第161話

 微笑を残して島は一人で屋上を立ち去って行く。残されたゴイフは「前へ……か」と呟いて懐から煙草の箱を取り出す。それを思いきり遠くへと放ると身形を整えて階下へ降りる。


 一つ鋭い声を発すると気合いを込めて大統領のところへと歩き出した。その姿はまるで長い長い道のりを踏み出すかのように見えた。


 暑い日差しが照り付けてくる。時計はもう夜を表しているという位なのに、だ。 イガティミの郊外、東側の外れにちょっとした森林地帯があった。役柄ロマノフスキー少佐とアフマド軍曹がその中へと足を踏み入れている。


 隣には大型のトラックが二台、それぞれが運転してきたもので、輸出用の現物が積載されていた。いつもと変わらないようにとの命令を破ったゴンザレスは、それと解るように異常を演出していた。だが向こうからの要求だとして話を進めている。


 ロマノフスキーもこれ幸いと、誘いを渋々のように受けるのを演じて今に至っていた。それぞれの思惑が交錯し、小さな森林周辺には数百の武装した男達が息を殺して潜んでいる。


 ロマノフスキー少佐が司令部を離れている為に、この派遣部隊の指揮はマリー中尉が執っている。島はというとワゴン車に無線機を積み込んで、森林から少し離れた場所でプレトリアス少尉らの護衛と共に様子を窺っていた。


 最前線から外れて観戦の構えをとっているのを中尉らは知らない。感付いている可能性はあるが。受信、送信の類いは小さな機器を体に仕込んでいるため、少佐らの動きに不自然さは無い。さほど待つことなく、ゴンザレスが旅行鞄を曳いて二人でやってくる。


「待たせたな、今回限りだが現物交換だ」


 あたりを注意して見回す。当然姿は全く見えないが、小鳥や小動物も居ないため、何かが潜んでいるだろうと双方が同じことを感じる。


「理由を聞きはしないよ。だが鞄の中身だけは確認する。その場でゆっくりと開けるんだ」


 事情に踏み込まないと、取引の鉄則を貫く。ゴンザレスが鞄を開くと、使い古された紙幣が山のように入っている。束を五つずつさらに輪で留めてあり、鞄の上蓋側に並べて個数で以て額を確かめる。これが日本ならば、百万の束が十で一レンガと数えたりするとかしないとか。


「真ん中が偽物って古典的な冗談は御免だ、左端の下段の束を一つ放れ」


 頷くと一つを双方の真ん中あたりに投げた。アフマドがそれを拾って戻り、中身を軽く確める。


「紙幣です、少なくとも雑紙は混ざっていません」


 偽札の可能性は否定できないのを一応指摘しておく。


「まあもし偽札使うならば闇取引の相手にするだろうさ。いいだろう、車と交換だ」


 一方的な持ち去りを防ぐために、車のキーを抜いて握り混む。結局は少佐らを倒してから回収したら済むような話ではあるが、争いになったりでもしたら勝者にならねば荷物をゆっくりと動かすことなど不可能になる。


 古今東西を問わず、取引はその受け渡しの瞬間が一番危険である。円を描くようにして等距離を保ちながら、ゴンザレスが車にたどり着くとロマノフスキーも鞄に手が届いた。キーをその場に置いて鞄をアフマドが抱えると、来た道を同じように戻ろうとする。


「待て、スペアキーがあったらこちらが困る。それ以上は車に近付くな」


 その言い分ももっともだと納得し、森林の脇道にと進もうとして、キラリと何かが遠くで反射するのを感じて突如伏せた。直後に枝葉がガサガサする音がして銃声が鳴り響いた。


「裏切りだ!」


 誰もが同時に叫んだ。直後に複数の銃声を発しながら、あちこちから男達が取引現場に近付いてくる。


「軍曹、鞄を置いて脱出するぞ!」


 持ったままでは無事にすまないと匍匐前進で何とか後方に避難するのに集中する。一方のゴンザレスらもトラックを盾にして、部下が武器を携えてやってくるのを待たず、一目散に離脱をはかった。


