近江屋②


 京市中のとある旅籠。二階の窓から、往来を眺めている侍がいた。藍色の小袖、濃いねずみ色の袴には目立った皺や汚れもなく、素朴でありながら上等な着物であるとわかる。とはいえ、別段位の高い侍というわけではない。ただ女を買うような趣味もなく、他に給金を使う宛てがないというだけだ。

 黒々とした総髪は、月代を剃るのをやめてから半年かけてようやく結えるようになってきたものである。最近では、町ですれ違いざまに怪訝な目で見られることが増えてきた。総髪になると、気づきやすいのだろう。普通の侍ではないという違和感に。

 侍はただぼんやりしているわけではなかった。職務の一環で、この旅籠の付近を監視している。ゆえに日が暮れてもずっと、窓の外を見ていた。五つ(夜八時頃)を告げる鐘が鳴った頃、襖が開く音がして、二人の少年が入ってきた。

「姉先生、お腹すきませんか。握り飯でよければ宿の者に頼みますが」

「任せる。それと、泰助たいすけ。姉先生と呼ぶのはやめろと言っただろう」

「あはは、すみません、島崎朔太郎しまざきさくたろう先生」

「下の名はいらぬ。からかっているのか」

 苛立ちの浮かぶ声色にも、泰助と呼ばれた少年は動じなかった。

「だって、なんだか面白くて。俺からしてみれば、天然理心流てんねんりしんりゅう試衛館しえいかんの姉先生ですから」

「え、ちょっと待ってください。姉先生って……? 島崎先生、あの話、本当だったんですか?」

 泰助の隣でやり取りを聞いていた市村鉄之助いちむらてつのすけが驚きまじりに尋ねた。市村は二ヶ月程前に新選組に入隊したばかりだ。隊内でまことしやかに語られる「あの話」を疑うのも無理はない。

「なんだ、信じていなかったのか。まあ、ある意味ありがたいがな。私は江戸にいた頃、近藤さくらという名だった。れっきとした女だ。近藤局長は私の義弟にあたる」

 さくらはニッと笑みを浮かべてみせた。市村は言葉を失った様子で、さくらと泰助を交互に見た。

  

 さくらが女であると新選組内外におおやけになったのは、約半年前。幕臣に取り立てられてからである。それまでは女であることがなるべく知れぬように、だが時には女であることを逆手にとり、新選組の諸士調役兼監察方として長らく諜報活動を担ってきた。他の新選組隊士と同様、正式に幕臣の末端に名を連ねているのも、そうした諸々の功績が認められたが故だ。内心面白く思わない者もいるだろうが、幼い頃から試衛館のひとり娘として仕込まれたさくらの腕前は並の男たちを凌駕するものであり、近藤勇の義姉という肩書も相まって、逆らえる者は少ない。女隊士・さくらの存在はもはや当然のものとして皆に認められていた。

 近ごろは調役としての隊務をこなしつつ、一番隊の隊長代理も請け負っている。これまでずっと、弟分の沖田総司おきたそうじが務めていた役目だ。総司は労咳に侵されながらもなんとか隊務を続けていたが、この秋にはとうとう床を離れられなくなるまでに病状が悪化していたのだ。

 二足の草鞋を履く忙しさにやや辟易としていたさくらにとって、泰助や市村といった幼い隊士の相手をするのは、何か拍子抜けするような、肩の力が抜けるような作用があった。さくらはやれやれと息をついた。

「泰助。とにかく、屯所では呼び方に気を付けるように」

「はあい」

 泰助はさくらの兄貴分・井上源三郎いのうえげんざぶろうの甥だった。さくらの中ではほんの幼な子という認識だったから、先の隊士募集で源三郎と共に上洛してきたのには驚いたものである。とは言え、元服もしていないような泰助を即戦力とするわけにはいかず、見習い隊士として雑用に従事させていた。

 今日、さくらは見張りの拠点として陣取っていたこの旅籠から動けなかったので、泰助と市村にもろもろの使いを頼んでいた。

 今追っているのは、かつて新選組の仲間だった伊東甲子太郎いとうかしたろう率いる御陵衛士の動向である。彼らは近ごろ、きな臭い動きをしている。

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