第40話 神の望むもの

「うううう……、なんということだ。私は世界のため神話の力を使おうとしていたのに。クッソ、理解できない愚か者めが。許さん。絶対に許さんぞ」


 オーフェンはうめき声をあげて立ち上がり、プロメテウスのほぐちを掲げようとした。しかし足に力が入らず、転倒してしまった。再び立ち上がろうとするが、今度は手をついた時点で崩れ落ちる。アレックスのパンチのせいだ。ダメージのせいで頭がふらつき、全身が痛み、思うように動くことができない。


「ざまああああああ見やがれくそったれええ! おいコラ悪党め、それだけじゃすまさないからな! もう一発ぶん殴った後、アンソニーのところへひきずっていくから、ひざまづいて許しを請うんだぞ」


 絶叫しながらアレックスが迫ってくる。体重200ポンドの筋肉姿は恐怖でしかない。


 それに、

(もうすぐ『アイツ』が来る。それで形勢は逆転、勝利もヘラクレスも我が物になる。それまでどうにか時間を稼がなければ……)


 オーフェンは地を這いつくばって逃げ出した。手を伸ばして地面をつかみ、体を引きずると、鼻や口にセントラルパークの芝生が入り込む。青臭さくて苦い。普段なら指示一つで100や1000の人間が一斉に動く企業帝国の王だというのに、今は虫けらのようだ。こんなみじめったらしい事は人生で初めてで腹立たしいが、もう一発殴られるのはごめんだ。


 オーフェンが地を這うべく手を伸ばすと、何かがぶつかった。目線をやると、スニーカーがある。


「おお、ようやく来たのか。早くあの愚か者を始末しろ」


 オーフェンが安堵して顔を上げると、そこにある顔は助けではなかった。怒りに満ちたアレックスがいた。アレックスに胸倉をつかまれ、軽々と持ち上げられた。


「ようやく来たのか、だと? お前みたいなクソ野郎を助ける奴なんていないぞ。シーザーも会見場で絞め落としてきたしな」


 オーフェンの背筋が震えた。アレックスの瞳は怒りの炎で燃え上がっている。もう、いつぶん殴られてもおかしくない。とにかく何でもいい。時間だ。時間を稼げ。この爆発寸前のプロレスラーが好きそうな話題は……。


「それがいるんですよ。あなたでは決して勝てない、とっておきの強者がね。誰だと思いますか? 当ててみてください。あなたのよく知っている人ですよ。フフフフ……」


「てめえ、謝るより先に挑発の言葉が出てくるのかよ。全然反省してねーな」


 怒れるレスラーはこれ見よがしに拳を握る。


「あ、ああ。そうですよね。謝らなければなりませんね。ソーリー、アレックス。私が悪かった。お詫びのしるしとして、いくらかお支払いいたしましょう。いくらがいいですか? 好きな額の小切手を用意します。それとも何か別なものがいいですか? そうだ、シーザーは車や腕時計を喜んでいましたね。それもプレゼントしましょう。とびっきりのやつをね」


「……いいや、悪かったと思ってるんなら別にいい。その代わりしっかりアンソニーに謝れよな。ほれ、行くぞ」


 アレックスはオーフェンの胸ぐらから手を放して突き飛ばした。


 しかし、ヘラクレスは納得しなかった。アレックスの額にいるライオンは、吠える。


「おいアレックス、この手の悪党は改心なんてしないぞ。ぶん殴って、引きずっていけ」


「そう言うなよ。こいつはタップして降参したんだ。これ以上痛めつけようもんならレスラー失格だ」


「何甘いことを言ってるんだ。神であるヘラクレスのお告げだぞ」


「俺たちの信じる神は悔い改めれば罪を許すんだよ。アンソニーだってそう言うさ」


 そう言うと、アレックスはアンソニーのいる病院へ向かうべく、振り返った。


 オーフェンは驚愕した。なんだこのマヌケは、背中を見せたぞ。隙だらけだ。私が本当に改心したと思っているのか。あんなつまらないその場しのぎを真に受けているのか。それならば『助け』を待つまでもない。今この場で、私が決着をつけてやる。それで勝利の栄光も、ヘラクレスも、古代の知識も何もかもこの手にできる。そうだ、私はどんなに汚い手段を使っても、たとえ地獄に落ちようともヘラクレスを手に入れなければならない。


 オーフェンはプロメテウスのほぐちを振りかぶった。

 その瞬間。


 アレックスの額にいたヘラクレスがぐるりと振り向き、振り上げた手首にかみついてきた。当然ながらものすごいパワーで、オーフェンは腕を振り上げたまま、プロメテウスのほぐちを振り下ろすことができない。


