兄との別れ③


 旧幕府軍は、退却を余儀なくされた。数では圧倒的に勝っているはずなのに、勝機が見えなかった。

 健康な者は怪我人を支え、歩けぬ者は大八車に乗せられ、大坂へ撤退するため船着き場を目指した。

 一番隊のうち無傷または軽傷の隊士数人が、さくらと共に殿をつとめた。別動隊の二・四・五番隊の安否が気になるが、今はともかくこれ以上の犠牲者を出さぬよう、目に見える範囲の隊士で協力して退却するしかない。

 船着き場までは普通に歩けば小半時(約三十分)で着くような距離だが、敵の目をかいくぐりながらとなると茂みの中や裏道を通らなければならない。時間がかかりそうだ。さくら達は無心で進んだ。

「ハア、ハア……遠いな」

 息が苦しい。頭がぼーっとして、ふらふらする。歩くので精一杯だ。疲労が、どっと押し寄せてきていた。


 まだ、背後からは大砲の音がする。火薬のにおい、煙のにおいが鼻をつく。屍が無残に打ち捨てられている。これが、戦場なのだと。死と隣り合わせなのだと。源三郎は、仕方なく死んでしまったのだと。さくらは自分に言い聞かせた。

 ふと前方に目をやると、大きな風呂敷を背負った小柄な男と、歩調を合わせるように共に歩く男がいた。敵兵ではなさそうだったので小走りで追いついてみると、それは泰助と山崎であった。 

 泰助が背負っているのは、源三郎の首である。


 怪我人が多く死んだ者まで運ぶ余裕はなかったが、せめて首だけでも、と源三郎は連れ帰ることになっていた。その役目を自ら買って出たのが、泰助だった。

「叔父上の首は、俺……私が、必ずお守りします」

 出発前、泰助は毅然としてさくら達に宣言していた。ただ、涙を必死にこらえているような顔でもあった。

  

 さくら達の姿を見た泰助と山崎は、驚いたように目を見開いた。

「他のみんなは。先に出発したはずだろう。どうしてまだこんなところにいるのだ」

「島崎先生、申し訳ありません……」

 泰助は暗い顔をして俯いた。聞けば、首を背負った泰助は思っていたよりも体力の消耗が激しくどんどん隊列から遅れてしまったのだという。他の隊士らを先に行かせ、山崎が付き添ってなんとか進んでいたが、限界を迎えているようだった。

 山崎は泰助と目線を合わせるために膝をつき、諭すように言った。

「なあ、井上。もう諦めるんや。どこに敵が潜んどるかわからへん。いざという時、その状態で戦えるんか? このまま隊列から離れてったら、余計に不利になる。井上先生だって、そないなことは望んでへんやろ」

「ですが……」

「あ、諦めろって、そのあたりに捨て置けというのか?」

 さくらが割って入った。山崎の言うことには一理ある。むしろ、状況を考えればそうするのが至極当然である。

 だが、頭ではわかっていても、気持ちのうえでは納得できなかった。こんなところで、本当に源三郎と別れなければいけないなんて。

 代わりにさくらが背負っていくと言いたいところだったが、そこまで体力に余裕がないのは自分が一番よくわかっていた。男だったら、屈強な男だったら、源三郎を連れて帰ることができたのだろうか。そう考えると、こんなにも今、自分が男であればと思うと悔しくてならなかった。

 山崎は、さくらの気持ちを見透かしたように、溜息まじりに顔を上げた。

「島崎先生、これは泰助が身体強健な大人の男でも同じことや。私らは今、戦場いくさばを敗走しとるんやで。無事逃げおおせるにはちょっとでも身軽な方がええ。それに、万が一、井上先生を盗られたらどないするんですか。局長の首とまではいかなくてもにっくき新選組の隊長の首や。どないな扱いを受けるか、わかったもんやあらへん」

 さくらは、何も言えなかった。だが、それを同意と受け取ったのか、山崎は話を進めた。

「あそこに寺がある。敵に持ち去られないよう、目立たないところに埋めるで」

 泰助は、涙目で頷いた。ほな、行こか、と山崎が立ち上がった瞬間だった。パァン! と乾いた音がした。  

「伏せろ!」

 さくらが咄嗟に声をかけ、皆その場にしゃがみ込んだ。銃声は一発。音がした方を見やったが、撃った人間を突き止めることはできなかった。

「山崎先生!?」

 泰助の声に振り返ると、山崎が肩を押さえてうずくまっていた。その手は、血で染まっている。

「山崎! 大丈夫か!?」

「あほですか、大声出したら目立ってまう。大丈夫や。弾は貫通してへんみたいやから、大出血いうことにはならんと思います。私は新選組の医者ですよ。これしきの傷……」

 だが、山崎の顔色は悪くなるばかりだった。とにかく、一刻も早く山崎を連れて手当ができる場所へ避難しなければ。源三郎の首のことは、やはり山崎の言う通り、ここで置いていくしかないだろう。断腸の思いだったが、さくらは意を決した。泰助と、一緒に来ていた一番隊の面々に指示をだした。

「泰助。寺まで急ぐぞ。お前たちは、山崎を連れて先に逃げろ。とにかく、舟で大坂まで行ければ松本先生もいるはずだ。頼んだぞ」

 承知、と答え一同は別れた。さくらと泰助は、足早に寺へ向かった。


 寺の境内は、先ほどまでの激戦地とうって変わって、閑散としていた。住職など、関係者がいるのかも判然としなかったが、人に見られれば面倒なことには違いない。二人は、手近な灯篭の下に穴を掘って、源三郎の首を埋めた。合掌し、さくらは源三郎に謝罪した。

「源兄ぃ、こんなところに置いていってごめん。私か泰助が、いつか必ず迎えに来るから」

 泰助に向き直り、その目をじっと見た。涙をこらえているのが、一目でわかった。

「島崎先生。私が、いつか絶対に叔父上を連れて帰ります」

 さくらは大きく頷いた。

「行こう」

 名残惜しいが、ぐずぐずしてもいられない。さくらと泰助は寺を出て歩き始めた。一度だけ振り返ると、声が聞こえた気がした。

 さくら――。

「またね、源兄ぃ」

 小さくつぶやき、さくらは歩を速めた。

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