 乱戦になればバレイロの部下がここぞとばかりに闇討ちを仕掛けてくる可能性があったからである。跳弾こそないがどこから弾が飛んでくるかわからない場所に長居は不要である。兵らが徐々にトラックと鞄を狙って肉迫してきた。


 この二つのうち一つでも持ち去れば負けはないと、部隊長らが的にするのもよくわかる。それだけに無理を承知で距離を詰めようとして被弾する者が出てきた。


 軍服ならば肩帯に手を引っ掻ければ引きずることが簡単であるが、まちまちの武装であるギャングスターたちはうまくいかなかった。然りとてここで押し負けては結局明日は無いと、カラフパラースィオの兵が次々と最前線にと辿り着く。


 将来に直結するだけに士気が違った。鞄を抱えて逃げることが出来れば、部下持ち幹部に抜擢されるのは間違いない。


「やれやれ泥だらけだよ」


 嫌がる素振りをみせるわけではない、帰着を知らせるかわりにそうしただけである。顔まで泥まみれの二人が指揮所に駆け込んだのだ。といっても、建物が有るわけでもなく、単に通信機を抱えた兵と指揮官らがまとまって居るだけである。


「お帰りなさいませ司令殿。それでは役目を引き継ぎますので、小官は前線に」


「ああ大物を釣り上げてこいよ中尉。――俺達の真に働かねばならない場所はここではないからな、傷一つ負ってもいかんぞ」


 だからと後ろにいちゃならん、そう無理難題を押し付ける。言われたマリーも、軽く了解と敬礼してビダ軍曹に目配せをすると指揮所を後にした。


「通信状況はどうだった?」


 サルミエ軍曹がグアラニ語担当の為に通信機を背負っているので訊ねる。


「クリアです少佐殿。しかしよくぞ狙撃を回避しましたね?」


 弾丸は音より先にやってくるため、かわすなどは無理な話である。花火や雷のように、音は随分と後になってから届くものなのだ。発射光が見えたとしても間に合うわけでもないが。


「なに、狙われているような気がしただけさ。仮に何もなかったとしても、ちょっとイカれた男だと奴等に思われるだけだ。直感だよ」


 理性ではなく感覚に従えとは言ったものである。人は成長するにつれてこれが出来なくなってくるのは、脳の作りなので仕方がない。だというのにそれが出来るのは、ある意味で一つの才能と表しても良いだろう。


「自分も見習わせていただきましょう。現在中央に三個分隊六十人、左右に各一個分隊二十人、本部に十五人が居ります」


 大雑把にでも把握させておかねばならない情報を自主的に報告する。ロマノフスキーはわかった、と返答してどうすれば被害少なく撃退可能かを思案し始める。


 ――この状況はフラッグスチールに似ているな。鞄やトラックに敢えて近寄らせて、効率よく倒してやるか!


 レバノンでプレトリアスがやっていた作戦をアレンジしてやろうと考えをまとめようとする。トラックは突っ切れてしまうと面倒なので、鞄で罠を張ることにする。サルミエに通信機を渡すように命じ、フランス語で中尉に呼び掛ける。


「俺だマリー、奴らを引っかけるぞ、トラックの動きを封じておいて鞄をエサに引き付けて撃退するんだ。鞄には弾を当てるなよ」


「やってみましょう。あちらも荷物と金は撃たないはずです」


「かも知れんが、常識は捨てちまえ。何が起きてもおかしくはない」


 想定外のことは必ず起きるものだと信じている。哲学的な表しかたを聞いたこともあったが忘れてしまったが。いかに思考の幅を広く持つかで、その驚きによる空白時間を短縮できるか。


 そして他人事として眺めて客観的な判断を導き出せるか、指揮官の経験や資質が問われる。計画遂行能力とは、いかに計画外の部分を処理できるかなのだ。他に指揮所でやっておくべきことを思案する。


「ブッフバルト上級曹長、森林外側に偵察班を出せ」


「ヤー。四班派遣します」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る