「うわっと、どうしたんだよヘラクレス」


 アレックスはよろけた。ヘラクレスが額に足をひっかけていたため、後ろに引っ張られたのだ。体勢を立て直して振り返ると、オーフェンが燃え盛る花を振りかぶり、ヘラクレスがその手を押さえている。それを見て状況のすべてを察した。


「サンキューヘラクレス。お前がいなかったら、まんまとだまし討ちされるところだった」

「全く世話のやけるやつだな、この手のやつは改心せんといったろうに。反省を示すにはどういう行動をとるべきか、わかっているだろうな」


「もちろんだとも」


 アレックスはオーフェンをにらみつけ、拳をゴキゴキと鳴らした。


「誤解があるようですね。説明をしたいのですが――」

 オーフェンは反省せずに屁理屈を言おうとしていたが、突然、高らかに笑い声をあげた。

「フ……フハハハハ、あーはっはっは。遅かったが『助け』が来たぞ。私の勝ちだ。そら、あっちを見てみろ。君の死神がいるぞ」


「それで、振り向いたとたんに『ズドン』か? だまされるわけないだろ」


 オーフェンがアレックスの右を指さすが、アレックスは無視した。


 しかし。


 あれ? なんか来てるぞ。


 アレックスは目の端で高速で移動する物体をとらえた。物体は目にもとまらぬ速さで接近してきて、反応する間もなく突っ込んでくる。


「ぐっは」


 物体が脇腹に直撃。うめき声をあげて、アレックスは吹き飛ばされた。なんということだろう、アレックスは毛皮を被っており、ビルを飛び越えるほどの脚力を持っていたのに、物体の衝撃に対抗できなかった。その威力は大砲の弾でもぶち込まれたようなすさまじさだった。


「痛てて……。何だよ、いったい何が飛んで来たんだよ」


 吹き飛ばされ転がされたアレックスは、起き上がり、物体の正体を確認する。アレックスは目を見開いた。吹き飛ばされる前に自分がいた場所、つまり飛来物があるはずの位置にあったのは、アンソニーだった。


 アレックスの親友、アンソニーは仁王立ちし、何も言わずに吹き飛ばされたアレックスを見つめている。その表情は険しく、激しい後悔や罪の意識にとらわれているようだった。


「おう、アンソニーじゃないか。お前が俺を吹っ飛ばしたのか。俺がオーフェンを殴るのを止めたんだろが、俺は意味もなくそんなことしたんじゃないぞ。オーフェンのやつ、とんでもないことをしててさ。今から説明させるから、よく聞いてくれよな」


 しかしアレックスはアンソニーの異常に気づかない。それだけでなく、吹っ飛ばしたのが彼ならすべて納得だった。プロレスで鍛えたパワーもあるし、慈悲深い性格で殴るのを見てられなかったのだろう。軽い足取りでアンソニーへ向かっていく。


 次の瞬間、アレックスは目を疑った。


「大丈夫ですか、ミスターオーフェン」


 アンソニーはふらつくオーフェンに肩を貸し、いたわりの言葉をかけた。


「全く、遅かったじゃないか。テレビショーのガンマンじゃないんだから、ピンチになる前に駆け付けなさい。私の下で働くならスピードが大切だぞ。君が遅れたせいで攻撃を受けた。見ればわかるだろうが、左のほほだ。口の中が切れたし、明日になったら腫れるだろうな」


「はい、どうもすみませんでした。すぐに冷やすことをお勧めします」


 オーフェンが説教し、アンソニーが頭を下げる。


 アレックスは目の前の光景が信じられない。


「アンソニー、おまえ何してんの? そんな奴に肩を貸すなよ。オーフェンはなあ、お前のケガを仕組んだ奴だぞ。リングロープに爆発物を仕込んで――」


「全部知ってるよ。そのうえで肩を貸してる。俺はミスターオーフェンのもとで働くことにしたんだ」


「……え、は、なんで? なんでそうなる? 何か弱みでも握られたのか? それなら今すぐぶっ飛ばしてやる。だから、すぐにそいつから離れろよ」


「いいや違う。俺から頼んで働くことにしたんだ。教会に足の不自由な子がいただろう。俺の足を治したように、あの子の足も治してほしいとミスターオーフェンに頼んだんだ。その代価が彼の下での労働だ。初仕事として、お前からヘラクレスを奪取しろとさ」


 はっきりとした口調でアンソニーは言った。目つきも鋭くアレックスをにらみつけおり、迷っているでもなく、操られているわけでもなく、薬物や酒で正気を失っているわけでもない。ということはつまり、全て自分の意志で行っているということだが……。


