兄との別れ➀
「旧幕府軍」「新政府軍」という呼び名が、主に薩長の間で使われるようになった。
大政奉還で政権を返上し、その機能を失った幕府。王政復古の大号令を発令し、新政府樹立を宣言した薩長勢力。そんな意味が込められている。
俯瞰した歴史の中で言えばここが時代の変わり目であった。だが、新時代の幕開けは、穏便ではなかった。旧幕府軍は、もちろん新政府など認めるわけにはいかないし、対する新政府軍は、早く幕府の残像を消してしまいたい。
両者にらみ合いの末、旧幕府軍が仕掛けた。「討薩の表」を発令し、武力でもって薩摩藩を討伐することを決定したのだ。旧幕府側は、軍備を整え進軍を開始した。いつ実戦に突入してもおかしくない状況だ。慶応四(一八六八)年、正月のことである。
「武器の準備は済んでいるか。防具もきちんと身に着けろ。各隊長は、一旦軍議を開く故集まるように」
歳三がてきぱきと指示を飛ばしている。新選組が駐屯している伏見奉行所は、異様な緊張感に包まれていた。
この頃、新選組は総員約九十人。随分と減ってしまった。今まで通りの小隊制は維持していたものの、八番まであった編成は六番までに縮小している。伏見に移動する際のどさくさに紛れて脱走する者も多かったが、もはや内輪の問題にかまけている場合ではなく、追いかけて切腹をさせることはできなかった。旧幕府軍の一部隊として、足並みを揃えて動かなければならない。
「一番隊は、この街道の北側で迎え撃てるように陣を張れ。間に合わせで構わない、土塁を作っておけ。同じく二番隊、反対側を頼む」
地図を指し示しながら、歳三が采配していく。さくらが、続いて新八が、「承知」と返事をした。軍議が終わろうかという頃、周辺の情報収集を行っていた隊士が駆け込んできた。
「土方副長! たった今、会津藩の斥候の方より知らせがありました。鳥羽街道の方で両軍発砲し、撃ち合いになっているとのことです!」
「とうとう、やりやがったか。表に全員を集めろ! 新選組も、出陣する!」
「はいっ!」
隊士が部屋を出ていくと、歳三はニヤリと笑みを浮かべ、さくら達を見回した。
「聞いての通りだ。新選組の武勇伝を、近藤さんに聞かせてやろうぜ」
おうっ! と、全員が声を上げた。士気は上々。幕臣として、立派に戦ってみせると、各々が自らを奮い立たせた。
「サク」
皆がバタバタと準備をしている中、歳三がさくらにだけ聞こえるような小さな声で呼んだ。何かとさくらが振り返ると、一言だけ言った。
「死ぬなよ」
さくらは笑みを浮かべた。
「ああ。勇と総司が、待っているしな」
「……まあ、そうだな」
奉行所の門前に、新選組総員が集まった。歳三が正面に立ち、檄を飛ばす。
「各隊長の指示に従い、持ち場につけ! 今回は、幕軍の一員として、必ずや戦果を挙げねばならない! 皆心して――」
ドンッ! という音に、歳三の声はかき消された。全員音のした方を見やると、遠くに煙が見えた。
もう、一刻の猶予もない。敵は、すぐそこまで来ている。
慶応四年一月三日。戦の火蓋が、切られた。
さくら達は奉行所を飛び出し、割り当てられた場所へ向かった。砲声がとても近くに聞こえる。新選組は各隊に分かれたが、互いに様子が見えるよう近くに陣取っている。さくらは、五番隊を率いる左之助と目配せした。物陰に身を潜めつつ、徐々に敵側に近づいていく。日が沈んできた。月明かりは弱く、本格的に暗くなれば動きづらくなる。一時休戦、夜明けに仕切り直しかと思ったが、そう簡単な話ではなさそうだ。激しい銃声は、止みそうもない。
さくらにとって、これだけの規模の戦いは初めてだった。寒さのせいか、はたまた武者震いか。さくらは右手を左手で押さえつけた。
新政府軍の連中は、西洋人のような袴を穿いて、先のとがった奇妙な被り物をしている。おかげで敵味方を間違える心配はないが、さくらはどうにも面白くなかった。
――なんだ、あの奇怪な姿は。あれがやつらの言う「新時代」の装束だというのか。
何が新時代だ。何が新政府だ。この国は、ずっとずっと徳川様が守り、発展してきたのだ。あんな連中に、いいようにされてたまるか。
さくらは、刀を握る手に力を込めた。
「一番隊、私に続け!」
隊士たちを鼓舞し、さくらは進む。一人、二人。かわす、斬る、かわす、斬る。手を斬れば武器をとり落とす。脚を斬れば動きが鈍る。とにかく、一人でも多くの敵兵を戦闘不能にしなければ。さくら達は、無心で戦った。
夜が更けた。どのくらい時が経ったかはわからないが、敵も味方も疲れの色が浮かんできていた。肩で息をしながら、さくらは一番隊の面々を見回した。
「皆、無事か!」
「問題ありません。それぞれ多少のかすり傷はあるようですが」
さくらの問いに答えたのは、
「承知した。まだ動けそうであれば、もう少し西側に……」
さくらの声は、ドカンッという激しい砲撃音にかき消された。今までよりも格段に大きな音。近くに大砲が着弾したのだろう。ではどこが、というのはすぐにわかった。火の手が上がり、もうもうと煙が立ち上っていたのは、つい先ほどまで新選組が屯所としていた伏見奉行所だった。
「新選組、退却!」
歳三の声が響いた。程なくして、旧幕府軍は淀城下まで退却せよとの指示が来た。それに従い、新選組総員は着の身着のまま、伏見の地をあとにした。
さくらは一番隊の面々を労いつつ、隊列の先頭を歩いた。ひとたび戦場を離れると、疲れがどっと押し寄せるのがわかる。だが、疲れている場合ではない。決着はついていないのだから、旧幕府軍が勝利を収めるその日まで、戦わなければならないのだ。しかし――
――幕府軍は、数では圧倒的に勝っている。大砲だって、銃だってある。負けるはずがない。それなのに、この胸騒ぎはなんなんだ。
さくらの中に芽生えた「嫌な予感」が余計に体力を奪っているような気がした。これが士気が下がるということか。
「私たちは、勝つのだ。もう、あとには退けぬのだから」
誰にも聞こえない小さな声で、独り言ちた。
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