第420話
「そんなことはありません。不幸せが無ければまた幸せも感じられません。良し悪しあっての比較です」
王の悪政を知った者は兄上を良くやったと賞賛したでしょう? ウンベルトがそう優しく諭してやる。その後に自身を含めて道を外しすぎたのも事実であったが。ダニエルが気を落とすのは多くに不都合があるため、敢えてそちらは口に出さない。
「……そう……か。時々ふと思うんだ、どうしたいのかと」
背を丸めてコーヒーを口にするダニエルがやけに小さく見えてしまった。年老いたと言うにはまだ早い、若くはないが壮健であった兄に、何とも言えない感情を持ってしまった。
「私は戻る。急に悪かったな、ウンベルト」
心なしか背中が泣いているように見えた。ウンベルトは喉まで声が出かかって、ついに飲み込む。義兄を見送った妻が、椅子で考え込む夫をチラリと見る。小さく頷いて彼女は寝室に向かった。
「おい、エレーナ」
暫くしてウンベルトが妻を呼ぶ。にこやかに彼女は応じた。
「相談がある」
「あなたのお好きになさって下さいな。私はあなたの妻です、全てを承知でお供致しますわ」
何かを手にしていたが、それが軍服だとわかりウンベルトは頷いた。
「済まんな、お前には苦労ばかりかける」
立ち上がり肩に手をやり抱き寄せる。軍服に着替えた彼は玄関を開けて兵に命じた。
「車を用意しろ、軍総司令部に向かう」
外出を禁じると返事をしなければならなかったが、兵はそれに従った。有無を言わさず従わせるだけの何かがそこにあったからだ。総司令官に敬礼し、鋭く返答する。
「スィン ドン・ヘネラリッシモ!」
第十六章 補給戦
「トラック中隊準備完了です」
改造したバスを移動司令部に仕立て、パンクしない特殊タイヤを装着させた、装甲バスに報告が集まる。最新の指揮装甲車両しか見たことがないような、先進国の若い兵士は腹を抱えて笑うだろう。だがしかし、今それに搭乗している男たちは真剣そのものである。
「第四コマンド、準備良し」
ヘッドフォンから伝わる声はどれもこれも似たように聞こえたが、ロマノフスキー中佐は先程のがマリー少佐だとすぐに解った。長い付き合いである、表情まで想像できた。
コスタリカ北東部、山岳の盆地に彼等は潜んでいる。遠巻きにコスタリカ警察が非常線を張っており、中に民間人が入らないよう警備していた。
「軽歩兵中隊、先行偵察に出ます」
必要な装備をパナマ船籍の大型貨物で東海岸から運び込んでいる。これだけでも国際ルールから違反しているが、そう訴えたとしても証拠はどこにも無い。
非装甲の軽車両や、バイクに乗った部隊が北進する。どんなに辺鄙な場所でもやはり警戒は必須である。省こうとでも言えば、副司令官に諭されてしまうだろう。
――国境警備すら居ないとは、フェルナンド大佐はかなりチョンタレスで幅を効かせているな。
薄く幅広く見張りを立てなければならない境界、そこを襲われたらひとたまりもない。国境警備は警察ではなく軍の役割なのだ。その軍が恐れるのはこそこそ密入国するような不逞の輩ではなく、同じ軍人らの集団である。
「機械化歩兵中隊、進出します」
工兵を伴った中隊が襲撃に備え前衛に出る。道が閉ざされていた時にはそれを切り開く役目も負っていた。偵察には異常がなければ無線を使わないよう命じてある。交信で察知されては元も子もない。
「嵐の前の静けさってやつだ」
マツバラ効果で意味のわからない台詞を並べた。通信兵が発信をオフにしてそれは何かの暗号かと尋ねる。
「こいつは諺だよ。事態が大きく荒れる前は、やけに穏やかになるとな」
すぐに無線が氾濫するから、それまではゆっくりしておけ。ロマノフスキー中佐が固くなっている通信兵に言葉を投げ掛ける。
「あの、副司令官殿。ひとつ質問宜しいでしょうか」
若い伍長が軽い空気になったのをきっかけに問い掛ける。
「おう、何でも聞いてくれ。女の経験談か?」
にやにやして受け答えする。そうではない、少しだけ困り顔で首を横に振った。
「司令官閣下や、副司令官殿は何故ニカラグアでこのようなことを?」
批判ではなく、過去を知らないわけでもなく尋ねる。想定内といえばそれまでの質問に、中佐は笑みを浮かべる。
「伍長に兄弟はいるか? 親友でも良い」
「はい、弟が居ります。幼馴染みの友人も」
何の関係があるのか、素直に答える。
「俺にとってイーリヤ准将は友であり兄弟みたいなものだ。それに命懸けで付き合いたい、ただそれが理由だ」
解らないでも無い答えだが、伍長が食い下がる。
「では司令官閣下がそうする理由はなんでしょう?」
バスの中で耳をそばだてる奴等が良く見える。興味深い話なのは間違いない。
「さあな。そいつは伍長が自身で聞いてみろ、うちのボスは答えるのを嫌がったりはせんよ」
中佐の提案に面白がって皆がそうしてみろと背中を押す。苦笑して機会があれば、伍長が向き直り席についた。
たかが補給にかなりの大所帯でやって来ていた。ロマノフスキー中佐を頂点に、マリー少佐の第四コマンド、機械化歩兵中隊、軽歩兵中隊、トラック中隊、牽引野戦砲中隊、軽砲兵中隊、その他に支援の諸兵科が司令部にぶら下がっている。
大隊とも旅団とも表せそうなそれは、補給部隊と素っ気ない呼称を使っていた。中佐は補給行為が大切な戦略だと昔から理解していて、このような名前にも拒否反応は無かった。
――最初に見付かるのは恐らくパトロールのジープあたりだな。そいつがいれば片道十五分程度に本隊が居るはずだ。
側壁に張ってある地図に目をやる。磁石が軸にあるコンパスで大まかに範囲を想定可能なように、予め準備してあった。数が多くなる程に、また期間が長くなる程に、駐屯場所が予測しやすくなる。
――フェルナンド大佐のところに着くまで戦いは避けたい。そっくりそのまま反対が相手の考えになる。不審な集団が見つかれば、次はそれが何者かを識別するだろう。
北部軍とは解らずとも、ニカラグア軍なのは一目でわかってしまう。同じ装いなのだから余計に。
関知しない小部隊ならばまだわかる。ところがかなりの数が統制を得て動いているならばそれは事件だ。規模や目的、装備に対策を同時に手配する指揮官は経験が足らねばパニックを起こしかねない。
――正常な軍人ならばリバスの軍が湖を南回りでやって来たと判断しそうなものだ。だったら信じたい情報を漏らしてやるとしよう。
中軍に当たる第四コマンド本隊とトラック中隊が、司令部と共にチョンタレスへ侵入を始める。第四コマンドの支隊が後備だ。志願兵から昇格した中隊と、レオン軍相手に果敢に戦ったのを目の当たりにしたヘルメス大尉が指揮下の中隊を率いて連なっている。
「偵察より伝令、中隊より北西七キロに軍用車両のパトロールらしき班を二両発見。監視を継続するとのことです」
通信ではなくバイクで伝令を飛ばしてきた。七キロあれば音はまず聞こえない。地図を調べ近くの地形を軽く頭に入れておく。
――リバスが本気で攻めてきたなら、当然マナグアは反応する。だが奴等はチョンタレスを増援すまい、リバスに向かうはずだ。助けが来ないと知った連隊長がどうするか、こいつが我等の一番の興味処だな。
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