第15話 カーチェイスその2 徒歩vs車

「なんてしつこい奴らだ、チクショウどもめ」


 夜のニューヨーク。アレックスは追いかけてくる車の群れから逃げていた。その時速は60キロを超えるが、彼は車やバイクに乗っているのではない。信じがたい話ではあるが、自らの足で走っているのだ。車が行き交う車道を突っ走り、追い越されたドライバーは目を点にしている。


「追いかけてきている車のなかにベンツという物はないのだろう? だったら全部殴ってぶっ飛ばせばいいじゃないか」


 アレックスの額で声がした。彼のかぶっている毛皮が話しかけたのだ。


 アレックスを追いかけまわす連中の目的はこの不思議な毛皮だ。この毛皮は人間の言葉を話すだけでなく、身にまとうと恐るべき怪力が身につく。アレックスが時速60キロを超える速度で走行できるのも毛皮のおかげである。


「ぶっ飛ばすって、この街中でそんなことできるわけねーだろ。ビルが巻き添えになる。それに、車ってのは高級車じゃないからってホイホイ壊していいもんじゃないんだよ。ったく、これだからサバンナ育ちは困るんだ」


 アレックスは走りながら毒づいた。彼の言う事は正しい。ここは世界で最も人の密集する場所の一つ、タイムズスクエアのすぐ近くだ。ビルが林立し、ネオンがまぶしくきらめいている。多くの人が今を楽しむこの場所で車を吹き飛ばそうものなら大惨事になる。


「おい、私はサバンナという場所で育ったわけではないぞ。オリンポスで生まれて、名前はヘラクレスという」


「オリンポス? ヘラクレス? どっかで聞いたことがあるような……、ロスの動物園だっけか。かわいそうになあ。アフリカの大自然を知らない、檻の中のライオンだったなんて」


「動物園でもないのだが……、まあいい。ぶっ飛ばさないと言うのなら、さっさと振り切れ。金属の弾を飛ばしてはこなくなったが、煩わしくてたまらん」


「わかってるよ」


 アレックスは地面に踏ん張って急ブレーキをかけた。足がアスファルトにめり込んで大穴を開け、スピードを急速に殺す。そして横っ飛びし、交差点を曲がった。はた目には速度を保ったまま直角に曲がったようにすら見える、すさまじき早業だった。


 追跡者たちは慌ててハンドルを切ったが、車は急に止まれない、曲がれない。交差点の真ん中で次々とスリップして団子になる。


 そこへブレーキの間に合わなかった車が突っこみ、多くの車をボーリングのように弾き飛ばす。突っ込んだ車も突っ込まれた車も、ぐちゃぐちゃに壊れた。ボンネットがつぶれ、ドアが壊れて、車内ではエアバックが作動している。関係ない車も巻き込んだ大クラッシュだ。どの車も走行不能で、あたり一帯はガラスと金属片が飛び散り、目を覆いたくなる光景である。


「オーマイガー。ストライクじゃないか」


 アレックスの顔面は真っ青だ。


「足を止めるな。まだ来ているぞ」


 ヘラクレスに言われて後方を確認すると、一台の車が見事なドライビングテクニックを見せた。急ブレーキをかけて事故現場すれすれをドリフトし、鉄くずになった車の間を縫って走る。そのままアレックスを目掛けて猛然と突進してきた。


 アレックスは再び夜のニューヨークを駆ける。レーサーのようなやつを振り切るために、一般の自動車を追い越し、急カーブも仕掛ける。


 しかし追跡者のドライビングテクニックは本物だ。どれだけスピードを上げても、急カーブを何度仕掛けてもアレックスにぴったりついてくる。


「敵ながら見事な馬術だ。やはり殴り飛ばす他ないのではないか?」


 ヘラクレスが低く唸り声をあげ、アレックスの拳へじりじりと移動する。


 アレックスはライオンの頭を必死に抑えた。


「だから、街中でそんなことは絶対にさせないぞ」


「じゃあどうするというのだ。このままではそのうちに追いつかれるぞ」


「それは……」


 どうっすっぺか。何も思い浮かばない、っていうか殴り飛ばすのがいい考えにさえ思えてしまう。アレックスが思わず天を仰ぐと、夜空にきらめく星が見えた。お星さまはいいなあ、俺みたいな人気のないプロレスラーとは大違いだ。キラキラ輝く文字通りのスターだし、空にいるから車に追われることもない。


 ……んん? 星は車に追われない、ってことは。


「おいヘラクレス、ひらめいたぞ。あれに向かって飛びつくから、噛みつけ」


 アレックスが街灯を指し示すと、ヘラクレスはニヤリと笑った。


「逃げ回るだけの臆病者かと思ったが、面白いことを考えるじゃないか。いいぞ、やれ」


「臆病者だって? プロレスラーに向かってよくそんなことが言えたもんだな、っと」


 アレックスは街灯へ向かって飛び上がり、ヘラクレスを振るった。


 ヘラクレスは鞭のようにしなって街灯に噛みつき、アレックスは毛皮というロープで街灯にぶら下がる。そのまま体を前後にゆすって勢いをつけ、街灯を軸にして体操競技のように回転した。


