ふたり、東へ①


 京から関東に行くには大津から中山道または東海道へ入るのが一般的な旅程であったが、さくらはそのどちらも使わなかった。大坂からは奈良へ抜け、伊賀を超え、伊勢を過ぎ、尾張へ入った。大変な道のりではあったが、追手の気配がなかったという点においては順調な道中であった。だが、問題はここからだ。道なりに行けば、どうしても東海道に入ってしまう。なるべく人目は避けたいところだというのに。

 それでも、さくらはなんとか主要な道を避けてひたすら東へと進んだ。宿場町もところどころあったが、農村で野菜や握り飯を分けてもらったりしながら、基本的には野宿で過ごした。足跡そくせきを、なるべく残したくなかった。

 だが、赤石山脈、そして富士山に行く手を阻まれた。山道・獣道に入って遭難してしまったら元も子もない。とうとう大きな宿場町に入り、他の旅客と同じく東海道の真ん中を歩かざるを得なくなった。

 さくらは浜松の町はずれに寂れた宿を見つけ、一晩を明かすことにした。女将だと名乗った生気のない老婆と、くたびれた下男・下女が数人ずついるだけの小さな宿だった。宿泊客に興味がないのか、何日も風呂に入っていないみすぼらしい男装の女を詮索することも特になかった。久々に暖かい食事と布団にありついたさくらは、泥のように眠った。


 次の日、出発しようとすると女将が声をかけてきた。

「島崎朔太郎殿ですか」

 さくらは、全身に冷や水を浴びせられたような心地がした。この宿には当然、偽名で宿泊していた。それなのに、ずばり「島崎朔太郎」と言い当てられるなんて、さくらには何が起きているのかさっぱりわからなかった。

「どなたかと勘違いされていませんか。私は井上進之助と申したはずですが。宿帳に書いてあるでしょう」

「ここは見ての通りのぼろ宿ですからね。訳ありの人間もよう泊まりにきます。これを見てねえ」

 ひらり、と女将が差し出したのは一枚の人相書きだった。旧幕府の脱走兵・島崎朔太郎を見かけたら情報提供を、という内容が書いてある。さらに、変装が得意で女の姿をしていることもあれば男の姿をしていることもあるという旨が書き添えられていた。

 やはり、バレている。島崎朔太郎が八丈島には行かず、どこかに逃げたということが。おそらく、あの船で見張りをしていた高木が一命を取り留め、いろいろと証言したのだろう。どうする、どうなる、さくらは思案を巡らせた。最悪の場合、善吉と弥平にも危害が及ぶのではないだろうか。

 だが結論、今取れる行動はひとつだ。知らぬ存ぜぬを通すしかない。

「人違いでしょう。私はそのような者は存じませぬゆえ。宿代は昨日のうちにお支払いしていますから、これにて失礼いたします」

 さくらは、女将と目を合わさず、そそくさと出口に向かった。

 とにかく一刻も早くこの町を出なければという気持ちで往来に出たが、早速目の前に二人の男が立ちはだかった。格好でわかる。新政府の人間だ。さくらはぺこりと会釈をし、横からすり抜けるようにして歩き始めた。しかし、男たちは小走りで追いかけてきてさくらの前に回り込んだ。

「島崎朔太郎だな。見つけ次第斬り捨てよと達しが出ている」

「ちょっと、いきなり何ですか。人違いでしょう」

「白を切るでない。その方、女性にょしょうであろう。例え違うとしても、そんな格好をした女を調べもせず帰すわけにはいかぬ」

 ここまでか、とさくらは唇を噛んだ。荷物を検められれば、勇の首も見つかってしまうだろう。走って逃げたとして、逃げ切れる可能性は高くない。かと言って、いきなり斬り捨てればそれこそ辻斬りの罪でも着せられて余計に追手を増やすことになるだろう。

 ——考えろ。この場を切り抜ける、何かもっともらしい嘘を。

「ううっ」

 さくらは泣き真似をして袖で目頭を抑えた。

「お許しくださいませ。確かに私は女子でございます。けれどこれは近頃物騒だからと少々過保護な父の言いつけでこのような格好をしております。腰の刀とて、何の値打ちもない竹光にございます。江戸にいる兄にどうしても届け物をせねばならず、尾張からひとり歩いて参りました。先を急ぎますので、これにて失礼いたします」

 三十過ぎの女が往来で涙ながらに釈明をするのもいかがなものかと思ったが、女であることは自分から認めてしまった方がいいと考えた。証拠を見せろ、この場で脱げと言われたらたまったものではない。

 男たちは予想外の話に面食らったのか、一瞬隙を見せた。さくらはそれを逃さず、スタスタと歩を速めその場を離れた。やがて早歩きから、小走りへ。

「おい、待て! それだけで納得できるか!」

 それはそうだろうな、とさくらは内心同意しつつ、走る速度を上げた。どこか撒けるような路地を探して左右に目を配る。同時に、追手の足音も近づいてくる。

 今いる大通りから小道に入った。正面に抜けるとまた大通り。右に曲がり、さらに隠れられそうなところはないかとあちこち見回した。

「こっちに入ったぞ!」

 声が聞こえる範囲に、まだ彼らはいる。さくらは、最初に見つけた角を曲がった。人がやっとすれ違えるほどの狭い路地だった。そして、正面は行き止まりだった。大通りに再び出て別の道を探すか、ここでやり過ごすか。どちらにせよ、見つからずに済むかどうかは賭だ。どうする、万事休すかと思われたその時、横から強く腕を引っ張られた。

 突然のことにさくらは狼狽した。

「離せ!」

 小声で訴えながらぶんぶんと腕を振りほどこうとするも、掴んでいる男の手はがっしりとしており、離してくれそうにもない。次にさくらは口を塞がれ、もはやこれまでと絶望の淵に落とされた。が、頭上から降ってきた声に、聞き覚えがあった。

「シーッ。俺だよ。久しぶりだな、

「さ、さの」

 言いかけて、再び口を塞がれた。状況をよく見ると、二人は今家と家の間のわずかな隙間に入っており、「おい、どこに逃げた⁉」という追手の声が遠ざかっているようだった。

 しばらくその場で息を潜めていると、危機は去ったようだった。左之助は、黙ってついてこいと目で合図すると、さくらの手を引き町はずれの小さな飯盛り旅籠に連れていった。


 

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