近江屋③
伊東はもともと新選組の参謀職として隊の中枢を担っていたが、この年の春に亡き孝明天皇の陵墓を警護する「御陵衛士」として、十数人の新選組隊士を引き連れ分派していた。御陵衛士は「新選組としての肩書きを捨てることで倒幕派からの情報を引き出しやすくするための組織」というのが当初の大義名分だった。事実、最初のうちは新選組にも種々情報がもたらされていたのだが最近はそれが滞っている。
伊東は何かを企んでいるのではないか。そんな疑念が新選組として持ち上がった中で、ある目撃情報が入ってきた。伊東と、その部下である
少しでも何か手掛かりをと、一番隊は六番隊――さくらと同じく長年調役として活躍した
つまり、さくらが半日の間ずっと窓から見ていたのは、見知った顔が往来を闊歩するかどうかということであった。
泰助と市村が握り飯を携えさくらの部屋に戻ってきた。さくらは窓から視線を外さずに受け取ると、ひと口頬張った。その時、外を歩く男たちに目が留まった。気のせいではない。ものものしい殺気を帯びている。
「あの男たち、なんだかにおうな」
「におうとか、そんなのわかるんですか」
市村が目を丸くした。反して、泰助は「当たり前じゃないですか」と胸を張った。
「島崎先生の侍の勘、調役の勘ってやつですよ」
「なんだその言い方。生意気な」
市村にしてみれば、年下の泰助が幹部に対して身内面をするのが面白くないようだ。さくらは窓から目を離さず、二人をたしなめた。
「おちびさんたち、喧嘩するなよ。山崎に知らせてきてくれ。私はあの男たちを
「承知……」
さくらは旅籠を出て男たちの行方を追った。目的地が判然としなかったが、やがて彼らは醤油商「近江屋」の前で立ち止まった。
――醤油屋? 何の用が……
物陰に身を潜め、様子を伺った。男たちも、周囲を気にしているようだった。月の明るい夜ではあるが、顔はよく見えない。
程なくして、市村たちに連れられ山崎がやってきた。さくらがここまでの経緯を説明すると、山崎は驚いたような顔をした。
「近江屋か……。実は、伊東さんと藤堂さんが昼間、近江屋に出入りしとったみたいなんです」
「なんだって」
近江屋に何があるというのか。ここは応援を呼んだ方がいいかもしれない。さくらは市村たちに、周囲に潜んでいる一番隊、六番隊の隊士を集めるよう指示した。
だが、隊士が集まる前に近江屋から激しい物音が聞こえてきた。人の叫び声も聞こえる。
「なんだ!? 何が起こっている……!?」
すぐにでも中に入って状況を確かめたかったが、近江屋に入っていった男たちは四人。これから助太刀が増える可能性もある。さくらと山崎の二人だけで入っていくのは、少々危険だ。
しばらくすると、物音が止んだ。そのまま様子を見ていると、四人の男たちが慌ただしく出てきた。
「今なら、何があったのか見に行ってもええかもしれません」
山崎の言葉に頷き、さくらは共に近江屋に突入した。
一階には、ここの下人と思しき男の遺体が無残に転がっていた。
「あいつら、何をしたんだ……!」
さくらと山崎は、二階に上がった。恐らく下人を斬った時の血が刀から垂れたのだろう、階段にはポツポツと血痕が続いていた。
二階の部屋で見たものは、男が二人、斬られて倒れている現場だった。片方はまだ息があるようで、時折呻き声が聞こえる。さくらは、絶命していると思しき男に、見覚えがあった。
「これは……坂本龍馬!?」
「ほんまですか。せやけどあかん、手遅れや。生け捕りにできたらよかったんやけど……。島崎先生、ここにいたら私らが下手人扱いされてまいます。ずらからんと」
「それもそうだな。行こう」
さくらと山崎はそそくさとその場を離れた。こうなったからには、先ほどの四人の男が誰なのかを調べねばならない。
しかし結果から言えば、下手人の正体は終ぞわからなかった。
坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺犯は誰なのか。この問いは、百年以上経っても「歴史上の謎」として人々の好奇心を掻き立てている。
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