第5話


 その手紙の最後に、ピリオドを打つかのような黒いインクの点が染みていて、私はそれを封筒に仕舞い込むと、すぐに部屋から飛び出しました。


「おばさま!」


 屋敷全体に響き渡るような呼び掛けに、婆やはすぐに私のところへやってきてくれました。


「はい、お嬢様、やはりお手紙になにか?」

「いえ、違うの、この消印は、東京のどこなの」


 老婆は封筒に目を凝らし、胸元にかかった眼鏡で、再度消印を改めました。


「四谷とありますから、ずいぶん真ん中の方ですね」

「電車で行ける?」

「行けます。しかしお行きになってどうなさるのです。おひとりで?」

「どうもいたしません、もはやどうにもなりませんもの。でも行かねばなりませんの。おばさま!」

「お嬢様がそこまで仰るのなら止めは致しません。数時間もあれば付きますでしょう。いくらかお金を持って行ってください」


 東京なんかだだっ広い。四谷なんてどこか分からない。あの人が本当にそこに住んでいるかもしらなち。こんな告白の文書、本当に住んでいるところから出すとも限らないもの。でも、手がかりがそれしかないなら行かねばなりません。


 私は久しく乗る電車の座席で、うずくまっておりました。ただ自分のスカートの裾から出る白い膝を、なにを恥知らずに洒落て出てきたのだろうと呪うだけでした。列車は幾度も停車しました。私の逸る気持ちを押さえ付けるかのように。そしてでもまた、大きな汽笛を鳴らして発車して、私の心を奮いたてました。


 入り組んだ架線に驚きながら、私は四谷に降り立ちました。駅前はなんとも言えぬ人混みで、しかし賑やかさはありませんでした。人は黙々と歩いております。私は、その駅前の大きな木の下に立って、それで肺いっぱい息を吸い込みました。そして叫ぶ。彼女の名を。


「私はここよ! ――!」


 なりふり構わず我武者羅に、声を上げました。道行く人の好奇の視線も私には関係ない。私には見えない、みんな燃やしてしまったら同じだもの。


「私はここよ!」


 それ以外に叫ぶ言葉はない。そればかりを張り上げていました。段々人まで集まってくる始末でした。私は怖くなって目を瞑って、それでもなお呼び続ける。


 ああ、全て燃やしていなくなってしまうなんて。でも記憶だけは消せないのよ。あれは私のせいですと言われて、はいそうですかご苦労さまでしたと私が貴女を忘れ去ると思っておいでなのですか。


 絆は、音符のように一つ抜ければ見違えたものになってしまうのよ。許して欲しい。父も母もひどいし、貴女も同じだと叫んだ私のことを。ではわたくしたち三人で心中致しますから、と言うかのように家に火を付けて、それで万事解決したと思わないで欲しい。無くなったのは、父の不貞と母の暴力だけはないのよ。貴女の愛も失ったのよ。貴女がいれば、父が帰ってこず、母がそれで私に平手を食らわせるくらいなんだっていうのでしょう。


「私はここよ!」


 雨が降り始めると、薄ら笑いの野次馬も立ち消え、夕陽も厚い雲に覆いかぶさり、世界は暗い白銀に染まりました。


「私はここ、助けてよ」


 ばたばたと私の髪を無遠慮に濡らしていく雨粒。心の火をかき消すかのように降り注ぐ。私の喉はもう音を発することのできないほど傷付いていました。


 そして結局、座り込み、雨に降られ続けました。そのまま一夜を明かして、喉から声は出るかとまた「私はここ」と言おうとしても、もはや掠れ声しか出ませんでした。


 駅に入り直して、四谷から去ることにしました。汽車がやってきて、私は窓際の席にびしょ濡れたまま落ち着き、きっとあとで車掌に怒られるんだわと思いながら、雨上がりつつある空の黄金の光芒を眺めていました。そして、列車が発車して、しばらくそのまま外を見ているうちに、遠くに大火が見えました。そこから上がる黒煙が、空の白い雲を突き刺そうと登っていって、私はそれをじっと見るために窓に張り付いて、呼吸が苦しくなるのを必死で抑えました。


「貴女は、そこなの」




 帰った次の日、新聞を見てみれば、先日の大火は単なる火事で、事件性もなければ人の関わりもなく、また迅速な対処と避難で死者もなかったそうです。あれは私とも、あの人とも関係ない炎でした。


 そして、きっとこの先、蝋燭に灯る火を見るだけで、私は――提灯を見るだけで、焚き木を見るだけで、あの人を、あるいは、ただ風に揺られるカーテンを見るだけで、列車に乗るだけで、頬に平手をもらうだけで、思い出すのだと、そう思うと胸の底から寒くなって、ぱきぱきと指先から凍っていく気になりました。切なくて切なくてたまらなかった。小さなことで貴女を思い出さなければならない私に植え付けられた広大な呪い。もう二度とバッハは弾けまい。もう二度ともう二度と、なにもできまい。すべての行動に誰かが植え付けられているのだもの。この花は私の棺でいつか一緒に燃やされるまで、咲き誇り続けるのでしょう。そして願わくば、貴女にも私が咲き続けていたなら。

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秘密に花園に 小佐内 美星 @AyaneLDK

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