「大事なのはここからだぞ。怯えて縮こまるんじゃないぞ」


「わかってらあ」


 アレックスは回転を加速させる。すごい勢いだ。オリンピックの鉄棒選手よりも早く、多くの回数を回る。


 風がライオンのたてがみを激しくなびかせる。ヘラクレスは、十分な勢いがついたな、と判断し、噛みついていた街灯から口を離した。


 するとアレックスは回転の勢いのまま空高く飛び出した。高い。夜空の星が一気に近づいてきて、町を行きかう人や車が小さく見える。


 そのままアレックスはビルの屋上に着地した。アレックスを追跡していた車は、ただ見上げることしかできない。


「ハーハッハ。どうだ、いくら運転が上手かろうとも、ここまでは追ってこられないだろう。俺様のケツを見上げて悔しがるんだな」


「喜ぶのは早い。あの男、ここまで登ってくるつもりのようだ」


 アレックスが高笑いすると、ヘラクレスにたしなめられた。ビルから身を乗り出して下を見ると、男たちは車を降りてビルへ駈け込んでいるところだった。もちろん、銃を片手にしてである。


「うげえ……、なんつうしつこい奴らだ。というより、アホな奴らだな。俺たちはこれだけのジャンプ力があるんだぞ。登ってくる間に逃げられるとは考えられねーのか。さあヘラレス、こんなとこからはさっさとおさらばだ」


 アレックスは助走をつけてビルの端から飛び、隣のビルの屋上へ飛び乗った。次のビルへ向かおうとすると、目の前に出てきたのは大通りだ。多くの人や車が行き交い、渋滞を起こしていてクラクションがやかましい。その幅は30メートルといったところだが、今のアレックスには小さな溝にしか見えなかった。


 アレックスは後ろに下がって助走をつけ、ビルから飛んだ。ほほに当たる風が冷たい。股の下で車が渋滞をしていて、人々が豆粒みたいに小さく見える。それを一跨ぎするのは最高に壮快だ。普段見上げていたネオンの看板は、今、俺のすぐ隣にある。俺だけを照らすスポットライトだ。そんな錯覚さえする。


「いい気分だぜ。おいヘラクレス、これが檻の外ってやつだ。サバンナの大自然とは少し違うが、気持ちいいだろ」


 飛び移ったビルの屋上で、アレックスはニューヨークの夜景を見下ろした。そしてまた走りだし、次のビルへと飛び移る。


「確かに素晴らしい街並みだ。まばゆい松明も、鉄のチャリオットも、行きかう人の多さも、何もかもが素晴らしい。アテネやスパルタはもちろん、オリンポス以上だ」


「アテネやスパルタってギリシャの地名だよな。おまえはサーカスで世界中をめぐってたのか?」


「サーカスではないが、いろいろな場所に行った。トラキアにトロイアに、クレタ島、変わったところでハデスもだ。ジブラルタルというところには俺の足跡のようなものも残っているしな。ちょっとした冒険旅行ってやつだ」


「へえ、うらやましいな。特に足跡を残すってのがかっこいい。俺もスターになったらド派手な場所で試合をやって、足跡を残してみたいよ。ギリシャに行ってオリンピアの遺跡で試合をするってのはどうかな。オリンピア・デスマッチなんてやったらかっこいいだろうなあ」


 アレックスはビルから飛びながら言った。ビルの屋上を飛び移っている今も夢みたいで気分はいいが、やはり一番はプロレスだ。ファンの歓声というのは何よりなのだ。


「それはよい考えだ。オリンピアでは男たちが鍛錬の成果を披露する催しがあるからな。お前も出場してみるといい。


 しかしその前に、今はどこへ向かっているのだ? 足取りに迷いがないから行く先のあてはあるようだが」


「あてっていうか、フィオナとコンビニで落ち合うことにしてるからな。とりあえずはそこに行くつもりだ」


「ふむ。して、その場所は近いのか?」


「このスピードならもうすぐさ」


「それならここからは地上に降りて歩いていくと良い」


「はあ、なんでだよ? ビルを飛んでいったほうが速いし、楽しいだろ」


「それはそうだが、みろ。もうじき夜が明ける」


 言われて空を見れば、地平の先が白み始めている。アレックスは、ハン、と鼻を鳴らした。


「朝になったからどうだって言うんだよ。目立つのはまずいってか? いいじゃないか、俺の姿を見せてやれば、皆、カッコよさにしびれるぜ」


「目立つのはまずいというのもあるが、それだけではない。お前はビルから落ちる事になるだろう。俺がお前に力を与えてやれるのは、星の光に当たっている間だけだからな」


「それってマジかよ。もしジャンプする瞬間に力が、つまり星が消えたらどうなるんだ?」


 アレックスが問うた瞬間、目に朝日が差し込んできた。手で庇を作りながら足を止めようとしたが、間に合わない。アレックスはビルの屋上から飛んでしまい、己の問いかけの答えを身をもって知ることとなる。


