浅葱色の桜 ―流転、最果テ上ル
初音
近江屋➀
ぐつぐつと煮える音。鼻腔をくすぐるだしの香り。やはり、鍋はこれに限る。今日のような底冷えのする夜は特に、だ。早く食べたいのはやまやまだが、まだ
「龍馬、風邪引いとるんじゃき、酒はほどほどにせんと」
「わかっとらんのう、慎太郎は。こうして体を温めるのが、風邪にはええがじゃき」
「で、どうするき。陸援隊の方はいつでも動けゆう。討幕のお達しが出れば、すぐにでも」
「じゃから、武力は最後の手段じゃ。せっかく大政奉還で幕府の力を削いだんじゃき。ここで武力に物言わせち、意味がなかろう」
しかしのう、と中岡は顔をしかめた。
「確かに大政奉還は成ったけんど今目に見えて何かが変わりゆうこともなか。このままじゃあ、見た目はともかく中身は幕府と変わらんき」
「なあに、今度は王政復古の算段がつけば、徳川は名実ともにいち大名になりゆう」
「そがいに悠長なことを言うておって大丈夫かのう」
「急がば回れ、言うろう」
おっ、と坂本は鍋の中に視線を戻した。軍鶏の色が変わり、食べごろになったことを示していた。
「ほれ、食うがじゃ」
坂本は軍鶏を取り分けたが、中岡は固く口を結んでいる。気にせず、自身は軍鶏を口に運んだ。肉汁とだしが絡み合い、絶妙な味が広がった。
中岡は小さく溜息をつくと、「それにしても」と話題を変えた。
「やっぱり、ここは危ないんじゃあないがか。ほら、昼間来とった
「それはなかろう。あん男は、新選組が嫌あになって別れたいう専らの話じゃ。それに、儂の話に共感しとったがぜ。そがいに悪う男には見えんかったぜよ」
「百歩譲ってそうだとしてもじゃ。新選組だけやない。見廻組やらなんやらも、嗅ぎ回っとるんと違うか」
「まあまあ。このあたりは長州藩邸も近いし人通りも多い。木を隠すなら森の中ってことじゃき。それにこの近江屋は、旅籠の類じゃのうて醤油屋じゃ。まさか醤油屋におるとは思わんじゃろう」
坂本はニッと笑って見せた。それから思い出したように「そうじゃ」と続けた。
「新選組といえば。知っとるか? 何ヶ月か前に幕臣に取り立てられたいう中に、
「女子……? そがな馬鹿な。どうせ眉唾もんじゃろう」
「まあ、そう言うもんが大半じゃけんど、もし本当だったら用心せんといかん」
坂本自身、噂程度に耳にした与太話であることはわかっていたが、どうも本当のことのような気がしてならなかった。新選組に、女子の密偵がいるというのは以前から風聞があって、坂本自身、おそらくそうではないかと思われる女子に会ったことがある。残念ながら一度きりの邂逅だったため、確かめる術はない。
「ほんまにおるんなら、儂はむしろ会ってみたいのう」
楽しそうに言う坂本に、中岡は顔をしかめた。そして、ようやく軍鶏鍋に手をつけようとしたその時だった。
階下から、大きな物音がした。それから少し間を置き、どたどたと慌ただしく階段を上がってくる音。複数人だ。
「龍馬!」
中岡が脇差を抜いた。坂本も頷き、倣った。自分の勘が、足音を「怪しいもの」と認識していた。
程なくして、襖が開いた。相手は四人。屈強な男たち。手に手に抜き身を構え、殺気を放っている。四人のうち一人の着物には、返り血らしきものがついていた。階下での物音は、誰かが斬られた音に違いない。
「覚悟!」
先頭に立っていた男が、刀を振り回した。坂本はそれを鍔元で受け止めると、立ち上がって押し返そうとした。視界の端では、同じく中岡が刺客に相対するのが見えた。
「慎太郎! 死んだらいかんぜよ!」
「当たり前じゃあ!」
互いに声はかけつつも、視線は敵から離さない。
以前も似たようなことがあった、と坂本は思い出していた。ここと同じような狭い屋内で、突然大勢の刺客に囲まれた。あの時はピストルで虚をつくことができたが、今回は手元になく、同じ策は使えない。刀一本で、乗り切るしかない。
酒を飲まなければよかった。風邪とあいまって、足元が覚束ない。坂本は尻餅をついてしまい、防戦一方となった。刺客もそんな隙を見逃さない。素早く坂本の脇差を払うと、額に一刀浴びせた。
ぐおっ、と呻き声をあげ、坂本は仰向けに倒れた。中岡もどこかを斬られたようで、どさりと畳に倒れ込んだのがわかった。
「よし、退け!」
刺客のうちの一人が声をかけると、四人の男たちは足早に立ち去っていった。
「なあ慎太郎、わしゃあ、死ぬんか……」
ぽつりとつぶやいた坂本の声に、中岡が「死ぬな、龍馬……」と蚊の鳴くような声で答えた。
遠のいていく意識の中、坂本は話し声を聞いた。
「これは……坂本龍馬!?」
「ほんまですか。せやけどあかん、手遅れや。生け捕りにできたらよかったんやけど……。島崎先生、ここにいたら私らが下手人扱いされてまいます。ずらからんと」
「それもそうだな。行こう」
会話をしていた二人のうち、「島崎」と呼ばれた人物の声は、男の声だとは到底思えなかった。
「ほーら慎太郎、やっぱりおったき」
呟くように口にし、坂本はこと切れた。
慶応三(一八六七)年 十一月十五日のことだった。
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