迎え、西へ④
「はあ、はあッ……」
息を切らせて、さくらは走った。背負った行李には、当面逃亡生活ができるだけの道具や食料、首桶が二つ入っている。ひとつには勇の首がおさまり、もうひとつはまだ空だ。
——次は、源兄ぃ。
三条河原の現場から十分に離れると、さくらは一度立ち止まって息を整えた。ここまでくれば、走る必要はないだろう。人気のない道を選んで、時折休憩を挟みながら、とぼとぼと歩き始めた。
タミには、事前に礼と別れの挨拶を済ませてあった。落ち着いたら、文を出そう。首尾よく運びました、と。しかし、本当にそんな文が書けるかどうかは、まだわからない。
慌てていて、あの二人の門番がこと切れているかどうかをきちんと確認していない。息を吹き返し、何かを証言するかもしれない。そうでなくても、見張りが斬られて首を盗まれたことは早晩明らかになり、下手人探しが始まるだろう。追手が来る前に、さくらは源三郎も見つけなければならなかった。
空が白んできた。夜闇はもう、さくらの姿を隠してはくれなくなる。気持ちが急いて、さくらの歩みは早まった。しかし、歩いても歩いてもあの寺が見えない。
「あ、れ……?」
さくらたちが撤退した後も、彼の地は戦場だった。 砲弾の直撃や火災などで目印となるような建物は壊され、辺りの様子は変わってしまっていた。
「どこ……?」
あの時は、無我夢中で戦っていた。そして、敗色が濃くなってくると、大坂方面に撤退した。泰助と共に源三郎の首を埋めたのは、戦地から大坂へ向かう途中にある寺だった。
――私は、なんて愚かなのだ。寺の名前を、思い出せない。否、覚えようとしなかったのだ。
確かにあの時は、首を埋めたら即大坂に向かわねば、という状況だった。先に行った山崎の怪我も心配だった。けれど、今となっては言い訳にすぎない。
あの寺の外観や門構えを見れば「そうだ、ここだった」と思い出すだろう。とにかく、大坂に着くまでの間に寺という寺を探すしかない。だが追手のことを考えるとぐずぐずしてもいられない。
それでもさくらは、見つけうる限りの寺を覗いてみることにした。非効率だが、こうするよりほかはない。
いつの間にか日は高く上り、どこからか正午の鐘が聞こえた。淀千両松の戦いがあったあの場所から大坂の中心までは、まっすぐ歩いてもほぼ一日がかりの道のりである。そこを蛇行しながら歩いているのだから、ほとんど進んでいないといっても過言ではない。貴重な握り飯をちまちまと食しながら、さくらは歩いた。やがて日が暮れる頃、遠くにそびえたっているものが、ぼんやりと見えた。このあたりで高い建物といったら、大坂城しかない。件の寺を見つけられず、限りなく大坂に近づいてきてしまったということになる。
――そんな。
絶望のあまり、さくらはそれ以上先に進めなくなってしまった。
さくらは、使われていない小屋を見つけ、そこで一夜を明かすことにした。寝床としては粗末なものだったが、仕方ない。追われる身である以上、江戸までの道中まともな旅籠に泊まることはできないだろう。これからも野宿が続く可能性を考えると、こういうところでも体を休められるよう慣れていく必要がある。さくらは筵をあつらえ、うとうとと眠りに落ちた。
夢を見た。昔の夢だ。さくらが、初めて稽古で源三郎に勝った時のことだ。
「さくら、強くなったな」
「やった! 源兄ぃに勝った!」
無邪気に喜ぶさくらを、源三郎は優しい眼差しで見つめていた。
「どんどん強くなって、もしかしたら私が追いつけないところまで行ってしまうかもしれないなあ」
「どういうことだ? 大丈夫だよ、源兄ぃを置いていったりはしないから」
「ははっ、さくらにそんな風に言われるとはな。時の流れってやつか」
「何をじじくさいこと言ってるんだ」
「じじくさいとは何だ!」
ぷっと同時に吹き出して、二人はクスクスと笑った。木刀を片付けていると、源三郎が真剣な調子で「さくら」 と呼んだ。
「置いていけよ。私は、さくらの足を引っ張りたくはない。何か私が足枷になってしまうようなことがあったら、私のことは迷わず置いていけ」
ハッとさくらは目覚めた。目のあたりが湿っぽい。涙だ。
「嫌だよ、源兄ぃを、置いていくなんて……」
足枷だなんて、源三郎をそんな風に思いたくなかった。
「でも、もう、行かなきゃ……」
壁の隙間から、朝日が差し込んでいた。ここでいつまでも足踏みをしているわけにいかないのも事実。追手に見つかる可能性は、時が経つとともに着実に高まっている。
「ごめん、ごめんね、源兄ぃ」
後ろ髪を引かれるとはまさにこのことだと悔やみながら、さくらは源三郎を諦めた。
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