第242話


 言い残すと板場へと向かっていった。数分で戻ってくるとお引き受け可能だと返答する。


「ですが正式な会席料理を出すには材料が揃いませんので、別途可能な料理を提供で宜しければ」


 申し訳なさそうに言葉を区切る。


「無理を言っているのは自分なので、それでお願いします」


 裸で悪いですがと板場へ心付けを差し出す。魚心あれば水心である。女将が逆に恐縮して、部屋係に案内するよう指示する。上着をお持ちしますと手が空いている者が加わり、居場所が確保された。


 座ってばかりでやけに疲れたと座椅子に寄りかかる。ウェルカム温泉まんじゅうだよ、と小さな菓子を手にした。


「モール温泉らしいよ」


「植物泉? へぇ初めて聞いたよ」


 温泉文化自体が少ない上に、そのような地域から遠いせいか珍しさに驚きが無い。本来ならば世界有数、むしろ唯一に近いくらいに稀な泉質なのだが。

 窓から外を見てみる。池があり凍り付いた中に魚の姿があった。


「あれはオブジェ?」


「いや自然と凍結して冬眠状態だ、春の雪解けとともに復活するさ」


 そりゃ凄いと驚いて、屋根から伸びているつららをこつんとやる。


 ――何から何まで新鮮なんだ、きて良かった。


 茶を淹れて少し落ち着く。無音空間が意識を遠くさせた。部屋の外から食事の準備が出来たと知らされる。


「じゃあ行こうか」


「いや……部屋に食事が運ばれてくるよ。そういう施設なんだ」


 部屋食って言うルームサービスだと説明する。無論食堂が無いわけではない、折角だからそのコースを指定したわけだ。お膳料理が運ばれてきて並び終えると、白衣を着た壮年男性がやってくる。


「板場を任されている佐藤です。本日はご利用ありがとうございます。限りある材料を厳選しました」


「無理を通してすみません。日本の心を世界に広めている最中でして」


 にこやかにレティシアに視線を流す。男はごゆっくりと礼をして部屋を去る。

 並んだ料理をがつがつと食い散らかして大満足の彼女を見ると、自然と笑みがこぼれた。


「では露天風呂で一杯といこう」


 食べてひっくり返るつもりであったレティシアを引っ張り連れ出す。趣あるのか田舎臭いのかわからないような廊下を抜けて、脱衣場でわかれる。昨今の事情からロッカーに鍵がついているのは仕方あるまい。

 雪がちらつく石造りの湯槽に浸かって、お盆を浮かべる。ちょこに冷えた日本酒を注ぐと、彼女がやってきた。


「ほらこいつを一口だ」


 張り艶ある肢体を隠しもせずに隣に座り酒を一口。


「うん。なあルンオスキエ」

「ん?」珍しく名前を呼ばれて振り向く「どうした」

「十年後にはどうなってるかな」


 空を見上げる。雪が顔に触れて融けてなくなる。


「変わらずにこうしたいものだな」


 彼女はゆっくりと島の肩に体を預けた。


 休暇の後半、レティシアの希望に合わせてパラグアイを回避して、ヨーロッパを歩くことにした。何だかんだと島も、ナポリとパリ以外には殆んど行ったことが無いので、目的地選びが楽しい。


「起点をフランクフルトにしてみよう、そこからマイセン、プラハといった感じで古都を観光だ」


「寒くはないかい? もう少し南よりだとどこに」


 季節を考えたら確かに寒かろうと向きを変える。


「そうだなローマからベニス、マルセイユ経由でアンドラ、マドリッドと行けば温暖だ」


 地中海付近は海水温の都合から、安定して柔らかな陽射しがある。


「アンドラ?」


「スペインとフランスに挟まれた小国だよ。交易やサービスを売って存在しているんだ」


「そいつは面白そうだね、よし決まりだよ」


 早速航空便の空きを調べる、予算に上限がないせいですぐに適当な便の予約が取れた。ローマで丸々三日、遺跡や博物館を見て回りイタリア北東部に乗り込む。


「ようこそヴェネツィアか、水の都ってのは本当だな!」


 英語、イタリア語、フランス語、ドイツ語と読み方が少しずつ違う。


 それだけ各国で知られている要衝だと言える。水運の拠点は栄えやすい、昔はヴェネツィア共和国として独立した都市国家でもあった。今でもヴェネチアンはイタリア人としての帰属意識は低い。ここに限らずイタリア全土であるが。

