見ずに晒して

硝水

第1話

「あちゃー」

 玄関に倒れ込んだ女はピクリともしない。意識があったなら、三和土にぶつけたスネの痛みに呻き悶えているはずだ。そして生きていたなら、青痣のせいで明日はスカートが履けないと嘆いていたに違いない。さっきまで首筋からどくどく滲みだしていたいた血も、居間のほうまで差し掛かったところで止まっている。三和土の段からはまだぽたぽたと雫が滴っていた。傷んだ茶髪にじっとりと重くしみ込んだ血液が、なんとも形容しがたい気味悪さを演出している。うつ伏せのために死顔はどんなものかわからず、このあっけない最後に何を思っていたのかも窺い知れない。傍らには赤く濡れた包丁が無造作に転がっていて、無機質な蛍光灯の光を映していた。

「殺すつもりはなかったんだけど」

 言い訳めいたひとりごとを、なんとなくぽそりとつぶやく。強いて言えば私の不注意で死んでしまった彼女に向けて。ドアさえ開けてくれなかったらブルだったのに。女の足がストッパーの役割を果たしたせいで今は見えないが、内開きの玄関扉にはカッターの刃がいくつか刺さっていた。横から見ても綺麗に正円を描いているそれは、しかし中心をぽっかり空けたままだ。まっすぐ投げることにはだいぶ慣れてきていたから山なりに放る練習をしていたのだ。手元に替え刃がなくなったから包丁を投げたのだけど、それが最悪のタイミングで帰宅した女の首を掻き切った。長く存在しているとこんなこともあるのだなと妙に感慨深くなってしまう。

「もう来たか」

 廊下にはみ出した女の足を不審に思ったのか、部屋を覗き込む生え際の後退した小男。すぐに女の出血量が尋常でないことを察したようで踵を返す。人を殺したのは初めてだが、病院沙汰には何度かしたことがある。この狭い島で、ひとつしかない診療所から、ひとりしかいない医者がここにやってくるまでの時間はおおよそ見当がついていた。指折り数えながら待つ。

「九分、ジャスト」

 丸眼鏡をかけた初老の男が乾きかけでべたつく血液を踏みしめながら部屋に入り込み、傷口を避けながら女の首筋に手を添える。期待と諦めがないまぜになったように顔を歪める小男の方を振り向いて、小さく首を振った。それからふたりで遺体に手を合わせる。警察を呼ぶとかなんとか、そんなことを話しているようだった。本島からの定期連絡船がちょうど明日来る、まあ警察も大してあてにはならんが死体くらいは処理してくれるだろう。読めたのはここまでで、部屋を出て行ったふたりを追う術を私は持ち合わせていなかった。

 死体とともに夜を明かし、翌朝。現場保存のため女の足が引っ掛かったまま開け放してあるドアから覗く空はどんよりと曇っていて、今にも降り出しそうだった。こんな天気で船は出るのだろうか、と要らぬ心配をしてしまう。別に警察が来なくたって困るのは私じゃない。梅雨時のカビや腐臭に苦しむのは隣の住人や大家だ。昨夜のうちにめぼしいものがないか部屋を漁ってみたが、ほとんどが衣料品や化粧品で暇をつぶせそうな本一冊なかった。つまらんやつだ。この女は今どき珍しい携帯電話を持っていたみたいだが、持ち主が死んでしまえば解約されるだろう。ガラクタになるとわかっているものを後生大事に隠しておく趣味はない。

「お」

 そうこうしているうちに警察が来たようだ。制服の体をなしていないまでに着崩された制服のふたり組。降ってはいないが蒸して暑いらしく、半袖のシャツを肩までまくり上げて、ボタンは三つほど開けている。日よけになるからか制帽はきちんとかぶっていて、時折そのつばが顔を覆う。最初のひと言ふた言はまったく読めなかった。口は大きく開くから大声なのだろうが、いかんせん早口で読みづらい。梅雨時の殺人ほど面倒なものはない、すぐに腐るし聞き込みが億劫だ。なんとか読めたのはこの辺りで、私だって殺したくて殺したわけじゃない、と抗議の意味を込めて手近にあったティッシュボックスを投げた。黒髪が気づいて片手で受け止め、部屋の中に投げ返す。また何事か話しているようだ。こういう映画なかったっけ、見えない相手とキャッチボールで会話するやつ。あー、あれだ、スイートなんとか。結局その相手ってのが空き家に住み着いた家出少年でしたーってオチだったよな。それそれ。指差しあいながらはははと笑っている。どうやら私のことを物陰に隠れた家出少年か何かだと思っているらしい。

