第4話
『お嬢様、私は、貴女にとってなにがいちばん良いのかを考えるうちに、きっと必要以上の哀しみと、切なさを与えてしまったのでしょう。ご主人が他所で逢い引きをしているのは、もはや当人も隠すつもりがない様子でしたから、私も、そしてお嬢様も当然知ることとなりましたね。しかしもっとも打ちひしがれたのは他でもない奥様でございます。奥様のそれは、直視もできないような無惨な形で現れてしまいました。気付くのが遅れましたが、奥様がお酒に逃げるようになってから、お嬢様は幾ばくか数えられぬほど、身体に痛みを与えられましたね。ご家庭はすでに崩壊しておりました。それは世間体の意味でも、私が付けていた帳簿で見る限りでも、そうです。すでに、すべてが傾いておりました。そして、私が守るべきは、お嬢様に他ならないと思っておりました。
まずは、ご主人が、他所に行くのを止めなければなりません。そこで利用させて頂いたのが、お嬢様の物である私自身です。私は、ご主人に抱かれることを選びました。若い身体はあの方を喜ばせるのに問題ございませんでした。そして、精神さえ塞ぎ込んでしまえば、痛みも、苦しみも、あるいは快楽も、もはや感じ取らなくて済むようになります。
ですが、それは当然に状況を悪化させましたね。私はなんら光悦を抱いていないのに、わざと物静かな屋敷に響かせるように嬌声を響かせました。それは奥様のお心を、ひどく傷付けたことでしょう。それで、貴女様への暴力が酷くなる一方だということも、自明で、自覚しておりました。ただ、これは必要なことだったのです。そんなことがあれば、奥様は、なにをするか、分かったものでは、ありません。
静かな屋敷には、貴女を叩く音も響いておりました。ご主人にはきっと、奥様や貴女様がどうなろうと、きっと興味がなかったのかもしれません。私は貴女もそうだったように、眠れぬ夜を過ごしました。
そして、屋敷に火が付けられました。混乱はありましたが、巡査や刑事さんの言うには、奥様における動機も、状況証拠も十分なものでしたし、おそらく犯行に及んだと判じて違いないだろうとのことで、私もそう証言しました。結果として家は焼け落ち、奥様もご主人も亡くなることとなりました。
お嬢様、お嬢様。この手紙は、読んだら焼いてください。屋敷に火を付けたのは、他でもない私です。
私がご主人に身体を貢ぎましたのは、この刑事さえ納得しうるような状況を作る、ただそれだけのためです。貴女のような美しく可憐で綺麗な、いつまでも咲き誇る椿のような方を、このような泥の沼地に植えたままには、してはおけませんでした。私は貴女さまが小さい時から、貴女を愛していたのです。私がついぞ得られなかった幸福というものを手に取っている貴女を見て、私はそれで自分まで幸せになったような気になっていられたのです。
有難くございました。こんな私を遊び相手にしてくださって。美しいバッハの音色を聴かせてくださって。芸術や音楽は私にはなにも分かりませんが、それでも貴女が弾くならすべて綺麗で価値のあるものでした。ときおり即興で彩られるお嬢様の曲が好きでした。もう一度弾いてくださいというと、もう覚えていないわと言う、その刹那に存在し、もはや誰にも知られない曲が、私と貴女の中にのみあることが、なにより光悦だったのです。
お嬢様、私を恨んでくだすって構いません。貴女の両親を焼いたのですから。
どんな苦しみだったでしょう。でも火を付けるとき、私の頭の中に流れていたのは鬼気迫るのに優雅なバッハのプレリュード、二番の音色でした。火の振動は、楽譜の音符の踊るのに似ておりました。貴女さまの指先に似ておりました。あのとき、とても幸せでした。
もし、引き取り先の家で、また貴女が不憫な目に合うことがあれば、また屋敷を燃やしてください。すべて私が解決致します。一度罪を犯したのだから、もう何度犯したって同じことだと、思いませんか』
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