第2話

 夕方、その日は指が疲れなかったので、ピアノを弾き続けていました。メイドが買い出しに出たと思ったら、不意にお母様が食卓から起き上がってきて、亡霊のようにふらふらと揺れながら、ピアノの前に座る私のところへ寄ってきました。お母様はベッドに倒れ込むみたいにして、私のことを痛いほど強く抱き締めてきました。


「なにか弾いてくれる?」


 お母様はこの数ヶ月で、何年も老けたように見えました。白髪も混じって、お化粧もしていない肌がしみでくすんで見える。お可哀想に、助けてあげられたら、どんなによいかしら。


「そんなに抱き締められていたら、腕が動きませんわ」


 私が冗談がましく言ってあげると、お母様は聞いた途端かっと目を開いて、私の髪を引っ張って、椅子から引きずり下ろしました。そして小さな声で叫ぶのです。


「どうせ邪魔ものよ、どうせ、私なんか邪魔ものなんだわ。貴女も言うのね、私の子なのに、私を邪険にして消そうとするのね。死んだら、死んだらいいと思っているんでしょう」


 そのときのお母様の瞳といったら、何色とも形容しがたい色に染っていました。怒りと悲しみが同時に混ざって、気味悪く光っていたのです。




 その夜は、結局、お父様は帰ってきました。無意味に無邪気ではありましたけど、私はこれで万事良くなるかのような、そんな幻妄で嬉しくなりました。部屋を繕っていなかったお母様は慌てて笑顔で応対しますけれど、お父様は部屋の惨状を見て、太い眉を寄せて、やがて重い空気を引き摺るようにして、部屋に篭ってしまいます。

 その部屋の扉の前で立ち尽くす母の姿の痛々しいと言ったら、まるでいまだじゅくじゅくした赤い傷の上を、なめくじが這い回るようなものでした。


 真夜中はいつでも、美しいものと恐ろしいものが混在して、そして、気味の悪いほど静かなものです。けれども、そんな夜に、不意にお父様の部屋の方から、女の人の苦しい声が、漏れ聞こえました。


 私はなにごとかと思って、もしかするとお父様とお母様が久しく仲良くしているか、あるいは酷い喧嘩でもなさっているんじゃないかしらと思って、廊下に面する扉に耳を傾け、じっと聞いていました。


 しかし、その声は、私のよく知る。


 女の人のものでした。でも、けれど、その声の主はよく分かるのに、そこから漏れ聞こえる音にならない声は、私の知りうるものとおよそ違うものでした。そして理由も分からなくて、およそ現実的な実感も湧き起こらず、急に周りにあるものが大きく、そして自分が蚊のように小さく小さくなったような感覚に襲われて、へたりと座り込んで、その夜はついに寝付かれませんでした。




 不和とした夜は輪廻のようにやってくる。それが連日続くと、母はその声が聞こえ始める度に、私の部屋に来るようになりました。そして、私の上に股がって、寝そべる私の頬を、何度も、何度も、手のひらで打ち付けるのです。


 ぱしんと叩き付けられる。時計の音が響く暗闇の寝室で。皮膚に与えられる鋭い痛みは、心をそのまま攻撃しているような、張り詰めたものでした。若枝が自重に耐えられず、折れてしまうような淋しい音が、私の身体を走っていく。――ああ、バッハになりたい。音楽家だったら、きっとこんな心憂い夜も美しい旋律にするのだわ。母の泣き零れる顔を見ながら、私は酷い無力感に苛まれて、そのあとはただただ恐ろしいだけでした。


 ねじ巻きを、どんなふうに下手に回せば、こんなような壊れた家庭が起こるというのだろう。物事は万事よかったはずなのに。いつから、なにから。それとも最初から。歯車は錆びて回らなくなっていたのでしょうか。罪を見つけていこうとすれば、どこからでも醜い黒い百合が咲く。

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