第3話


 あの人は、なぜ、あんなこと。なぜ、なぜ。いつものようにピアノを弾いて、横で帳簿を見澄ましている彼女に聞くに聞けず、なぜ、なぜと考え続けました。


 でもなにも分かりません。父が貴女を愛したのかしら。それとも貴女から愛したのかしら。身体を重ねる幾つもの夜は、どういう愛で存在しているの。貴女が父に乗るうちに、私は母に乗られているのよ。そして貴女が悦ぶ間に、私は痛みに耐えている。お父様が帰らないことは無くなったけれど、でももっと酷いことになった。


 私が落としたピアノのハンマーが、内側でことんと音を立てると、下女はふと顔を上げて、私の瞳を見つめてきました。そっと口が開かれる。


「お嬢様、奥様のご様子はいかがですか」


 なにを、無邪気に聞いているのでしょう。私はずっと信じてきたこの女の人が不意に怖くなりました。


「さあね」

「お変わりありませんか」


 誤魔化してやって、見逃してやって、それなのになお無遠慮に聞いてくるのに腹が立って、私は思わず拳を鍵盤の白黒に叩き付けました。そしてなんの音楽にも使われないような聞き難い音が弦を叩いて空気を揺らすのです。


「お変わりありませんかですって!」


 私はほとんど叫ぶみたいだった。


「散々よ! 貴女のせいで散々! お酒も薬ももう尽きたのに一日中家をうろちょろして、空き巣みたいに家探ししてるわ。それで夜に、私のところにやってきて……それで……」


 下女は泣き始めた私を不意に強い力で抱き寄せ、頭を撫で付けました。私がとても厭になって、その身体を突き飛ばすと、下女は床に手を付き、座る私を見上げていました。


「お父様と奥様は、お嬢様にとって、どう見えていますか」

「どうもこうもないわ、あんな人たち」

「わたくしめは、どう見えていますか」

「貴女も一緒よ!」


 力ずくでピアノの蓋を閉めて、私は走ってその場を立ち去りました。




 その夜は不思議と、いえ、思い返したら不思議なだけで、実はなんでもない夜だったのかもしれません。特別なことが起こったから奇異に思えただけで、なんら平常だったのかもしれません。とかく、その夜は私ひとりで寝具に仰向けに横たわっていました。そしていつお母様がやってきて、上に股がってもいいように、その姿勢でじっとしていました。私もまた頭がおかしかったのでしょう。けれど、母はついぞやってきませんでした。鐘を打つ音。そう、時計が深夜3時の鐘を打つ音が始まって、三度響いたかと思うと、全く別の、夜の静寂をつんざく鐘の音が、頭痛のように響き渡り、屋敷全体を揺らしました。時計の音ではない、と気付いて、寝具から飛び上がり、窓の外を見上げると、音はそこから上がっていました。電灯掲げる数名の男たちが、必死にこちらを呼びかけて、そして鼻を掠める砂利っぽいにおいが、屋敷になにが起きたのかを知らせていた。


 部屋の扉が空いたかと思うと、飛び込んできたのは下女でした。


「お嬢様、屋敷に火が」

「火事! どこから、どうして?」


 慌てふためきなにか掴もうとする私の腕を捉えて、下女はただ蝋燭のみを瞳に走らせて、ゆらゆらと反射させて、でもいつよりも毅然と私を見つめました。


「いまはとにかく、安全な外へ。まだ火の手の回らぬ通路がございます。厠の廊下を突っ切って、西の階段を下ってください。そして裏口に回るんです」

「貴女は、」

「ご主人さまと奥様の安全を確認してまいります」 


 そう言って下女は私を引っ張るようにして部屋から出したあと、奥様とお父様の部屋の方角へ走っていきました。私は呆然とする間に火花の散る音を聞いて我に帰り、慌てて彼女の言うように、西側の階段を下りて裏口の鍵を内側から外して出ました。そこにはまだ本当に火の手は回っていませんでした。


 表に回ると業火が、星影すら覆い尽くして舞っていた。慌てて走ってきた学舎の先生が私を見つけて、泣きながら頭を撫でてくれる。そのまま燃える二階を見続けたけれど、でも消防隊が来るのは遅れ、その間村民たちが水桶をたらい回しにしても、消火はやがて追い付かず、家はたった数時間で瓦礫の山と化しました。




 『被疑者死亡につき不起訴』


 私が数日後、地域新聞の一面で見たのはその文言でした。


 死人は罪に問えぬのだとその時初めて知りました。屋敷に火を放ったのは、精神錯乱を起こした母親だった。焼け跡にはまるで証拠のようなものは残っていませんでしたが、しかし近日の父の外泊や下女との性交が暴かれ、夫人の嫉妬による犯行は明らかと判ぜられたようでした。私の聴取はろくに行われませんでした。それほど明らかだったのでしょう。


 母も死に、父も死に、下女は街にいられないと荷物をまとめて出てゆき、一人で叔母のところに拾われた私は、また同じようなピアノを買ってもらって、毎日それを弾く日々でした。


 冬を越えた、夏も忍んだ、春はピアノの季節、秋は火の粉が怖い。拾われるところがあったのは幸福なのでしょう。幸い、そこでも、私は娘として扱われて、大変裕福に過ごさせて頂きました。


「お嬢様」


 部屋の扉を叩く音が聞こえると、屋敷の老婆が呼び掛けてきました。迎え入れようと扉を開くと、彼女は手に持っていた封筒を私に手渡しました。


「お手紙にございます。宛先はお嬢様に。しかし東京の消印で、差出人の名がありません。もしやと思い手探りをしましたが、危険なものは入っていないように思われます。どうぞお読みください。なにか不当な内容であればすぐお申し付けを」


 どうもありがとう、と私が言うと、老婆は一礼して去っていきました。差出人不明の封筒。危険なものは入ってないという。こういう裕福な家には、たまに刃の入った脅迫まがいの手紙が届くのです。しかしそうではなさそう。


 それに、私に宛てて。東京に友達などおりませんから、なぜだか興奮してすぐにレターナイフで封を切って、そこから便箋を取り出しました。「お嬢様」という精緻な文字が目に入った途端、私は目眩のようにあの火事の夜に引き戻されたような感覚で、その文面に目を凝らしました。

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