合うようなぎこちない会話を繰り広げている。

 弱い者は媚びを売り、強い者は力を誇示し、それぞれがクラスの中での居場所を確かなものにしようと足掻いている。


 ご苦労様な事だ。


 クラスという小世界の外側に身を置く嫌われ者の俺には、そんな苦労は関係ない。

 いつも通り、悪魔のように邪悪な顔を不機嫌そうにしかめて、一人気楽に飯を食うだけだ。それが終われば読書の時間だ。携帯を取り出し、お気に入りのウェブ小説に目を通す。


 友達なんか必要ない。今の世の中、一人で楽しめる娯楽は幾らでもある。大体、友達なんてろくなものじゃない。友達なんかいた試しのない俺だが、それくらいの事ははっきりと断言できる。


 ボッチの俺だからこそ、周りの様子がよく見えるのだ。友達面をして、隙を見れば陰口が飛び交う。つまらない理由で喧嘩して、仲間外れにしたりイジメたりする。本当に下らない。そもそも人間という存在がクソなのだ。それが二人以上集まれば、争いが起きないはずがない。一人でいる方が、よっぽど楽だし平和だ。


 そういうわけで読書を楽しんでいると、ふと教室の気配が変わった。

 入口の方が騒がしくなり、楽し気な雰囲気が波のように押し寄せて来る。

 理由は分かっていたが、気が緩んでいたせいで反射的に顔を上げてしまった。

 案の定、隣のクラスの白崎がいた。


 入学当初から学校一の美少女の名を欲しいままにしている、いけ好かない女だ。

 俺が嫌われ者の醜い悪魔だとしたら、白崎はみんなに好かれる可愛らしい天使と言った所だろう。


 愛嬌たっぷり、天真爛漫、いつも笑顔で元気いっぱい、見る者に元気を与える癒し系ムードメーカー、そういうタイプの人間だ。脳ミソがバグるくらいの美少女なのに親しみのある顔、誰にでも気さくで明るい性格、可愛い系なのにやたらとグラマラスな身体、そんな諸々でやたらと人気がある。


 友達のいない俺の耳にさえ、毎週のように誰かしらが告白して振られているという話が入ってくる。そう、この女は凄まじくモテるのだ。そのくせ、全ての告白を丁重にお断りしているという。


 そんな事言って、どうせ裏では十股くらいしているに決まっている。それで男を財布や足扱いして優雅な生活を送っているのだろう。あれだけ顔がよくて性格までいいなんて、そんな事あるわけがない。俺の経験上、見た目の良さと性格の悪さは比例する。その法則で言えば、白崎は天使の皮を被った大悪魔リリスなのだ。


 白崎は友達に体操着を借りに来たらしいが、そのまま居座ってうちのクラスの女子数人と楽しそうにお喋りをしてる。そこからマイナスイオンが発生するように、楽し気な雰囲気が湧きだして教室を満たしていた。女子共は羨望の眼差しを、男子共はだらしなく鼻の下を伸ばしている。気に食わない。目障りだから早く消えてくれ。


「おいキモ川! キモい顔で白崎さんの事ジロジロ見てんじゃねぇよ!」


 その声に、二年一組の教室は緊張感を取り戻した。

 言ったのは近くで弁当を食っていた男子グループの一人。

 中途半端な不良みたいな見た目をした、佐藤だか佐々木だか鈴木だか。名前なんてなんでもいい。他人なんか全員敵だ。覚える価値もない。


 ところで、こんな言いがかりは、普通なら言った方が悪者だ。だが、俺はこの通り醜い嫌われ者だ。ささやかな平穏を守る為、この一年間で積み重ねた悪名もある。クラスの連中は眉を潜め、痴漢でも見るような目を俺に向けてきた。


 だからどうした。この程度のトラブルは想定の内だ。クラス替えがあったばかりだから、手っ取り早く自分の力を誇示しようとするアホが喧嘩を吹っ掛けて来ると思っていた。新しいクラスの連中に自己紹介をする意味でも、軽く相手をしてやろうじゃないか。


 と言っても、俺の方から手を出すような馬鹿な真似はしない。ヘタを踏んで停学になんてなったら母親に迷惑がかかる。母親だけはこんな俺を愛してくれる。困らせるようなことはしたくない。


 なに、簡単な事だ。こういう相手は、黙って目を見てやるだけでいい。


「な、なんだよ、その目は! 舐めてんのか!」


 予想通り、佐藤は落ち着かない様子で啖呵を切ってきた。俺の顔が怖いのだろうが、先に絡んできた以上俺をビビらせるまでは後に引けない。だが、この程度で俺がビビる事はない。大勢によってたかってイジメ抜かれてきた俺だ。今更この程度の雑魚一人に凄まれた所で、欠伸も出ない。


