第247話
ため息をついてタクシーに乗り込む、空港まで何もありませんようにと、あらゆる神に祈る島であった。
◇
オランダのアムステルダム。昔から風が強いのが有名で、風車が象徴的である。干拓地が非常に多く、海抜に対して敏感な国でもあった。ルッテの誘いを受けて入国すると、自然の薫りが外に漂う。
「お花畑があちこちにあるのよ」
アンネがチューリップが一番多いかもと付け加える。会話は終始スペイン語を使っていた、パラグアイに赴任していたのもそのせいであるらしい。オランダ語を一部は理解できたが、それはアフリカーンス語と重なっている単語のみである。
「花に風車か、石造りの建物と相まって中世を感じるね」
国土は小さくても海運国家だったおかげで、列強よろしく実力以上に力が発揮されていた歴史がある。その為に第二次世界大戦を別にして、戦争は国土を荒らすようなものではなかった。もっとも大戦でもあっという間に降伏だったので、戦禍は少ない。
「バランスが良いんだよ、多分そういうことだ」
辺りを見回してレティシアがそう評する。
――相変わらず直観する力が強いな。観て何かを感じさせるならば俺など全く及ばん。
「まあ田舎臭いと言われたりもしますがね、私は好きなんですよ」
ゆっくりと時間が流れるようなのが特に、とルッテが小さく頷く。二階建てのバスが目の前を横切る。
「さっきのは上にしか座席がないんですよ、下はフラットでユニバーサルデザインなの」
一階部分は車椅子がそのまま使えるようになっているらしい。ついでにハイブリッドカーで、排ガスにも配慮されているそうな。
「社会全体に余裕があるわけだ。生活が落ち着けば人の心も落ち着く」
「お前はどこかの学者か。緩めの仕事がありゃ、誰だってそうだろうが」レティシアがそう一蹴する。
「何故緩め?」
「知らないよ、何と無くそう思っただけだ」
細かいことでぐだぐだ言うなと、一刀両断してしまう。
「それはお嬢さんの経験からくる、熱いバイアスでしょう」何を言われたか理解できずに眉を寄せられる「あなたの暮らしていた地域では失業による貧困が多く、それによる犯罪が多かった違うでしょうか?」
それはそうかも知れない、と肯定はするがやはり意味は理解不能だ。
「えー、つまりは緩めの仕事とは、生きるに何とかなるといった意味合いだと推察します。最低限それが満たされるならば、人は無謀な真似をしないと感じたわけでしょう」
何だかよくわからないまま、ルッテの独壇場が続く。
「反対にイーリヤさんは、満たされた世界でお育ちになったのでしょう。だから社会が育てば人の心が落ち着くと、こちらも認知のバイアスでしょう」
結論に辿り着いてご機嫌になるが、二人としてはどう反応してよいかわからない。
「ごめんなさいね、お父様ったら大学で社会心理学の教授をしてましたの」
アンネが代わりに謝罪してから、得意気になっていた父に冷水を浴びせるような視線を突き刺す。彼もまた逸脱して失敬と、にこやかに謝罪する。
「いえ謝られるようなことはなにも。一つ質問なのですが、例えばそこに宗教があって育った者は、常にどうあれ何かを比較してしまう……と言うか、そんな癖が出てしまうものなのでしょうか?」
今度はルッテがポカンとしてしまう。
「それは」少し考えてから近しい答えを口にしようとして「非常に興味ある話だよ、じっくりと検証してみたい」
夜に酒を飲みながら検証の続きを行い、最後にはルッテが酔い潰れてお開きになった。
――アルコールには弱いらしい。
その後苦笑して毛布を肩からかけるアンネに、お休みを伝えて部屋にと入った。一応ニュースをチェックしようとテレビをつける。すると深夜のせいか、はたまたお陰かアフリカ奥地の話題をあげていた。
――M23のルゲニロ司教が追放されて、後にマケンガ大佐が降伏しただって?
意外であった。ンクンダが力を弱めた上に政府が折れることもあると証明されたのに、大して被害もない奴らが何故、と。評論家とやらが出てきて勝手に、限界に達したからだの何だのと喋っていた。
――理由はわからんが、力を持ったままの勢力が宙に浮いたままになるわけがないぞ!