 ホテル自体が文化遺産の場所にチェックインする。すぐ隣には水路があって小船が幾つも浮かんでいた。水上タクシーを営んでいるらしく、愛想よく声を掛けられた。


「乗ってみよう」


「そうだね」


 理解しやすい簡単なイタリア語を、英語やフランス語混じりで使ってくるため、何となくだが島でも理解できた。

 ヴェネツィアはイタリアのブーツを横に倒したような形をしている。その爪先が観光の名所だと売り込んでくる。素直にガイドを依頼して、ユーロ紙幣を一枚握らせると更に饒舌になった。


「お二人はここは初めてですか?」


「いや二回目だよ。最初は仕事で殆んど見てまわれなかったがね」


 レティシアが不思議な顔をする。だが用心深い奴だから、初めてと答えないのが常だろうと解釈した。


 到着した船着き場は狭く暗かった。理由があると言われ、二人で手を繋いで螺旋階段を登るよう言われる。ものは試しとやってみる、目を閉じていても明るくなったのがわかった。


「さあどうぞ、目を開けてみてください」


 ぱっと開くと、そこには薄い緑とも水色とも言える海が広がっていた。右手には真っ白な家がたちならび、景色にアクセントを与えている。


「マラヴィリョーソ!」レティシアが声をあげる。


「うむ! アドリア海の宝石とは言ったものだな!」


 島も素晴らしいと繰り返して絶賛する。まだ世界がヨーロッパのみであった時は、ここも七つの海に含まれていただろう。


 ――殺伐とした景色ばかり見ていたものだから、落差に衝撃を受けたよ。


 暫く放心したかのように眺めていた。カフェテラスがあるのでどうぞ、と勧められてようやく動く。

 ごゆっくりと帰ろうとする船頭に、もう一度ユーロ紙幣を渡す。


「感動のお裾わけだよミスター」


「お気遣い感謝します、ジュノですミスター」


「イーリヤだ」


 にこやかに席につくと、サービスだと小さなカップに飲み物が出される。


 その後も気儘に散策を楽しみホテルへ戻った、もう日付が変わりそうなほどになっている。


「新しい世界を知った気分だよ」


「荒れ地があって初めてここも輝くってわけだな、順番が逆なら絶望しそうだ」


 シャワーを浴びて軽いワインをやり直す。心地好い気分のまま二人は≪削除記録B1≫

 ギブアップが早かった。委細構わず島は攻め続けて、久方ぶりに完全勝利を手中に収めた。

 少しまどろんでからレティシアがバスルームに入る。喉が渇いた島がミネラルウォーターを取りに、通路近くにある冷蔵庫を覗き込んでいると、不可解な声が聞こえてきたような気がした。


 ――ん? こんな真夜中にルームサービスではあるまい、何を話しているんだ?


 気になってドアに耳をつけてみる。微かにだが話し声が拾えた。


「下の階は全て押えた、あとはスイートだけだ」

「金持が居るからな、ここの奴等だけは殺しちゃならんぞ」

「ああ、身代金が楽しみだな」


 ――賊共か!


 すぐにチェーンロックを確認して、レティシアに伝えに行く。一息ついていた彼女が、真剣な顔をしている島にどうしたかと訊ねる。


「ホテルが賊に占拠されているようだ。すぐに着替えろ」


 島も服を着ると武器になりそうな物を探す。


 ――ヘアスプレーと歯ブラシ、タオルも濡らしておくか!


 柄を割ると手近にあった品をポケットに捩じ込み、ライトを消して扉近くの壁際に立つ。マスターキーを使ったのだろう、抵抗なく鍵が開くと、大きな工具でチェーンを絶ち切る。


 ――二人組だな。先頭の奴を盾にして一瞬で制圧せねば。


 目を瞑って暗闇に慣らしておく。ゆっくりと足音を忍ばせて一人が侵入し、ベッドへ向かい角を曲がる。背後から組み付き片手で口を押さえて、もう一方で折れた歯ブラシを喉に突き刺す。

 くぐもった声が漏れたが、床に寝かせて壁にと戻る。


「おいどうした?」


 低く抑えたイタリア語だ。カチャと銃を構える音がする。タオルを手にして腰を落とす。銃だけをつき出した体勢でゆっくりと侵入者がにじりよる。

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