「知らねえなー、その映画」

 ふたり組とはだいぶ世代が隔たっているから仕方ないのもあるが、なにより死んでからテレビの類を楽しむ難易度が上がった。現実にいる人間なら回り込んで唇を読めるが、映像だとそれができない。後姿から発される台詞もナレーションもすべて空白としか認識できない。音が聞こえないとはかくも不便だったのかと思う。おまけに今手に入るテレビなんて六十年前の性能の足元にも及ばない。

「だいぶ画素減ってるもんな、今の」

 映画の話はひと段落ついたのか、ふたり組は死体を検分し始めた。とはいえしゃがみこんで適当に眺めているだけだ。定期連絡船は週に一度だけ本土とこの島を往復する。彼らが一週間もここに留まるつもりには見えないので、夕方の復路で帰るつもりだろう。この分じゃ迷宮入りだろうな。そもそも犯人は生きていないのだから逮捕しようがないのだが。ふたり組はまた雑談を始めたが、読むのにも疲れたので寝転がる。たったこれだけの動作にもはじめは苦労したものだ。自分の座標を把握して移動したい地点への数式を組む。通常幽霊にとって現世の物体など、見えてはいてもないのと同じだ。三六〇度無限に広がっていく何もない空間に自分を留めおく。考えただけで途方もない。意識せずとも自在に浮けるようになったのは案外最近なのだ。努力は裏切らない。

「筋肉も裏切らなかったもんな」

 自分のまわりにまだ肉がついていたころを思い出して、その延長でそれが焦げる感触も思い出してしまう。ない肺に形だけ息を吸い込んで、盛大に吐き出すポーズをとる。嫌なことを思い出した。無性に八つ当たりしたくなって、まだ話し込んでいる茶髪のほうの制帽を飛ばす。それに気づいた黒髪が茶髪の肩を叩いた。黒髪の帽子も飛ばす。帽子を追い、連れだって部屋を出ていく。あとには、物言わぬ死体だけが残される。

「あんたは未練なんてなくて、よかったな」

 返事の代わりに一匹の蝿が忙しなく飛び回る。次に住人が入るのは一体いつだろうと、乾ききってひび割れた血溜りを眺めながら思った。


×××


 あまりにも暇だった。住人を殺してしまってから三ヵ月あまり。たまに大家の小男が掃除をしに来るくらいで、それ以外は無だ。何もない。電気も水道もガスも止められている。眠って思考を放棄してみたり髪の本数を数えたりしていたが、それも一週間で飽きた。生前からの記憶を順番に整理もしてみたが時間が進むにつれて胸糞悪くなってきてやめた。ここのところは溜った埃でお世辞にもうまいとは言えない絵を描いて退屈を紛らしていたが、大家が掃除に来たあとは本当にすることがない。掃除中の彼の独り言によれば、今どき事故物件なんて借り手がつかないそうだ。私の生前はむしろそういうところに住みたがる輩なんてのが一定数いたものだが。空き部屋状態が続けばもちろん大家も困るだろうが私も困る。

「死体が怖くないのに、幽霊が怖いとは。世紀末だな」

 もういっそ祓われてもいいからこのどうしようもない徒然から解放されたい。正直に言うと縛られるような未練も何なのかわからないのだ。この部屋からは出ることができない上に、視覚以外、現世とのつながりを失った。空気を通した音も聞こえなければ匂いもしないし、座標を操作して動かすことはできても物に触れている感覚はない。おまけに移動の意思があるものは動かせず、生物を操ったり転移させたりということはできない。

