生きる②
景色を見るのに少し飽きたさくらは、二人の水夫に目をやった。後ろで漕いでいる方は、さくらよりも少し若そうだ。優しそうな顔をしてはいるが、大人四人が乗る船を漕ぐだけあって、手足にはしっかりと筋肉がついている。ただ、傍らで高木が目を光らせているのであまりじろじろ見るわけにもいかず、さくらは前方の水夫に視線を移した。こちらが船頭らしい。四十歳に達しているかいないかといったところか。さくらに背を向け、進行方向を見据え黙々と船を漕いでいる。いかにも職人といった様相だ。
「船頭殿。あとどのくらいで横浜に着くのですか」
さくらは牢の中から声をかけた。
「おい、私語を慎め」
と高木に叱られたが、さくらは「よいではないですか」と笑みを浮かべた。
「先ほどからずーっと波の音と、せいぜい海鳥の鳴き声が聞こえるだけ。高木様とて退屈でしょう」
「……あと一刻と少し、だな」
船頭がさくらの質問に答えた。おい! と高木は再び声を荒げたが、さくらは無視して「そうですか」と頷いた。
「横浜で大きな船に乗り換えたあとも、あなたが船頭を?」
「ああ」
「私、聞いたことがあるんですけどね。流人船の水夫の方は、何か訳ありなのだと。言われてみればそうですよね。陸地の見えない沖合まで出ていく長い船旅になる。行く先を見失って、そのまま海の藻屑ということもままあるとか」
「何が言いたい」
「同じ訳ありの者同士、仲良くしましょうというだけのことですよ。これから長旅を共にするのですから。お近づきのしるしに、これを」
そう言って、牢の格子の間から手を伸ばし、折り鶴を差し出した。船頭は、一瞥すると乱暴に受け取った。
「船頭殿、お名前は? 生国はどちらで?」
「……
「瀬戸内ですか! しかし、あまり西国のなまりがないですね」
「船乗りは、あちこちの人間と同じ船に乗る。
「左様ですか。なんだか楽しそう。今までどんなところに?」
「いろいろだ。異国にも行った」
「異国!」
さくらは目を丸くした。遠くても、せいぜい蝦夷だとか、薩摩の方だとか、そんな答えが返ってくると思っていたのだが、意外だった。
「異国かあ。どんなところなんでしょうね。私たち、攘夷だの開国だの喧々諤々しましたけれど、実は異人を見たことがないんですよね。そういえば、異人みたいな人には会ったことがありますけど。榎本さんという方で、こんな八の字の髭を生やして」
善吉は、バッとさくらの方を振り返った。船が大きく揺れ、高木が「うわっとっと」と間抜けな声を上げた。
「榎本先生を、知っているのか……!?」
善吉の目の色が変わった。「榎本先生を知っているのか」はこちらの台詞だとさくらは思ったが、「はい」と頷いた。
「富士山丸で大坂から江戸へ引き上げる時に、お世話になりました」
「そうか。息災にしていたか」
「ええ。ただ、開陽丸を勝手に持っていかれたとお怒りではいましたが」
「はは、そうか。あの人らしい」
善吉が初めて笑顔を見せた。
「お前たち、もう黙らんかッ」
二人のやりとりをずっと見ていた高木が叫んだ。だが、船酔いしているのか顔色が悪く、もはや威勢はない。やがて、高木に怒られずとも呑気におしゃべりしている場合ではなくなった。風が強まり、船は今にも波に飲まれるのではないかと思うほど大きく揺れた。善吉の判断で、いったん近くに停泊してやり過ごそうということになった。幸い、岸に向かって追い風が吹いている。
海岸線が近づいてきて、まもなく船は砂浜に乗り上げた。善吉と、
さくらは二人の手際のよさに舌を巻きつつ、完全にうずくまって苦しんでいる高木を見やった。
「高木様、牢の鍵を開けていただけませぬか。あそこに煙が見える。漁村か何かがあるようです。厠をお借りしたいのでね。ついでと言ってはなんですが、白湯でももらってきましょうか。ご気分がすぐれない様子なので」
「ざ、罪人にそのような情けをかけられる謂われはないわ! 小便ならここですればよかろう」
「殿方は海に向かってぴゅーっとできるかもしれませんがね、私の場合『ここでする』となると、この先ずーっと小便臭い船に乗る羽目になりますよ。ね、一旦鍵を開けてくださりませんか。それに、こう見えて私も女の端くれ。ここで漏らしたらせっかく横倉様が助けてくださったこの命、恥ずかしさのあまり捨ててしまうやもしれませぬ」
「……ちっ。一旦縄で手を繋ぐからな」
本来なら、何があってもさくらを牢の外に出さないというのが高木の使命であるはずだが、船酔いで判断力が鈍ったのか、たいそう面倒くさそうな顔をして懐から鍵を取り出した。ガチャガチャと音を立て、さくらを閉じ込めていた牢の南京錠が外れた。
厠が云々という話はもちろんハッタリだった。さくらは牢から出るなり高木に体当たりをすると、腰に下げられていた脇差を鞘ごと奪った。
「な、何をする!」
「申し訳ない。私には、やらねばならぬことがあるのです」
「おのれっ……!」
高木は応戦しようと太刀を抜いた。流人船の見張りといういわば捨て駒のような扱いを受けてはいたが、その構え、身のこなしから腕はそれなりに立つようだというのがわかった。船が止まり、酔いが少し冷めたのだろう。かくなる上はさくらを斬り捨てんと殺気を放っている。だが、遅かった。初動の早いさくらが有利なのは、火を見るよりも明らかだった。
高木が刀を振り上げた時、すでにさくらは脇差で太腿を突き刺していた。痛みに呻きつつも体勢を整えようとした高木だったが、次の瞬間どぶんと音をたてて海に落ちた。
「出して!」
さくらは叫び、船を繋いでいた縄を切った。善吉と弥平はわけが分からないといった顔で櫓を手にとり、再び船は海へと舳先を向けた。高木が波打ち際でもがきながら、砂浜に這い上がっていくのが見えた。
海岸線は遠くなっていく。さくらは、血まみれの脇差を再び構えた。どちらから斬ろうかとばかりに、鋭い目つきで善吉と弥平を交互に見やった。善吉は、嫌悪感をあらわにした。
「あんた、俺が助け舟出したのがわかんないのか」
そう、高木がよろめいて海に落ちたのは、怪我のせいではなかった。善吉が高木の脚を取ったからだった。おそらく、咄嗟にさくらを守ろうとしたのだろう。
「それをしまえよ。こっちは丸腰だ」
わかっている。さくらは今、恩人に刃を向けていることになる。だが所詮は今日知り合ったばかりの男たち。完全に信頼していいのかどうか、まだ決めつけるわけにはいかない。そうかと言って、疑いすぎて彼らを怒らせてしまえば味方になるものもならなくなるだろう。難しい見極めだった。
善吉は表情を変えぬまま、先ほどさくらが渡した折り鶴をひらひらと振った。
「『一緒に逃げませんか』書いたのはあんただろう」
「……信じて、よいのですか」
このように言われて首を横に振る者もいないだろうが、さくらは尋ねた。善吉は頷く代わりにこう答えた。
「少なくとも、俺は新政府ってのは大嫌いだ」
新政府軍に雇われたはずの善吉から飛び出した思わぬ発言に、さくらはようやく笑みを浮かべた。手近な手ぬぐいで脇差を拭き上げ、鞘に納めた。
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