噂通りならばンタカンダ大将がそれを掌握するのだろうが、実際どうなるかは予測がつかない。すぐに次のニュースに移り変わり、ロシアとグルジアについての内容となってしまう。
緊急事態が起きれば、どうにかしてロマノフスキーなりが知らせるだろうと、その日はぐっすり眠ることにした。
「私たちがご案内いたしますわ」
ルッテ父子がハーグ観光を申し出てくれた。ハーグと言えばニューヨークに次いで国連機関がたくさんある都市で、アムステルダムやロッテルダムの次に大きなところである。一応首都はアムステルダムにはなっているが、実際の首都機能はすべからくハーグにあるらしい。
「電車ですぐです。景色を楽しみながら行きましょう」
自動発券改札などにレティシアが四苦八苦し、笑ってはいけないのに焦り具合を笑ってしまった。車内からは田園風景が連なっている、ジャガイモ畑がたくさんあるそうな。
「実はお二人に会って、唯一残念なことがありまして」神妙な顔付きになって「イーリヤさんにはすでに相手がいたというね」娘は亡き妻に似て見た目だけは自信があったのですが残念、と口にした。
「おっ、お父様!」
顔を赤くして怒る彼女は、確かに可愛らしかった。一方でレティシアだが、そっぽを向いてしまいよくわからない。
「コーヒーを四杯下さい」
売り子に声をかけて空気を切り替える、彼にはなんら悪気がないのだから微笑で返すしかない。
「ハーグと言えば国連と陸戦条約が有名ですが」
他にどんなのがあるのかと問う。
「まずハーグという名前ですが、オランダ語でスフラーフェンハーヘと言います」
「えーと、伯爵?」
類似の単語がそれしか浮かばなかった。
「伯爵の生け垣だろ」レティシアがコーヒーに口をつけながら答える。
「そう正解、元は伯爵の領地だったわけです。もしかしてレヴァンティンさんはオランダ語が?」
「ヤー。ホーランセ ランスハップ スホーン。ウェトケ ターレレ スプレーク イェ?」
「イク ヘート ネーデルランズ エスパニョーラ」
――そうだったのか流石レティシアだな、しかしオランダ語は微妙だが二割はわかるな。
「降参してもよいが、そのままオランダ語でも俺は構わない。何せ多少の説明があれば半分は理解出来そうだ」
世界では比較的マイナーな言語にあたるが、日本人の為に、オランダ語自体の名前はどちらかというと聞き馴染みがある。オーストリアあたりのマジャール語や、イランのダリー語やらペルシャ語よりは免疫がある。
「楽しみながら語彙を増やしたらよいわ。一つずつでも混ぜながら話したら、クイズみたいかも」
全く不明よりは島も理解しやすいので、それを受け入れる。
「実はアフリカーンス語なら少しわかるんだ。だから若干は意味が通る」
そもそもアフリカーンス語とは、南アフリカに入ったオランダ人が、現地語とオランダ語を混ぜて作った言葉なのだ。
「それは珍しいですな。しかしフランス語や英語も話してたようですが?」
何かの聞き間違えかとすら思った、言葉と言うのは大多数が困るある種の壁である。
「趣味ですよ、ほぼ軍隊用語中心で現地の雑談程度です」
事実高校入試みたいな難解問題には、全く太刀打ちできないだろう。
「それにしたって努力は報われるものです。つきました、スヘフェルニンゲン地区です。冬では寂しいですがね」
ホームを歩きながら砂浜を指差す。
「夏になればヌーディストビーチですよ、今日は美術館を目指しますが」
北海に面した海岸線は砂浜で、暖かくなると大勢の賑わいを見せるらしい。響きが胸に刺さるね、と笑いながら十分程歩くと建築が美しい美術館に着く。
ヨーロッパは歴史の宝庫だと思い知らされ外に出る。少し歩くとまた素晴らしい建物が見えた。
「あれは?」
「クルーハウスホテルです。百年以上前からあるんですよ」
文化遺産は少しの間遠慮しますと苦笑した。他にも国会議事堂前の水路が美しかったり、公園部分のみではあるがハウステンボス宮殿を観て回った。
「これを見たらわかるが、南米は百年以上遅れているわけだ」
その差が縮まるのは半世紀はまだまだたっぷりかかるね、と独りごちる。
「何も先頭集団を走る必要はないさ。走り始めたら足を止めるわけにはいかなくなるからな」
発展の代価は維持にもかなりを求めてくると表す。開発しそれを保つのは、後ろから追い掛ける数倍の苦労を伴うものだ。
「程々が一番難しいものです。並み居るなかで一つ頭が出ていれば、また問題もあるでしょう」
イスラエルや香港、ルワンダあたりなどもそうだとルッテが指摘する。
「難しい話ばかりでなく、ちょっとここどうかしら?」
視線の先にはシーフードが多彩と書かれたレストランの看板がある。
「うむ、ではそこに行ってみよう!」
言葉に甘えて暫しオランダを楽しんだ二人は、ベイルートへ飛んだ。いつものようにアーメドを呼び出すが、今日は他に仕事もないのでワーヒドに行って、三人でテーブルを囲むことにした。
「また突然悪いね」
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