第33話 病院

 朝になった。アンソニーの病室に窓から朝日が差し込み、廊下から足音や話し声が聞こえる。


 病室に泊まり込んだアレックスは目を覚ました。ぐっすりと眠った感覚があるのに、全身が疲れ切っている。ひどい悪夢を見たときに似ていたが、悪夢じゃない。おそろしい現実だ。目の前にアンソニーがいる。両足をケガした痛々しい姿で横たわっている。


「アレックス……」


 低くかすれた声が聞こえて、アレックスはあたりを見回した。他のレスラーが見舞いに来たのかと思ったが、誰もいない。廊下を覗き込んでも看護師が忙しげに行きかうだけだった。じゃあ一体誰が俺を呼んだんだ? 聞き間違えか、それとも気のせいか。疲れているからなあ、と大きく息を吐きだした。 


「アレックス、俺だよ」


 また声がした。今度ははっきりと、しかもアレックスのよく知る声だ。聞き間違えようがない。声の主はアンソニーだ。彼はベッドで身を起こして、吊り上げられた自らの足をじっと見つめている。


「目が覚めたのか。どこか痛まないか? 喉が乾いてないか? 何か用があったら何でも言ってくれ」


「それじゃあ……、ケガの具合について教えてくれ」


「それは、えっと……。しばらく寝てればよくなるよ」


「アレックス、正直に言ってくれ。俺はもう、歩けないんじゃないのか」


「よくなる……、よくなるよ」


 言った直後、アレックスの目に涙が沸いてきた。やばいよひっこめなきゃ、と顔の筋肉に力を入れたが、涙は勢いを増してあふれ出す。仕方なく涙をぬぐったが、ぬぐってもぬぐっても終わりはなく、ほほに筋を作る。


 アレックスは真実を語らなかった。語れなかった。語る勇気がなかった。しかし、その涙が何を意味するかは明らかだった。


「そうか、やっぱりな。自分の足のことだから、なんとなくわかっちまったんだ。まあ別にいいさ、これくらい。教会に来ている足の不自由な子と一緒になっただけだ」

「アンソニー……、ごめん。俺のせいで」


 アレックスは崩れ落ち、アンソニーの腰元に顔を埋める。と、肩を叩かれた。


「お前のせいじゃないさ。あれは事故だよ。ロープが切れるという不幸があっただけだ。悪い奴なんてどこにもいない」


「けど、俺があんな風に落ちなければ、もっとうまく飛んでいれば……。やっぱり俺のせいだよ。俺がお前の足を壊したんだ。本当に本当に、ごめん。俺はお前のためならなんだってする」


「お前のことを悪いとは思わないが、そこまで言うなら一つ約束してほしいことがある」


「いいよ。何でもするよ。なんだって言ってくれ」


「プロレス、やめるんじゃねえぞ」


「え? けど、こんな事故起こしといて、自分だけプロレスを続けるだなんて。できるわけない」


「いいかアレックス。自分でどう思ってるか知らないが、さっきも言ったとおり、お前は悪くない。悪くないのになんだってやめる必要があるんだ。堂々と胸を張ってリングに立ち続けろ。俺はお前にプロレスを続けてほしいんだ。お前ほどプロレスが好きで、一生懸命な奴なんていない。見てるだけで楽しくなる。俺はお前のファンなんだ。NWEの奴らだって全員同じことを言うに決まってる。いいか、自分を責めるなよ」


 予想外の言葉に、アレックスは返答できない。自分はこれからどうするべきなのか、わからなかった。今でもプロレスはもちろん好きだし、アンソニーに高く評価されているのも嬉しかった。


 しかし、素直に喜んでいいのだろうか。アンソニーはいいやつだ。自分が辛い時でも他人のことを気遣う。今だって自分のこれからを全く気にすることなく、俺のことを話題にしている。本心では辛くて辛くて、俺の顔なんか見たくないかもしれないのに。なぜこんな聖人みたいなことできるんだ。信心深いやつはみんなこうなのか。困ったもんだ。アンソニーが自分のことを顧みないなら、俺がこいつを顧みなくちゃならんだろうに。


 と、ひそかに決意する。しかしだからといって、いや、だからこそ、やめるか続けるのかという答えは出ない。アンソニーがどう思っているのかは、結局本人にしかわからないのだ。


 どうこたえるべきか悩んでいると、病室に看護師がやってきた。


「え~と、お見舞いのあなた、アレックスさん。入院生活やリハビリについて、手続きの書類や資料をお渡ししますので、院長室までついてきてもらえますか?」


 オーケーと、アレックスは看護師についていく。


 アンソニーはその背中を見送り、院長室? と、首をひねった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る