 あれ、なんだかジャンプの感触がおかしいぞ。


 アレックスの背中に冷や汗が噴き出す。足元のビルを蹴って飛ぼうとしたが、力強さがなかった。毛皮をまとう前の、いつものジャンプの感覚だ。体を浮かせる浮遊感も、風を切る感触も、重力から解放される爽快感もない。飛び移る先のビルがみるみる近づいてくるはずなのに、遠いままだ。


「ああああああああ、やばいやばいやばい」


 アレックスは通常の人間らしく2メートルほどジャンプして落ちた。ヘラクレスの予言通りである。自分が今何メートルの高さにいるかはわからないが、このままいけば間違いなく死ぬ。手足をばたつかせてもがくが、浮き上がるはずもない。


 ドスン、と大きな音を立ててアレックスは地に叩きつけられた。が、死んでない。幸いなことに、落ちたのは路地裏のごみ箱だった。


 シット、全身が痛え。

 とくに痛むのは打ち付けてしまったケツである。しかし、それだけで済んでいた。目のくらむような高さから落ちたにしては少ないダメージで済んでいる。ゴミ箱のおかげだが、手についた黒い汁の匂いがきつい。ゴミ箱に感謝する気にはなれなかった。


「ヘイ、ヘラクレス。そういう大切なことはもっと早く教えろよな」


「教えたが、お前の返答はこうだった。かっこいい俺の姿を見せたい、とな。うかつな行動だ」


「う、そうだな」


「お前は空高いところを走って移動していた。これは言うまでもなく危険な行為だ。そんな時、自分がどういうことをやっているのか、しっかり考えてから行動しろ」


 言われて、アレックスは落ち込んだ。「自分がどういうことをやっているのか考えて行動しろ」とは、アンソニーにも言われていたことだった。


「とはいえ、そうしょげることばかりじゃない。連中に立ち向かう勇気は素晴らしかったし、少し奇妙ではあったが格闘術の腕も悪くない。若いうち精神的に未熟なのは当然なのだから、改善の意思を持てばそれでいい」


「サンキューサー、ボス」アレックスは笑いながら言った。「お前、なかなかいいこと言うじゃないか。サーカスでは人気のあるライオンだったんじゃないか? 人生相談をするライオン、なかなか面白い」


「お前は本当にヘラクレスという私の名を聞いたことがないのか。少しは名が知れているつもりだったんだが」


「俺はサーカスを見る暇があったらプロレスをみたりトレーニングをしてるからな。けどフィオナは腕のいい記者だし、あいつならお前を知ってるかもな」


「サーカスではないと言っているだろうに。まあいい、その女がいるコンビニというのはどこにあるのだ。まだ遠いのか?」


「ええっとだな」


 アレックスは辺りを見回した。街路樹や交差点のところにあるドーナツ屋に見覚えがある。ここをまっすぐ行けばプロレス用品店があり、その先に目的のコンビニがある。


「すぐそこだよ。驚いたな、ビルの屋上に上った時は10ブロック以上離れていたはずなのに。ライオンの力で走るのがこんなに早いとはね」


「それじゃあ早いところ合流するんだ。お前と嬢ちゃんの二人に話したいことがある」


 オーケーと言い、アレックスはライオンの毛皮を脱いでバックパックに詰めようとする。


「おい、何をするんだ。わたしを背負い袋に詰めるんじゃない」


 ヘラクレスは噛みつかんばかりに抗議した。


「その気持ちはわかるけど、辺りを見てみろ。ここはサバンナじゃない、大都会ニューヨークなんだ。ライオンの毛皮を持って歩いてたら変なやつだと思われるだろ」


「そうは言ってもだな、袋に詰めるというのは行き過ぎた仕打ちだ。何とかならんのか」


「どうにもならんよ。人目につかない場所に行ったらすぐ出すから、それまで我慢しててくれ」


「ぬぬぬぬ、わかった、しばらく我慢しよう。しかし人の目がなくなったらすぐに外へ出すんだぞ。いいか、すぐだぞ、すぐ」


 ヘラクレスは苦虫をかみつぶした顔をした。シマウマが見たら震え上がるに違いない。


「わかったよ。けどなんでそんなに嫌がるんだ? おまえまさか暗所恐怖症とか閉所恐怖症なのか? それはさぞつらいだろうな。気づかなくて悪かったよ。何か他の方法がないか考え――」


「違う。この袋、汗臭いんだよ」


「黙って袋に入ってろ。クソライオンめ」


 アレックスは乱暴にヘラクレスを詰め込むと、待ち合わせのコンビニ、タイタンマートへ入っていった。

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