 俺はいかにも小馬鹿にした感じでフンと鼻を鳴らした。実際馬鹿にしている。この後の行動は予知能力が芽生えたみたいに予想できた。


 誰にだって面子がある。俺に絡んできた佐藤には、不良キャラとしての面子が。それを鼻で笑われたら、振りでもなんでもキレないわけにはいかない。


「てめぇ!」


 だから佐藤はキレて、予想通り俺の胸倉を掴んできた。

 後はぶちのめすだけだ。


「待って待って!」


 いい所で邪魔が入った。白崎だ。


「よくわかんないけど、喧嘩は駄目だよ!」

「……こいつが白崎さんの事キモい顔で見てたんだよ。で、胸がどうとか、ヤリてーとか、下品な事言うから、怒ってやったんだ」


 平然と佐藤は言った。それはさっきまで、こいつが自分のグループの連中と話していた事だ。だからと言って、佐藤のグループの男子もわざわざそれを指摘したりはしない。当然だ。連中は佐藤の味方なんだから。面白がるように、ニヤニヤしながら成り行きを眺めている。


「サイテー」

「本当キモい」

「死ねよ」


 真に受けた女子共が口々に言う。

 俺は全く堪えなかった。その程度の暴言は言われ慣れているし、俺だってこいつらの事を最低でキモくて死ねばいいと思っている。

 当の白崎は悪口に参加しなかったが。


「それくらい平気平気。私って可愛くてセクシーだし? ていうかこれ、あれじゃない? 私の為に争わないで~! って。あははははは!」


 茶化してその場を誤魔化すように、わざとらしく白崎は言う。

 実際場は和み、剣呑な空気は白けた。


「……まぁ、白崎さんがそう言うんなら許すけど。おいキモ川! 白崎さんに感謝――」


 俺は佐藤の頬を平手で叩いた。

 バヂン! と派手な音がして佐藤が床に倒れる。


 グーでいかなかったのはパーの方が効果的だからだ。痛みや驚き、ショックは大きいが、ダメージはさほどでもない。血も出ないから、万一騒ぎになっても大事にはならない。実際に俺がやられていた、間違いのない方法だ。


「て、てめぇ! キモ川! やりやがったな! ぐぇっ」


 起き上がろうとする佐藤の背中を踏みつける。


「お前が、俺に、喧嘩売って来たんだろうが」


 言いながら、少しずつ足に体重をかける。

 佐藤のした事を考えれば、これくらいやらなければ舐められる。

 佐藤は勿論、周りで見ている連中にも。


「ちょ、ちょっと! だめだってば!?」

「うるせぇブス。俺の喧嘩だ。邪魔するんじゃねぇよ」


 やめさせようと腕を引っ張る白崎を真っ向から睨みつける。


「ブスって、私?」


 白崎は止めるのも忘れてキョトンとした。

 きっとこいつは、面と向かってブスなんて言われたのは初めてなのだろう。だから言われた言葉をすぐには理解出来ず、困惑しているのだ。

 どれだけ自分に自信があるんだ? 


「他に誰がいるんだよ、このクソブスが」


 俺は白崎を泣かせてやるつもりだった。

 白崎は学校一の美少女だ。街一番、県一番でもおかしくない。

 これまで出会った全ての人間に、当然のように愛され、可愛がられてきたのだろう。

 そんな奴に、お前なんか屁とも思わない人間がいるのだという事を思い知らせてやりたかった。


 醜い嫉妬だ。

 だからどうした。

 元より俺は、醜い嫌われ者だ。


 それなのに。

 白崎は笑いやがった。


 クリスマスの朝、ツリーの下に置かれたプレゼントを見つけた子供みたいに。

 腹の底から込み上げる歓喜を堪えきれないとでも言うように、ニンマリと笑いやがった。


 イカレてんのか?

 これには俺もたじろいだ。

 暴言を吐かれて笑う奴なんか初めてだった。


「ビビッと来た!」


 なにが?

 訳が分からず困惑する俺に、白崎は突然距離を詰めて耳打ちした。


「その人が嘘つきなのは分かってるから、それくらいで許してあげて」


 そのまますれ違って教室から出ていった。

 その場にいる全員が唖然としていた。

 足の下の佐藤だけが、虫のようにじたばたともがいていた。

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