 そんなわけない。アレックスは首を振った。ショックで混乱しているだけだ。俺が説得すれば正気に戻るに決まってる。


「アンソニー、お前それでいいのかよ。オーフェンは人殺しで、だまし討ちする卑怯者だぞ」


「ああそうだな。しかしあの子を治すことができる。俺にとってはそれがすべてだ」


「そんな奴の手助けをして、あの子が喜ぶと思っているのかよ」


「喜ぶに決まってるさ!」

 アンソニーは叫んだ。

「走り回って遊ぶ他の子を見るとき、あの子がどんな顔をしているか知っているか。どんな気持ちなのか想像がつくか。俺はつくぞ。なんたって俺も歩けなくなったんだからな。俺はあの子のためならどんなことでもやる。ヘラクレスを渡さない奴をぶちのめすこともな。さあ、わかったならヘラクレスをよこせ」


 アレックスは青ざめた。渡さない奴をぶちのめす――。それはつまり、俺のことを敵だと思っているのか。いつも一緒にプロレスを頑張って、チラシを配って、試合場も一緒に掃除したのに。共有したのは辛いことだけじゃない。プロレスで成功したときだって一緒になって喜んだ。ついさっき病室でハグしたことも頭に浮かんだが、今考えれば、あの時、既にアンソニーの様子はおかしかった。妙にオーフェンの肩を持つ発言をしていたが、あれは俺を騙す策略の一つだったんじゃないだろうか。


 騙されたのかと思うと、ショックのあまり気が遠くなる。アレックスが驚きで動けないでいると、ホテルネメアから駆け寄ってくる人影があった。フィオナだ。


「アンソニー、あんた、アレックスとすごく仲が良かったじゃない。それなのに敵対するなんて悲しすぎるわ。考え直してよ」


 フィオナはアレックスに寄り添い、叫んだ。


 しかしアンソニーは首を振り、アレックスとフィオナと、そして自分に言い聞かせるように語りかける。


「いいかお前たち、よく聞け。あの子の足を治すのは尊い行いだ。たとえ最も親しい友と決裂してもやり遂げなければならない。つまりこれは、神が与えた試練なんだ。苦難を乗り越え、友を失ってでもやり遂げよと、神がそれを望まれる。俺は絶対に譲らないぞ。アレックス、いつまでもめそめそ言ってるな。腹をきめてかかってこい」


 アンソニーは言い切った。話し合いが無駄なことは、もはやだれの目にも明らかだった。


「アレックスよ。しょげている場合ではないぞ。あやつの足元を見てみろ」


 ヘラクレスの言葉に従いアンソニーの足元を見て、アレックスは息をのんだ。アンソニーは足首に装具をつけているのだが、よく見れば、装具の側面に取り付けられている電子部品は、リングロープに内蔵された爆弾と同じものだった。


 アレックスは目を見開いた。


「オーフェンの野郎、なんて卑怯なことをしやがる。歩けるように手術した時、爆弾も一緒につけて脅したのか」


「ちがう。私が見ろと言っているのは足首に着けている装具だ」


 ヘラクレスがそう言った瞬間、装具が星の光を浴びて輝いた。この光は、ヘラクレスやプロメテウスのほぐちと同じ、妖しい揺らめきのある輝きだった。しかも装具が輝くに合わせて形を変えていく。くるぶしの部分に羽飾りが浮き上がり、それが本物の羽毛のように風を浴びて揺れている。


「あれは……、まさか神話の道具か。ヘラクレス、おまえ、あれに見覚えは?」


「ある。あれはヘルメスという口の軽い男が使っていたサンダルで、身に着けた者は空を駆けることができる。地を歩くくらいは当然のことで、大ケガをしたアンソニーが一日で歩けるようになったのは、科学技術の力じゃない。アレの、神話の力だ。つまり、あやつはオーフェンと同じく神話の力に魅入られてしまったのだ。あのなんといったか……、爆弾? とかいうピコピコは脅しでなく、単なる保険だろう。つまりアンソニーが手下になったのは、自分から望んでのことだ」


「そんな……。アンソニー、おまえなんていうことを」


「しょげてる場合ではないぞ。あやつは『神がそれを望まれる』と言った。これは許しておけない。神の名のもと善行を行うのはよい。恩を着せず、おごらず、素晴らしい行いだ。しかし、あやつが今やっているのは、神の言葉を都合よく解釈して責任から逃れているだけだ。あやつ自身、足のケガで悩み、迷って、救いを求めているのだろう。しかし、だからといって許してしまえば、今後も同じ屁理屈で罪を重ねることになる。お前はアンソニーが救いのない道を歩んでもいいというのか?」


「いいわけないだろ。アイツは俺の友達だ」


「だったら一発ぶん殴って目を覚ましてやれ」


 しょぼくれていたアレックスは拳を強く握った。そうだ、ヘラクレスの言う通りだ。このライオン、毛皮のくせに結構いいことを言う。大切な仲間が間違っているのなら正してやればいい。特にアンソニーは、俺がプロレスで仲間の気持ちを無視した行動をとった時、正してくれた。今こそその礼に、きついのを一発ぶち込んでやるぜ。

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