 現世と霊界は重なって存在している。普通であれば相互不干渉なふたつの世界の両方に何かしらリンクを持った存在、それが私のような未練持ちの幽霊、そしていわゆる見える人間だ。見える人間については正直よくわかっていないが、おそらく死に近い出来事を経験したせいで霊界とのリンクを持った、といったところだろう。そしてリンクにも段階がある。何事もなく成仏するだけの幽霊なら現世とのつながりは一切なく、未練の大きさによって現世とリンクする感覚が多くなるのだ。つまり私は現世に対する視覚と、現世の物体を移動させるという半端なリンクに見合うだけの半端な未練を抱えているということ。というのは死んでから立てた仮説で確証はない。何しろ私はこの部屋に縛られているのであって、他の幽霊と接する機会がなかった。なんとも無味乾燥な毎日だ。人を脅かして楽しみたくなる幽霊の気持ちがよくわかる。もっとも、見える人間しか、気づいてもくれないが。

「と、ぐちぐち言っていたのが昨日である」

 ついさっきこの部屋に住人が入って来た。長い黒髪の女だ。後ろは腰ほどまであるし、前髪も顎まである。左眼はほとんど隠れていた。いっそ青いくらい白い肌、関節部分に盛大にシワの寄ったスーツ。体脂肪率をはかってやりたくなるくらい曲線の多い肢体。総合評価、そこそこ美人と言ったところか。柔らかな頬の線は仏頂面には似合わないが、笑えばなかなか美人くらいには昇格する気がする。そしてそいつは部屋に入って最初に私のほうを見て、すぐに目を逸らした。それから段ボール箱を三つ運び込んで、どこかへ出かけて行った。

「絶対に見えてた」

 部屋に入って真っ先に、何もない天井を見る奴なんかいない。見えたうえで、無視した。あまつさえろくに荷解きもしないまま出ていった。放置された段ボール箱を蹴飛ばす。いやに軽く滑っていき、別の箱にぶつかって止まる。

「漁るぞボケ」

 返事をするはずの女は外出中なので勝手に漁ることにした。べべべっとガムテープをはがし、丸めて放る。ひと箱め、着替え。まだ袋に入ったままのワイシャツが数枚と、適当にたたまれて見事にシワの入ったパンツスーツが一組。それから地味な下着何セットかと、オレンジ色のツナギが二着。妙にサイズの大きいそれを広げながら、思わずうへえと声が漏れる。

「悪趣味だな……囚人服かよ」

 自分の着ている灰色の囚人服と見比べながら、まあ焦げたり穴開いたりしていないだけマシかな、と思う。それに異国情緒あふれてていいじゃないか、と結論を出してたたみもせずに放り投げた。ふた箱めは、小さめの片手鍋と箸数膳、キッチンタイマー、いやに男らしい湯飲み。底には緩衝材代わりにか、ぺたんこになった座布団が無理矢理詰めてあった。食器類を収めた箱らしいが、皿も茶碗もない。何を食べる気なんだ。片手鍋ひとつじゃろくに料理できそうもないし。

「そういう私もまともに料理してこなかったけど」

 監獄勤めは全寮制で、そこでは三食囚人と同じものが食べられるという素晴らしいオプションがついていた。ストイック極まりない食事と、職務という名の適度な運動、規則的な勤務体制のおかげでいやでも健康的な体を手にできる。出世すると嗜好品をたしなみ放題のパーティ、『お食事会』なるものに呼んでいただけるそうだが、あいにく私は死ぬまでヒラ看守どまりだった。

「もう、六十年も食べてないのか」

 疲労は感じるが、空腹感はない。なくてよかった。あったところで食べられないのなら苦しいだけ。片手鍋を乱雑に箱に戻して、三箱めに手をかける。ホテルのアメニティみたいにちゃちなブラシと、クリーニング屋でもらえるようなハンガーが数本、洗濯ネット数枚とその中にざらざらと洗濯バサミ、使い古された化粧品が数点。そして底のほうに数冊、文庫本が並べられていた。『キリギリス追放』、『ペパーミントペッパー』、『皿割れる誘拐犯』、『ソフトクリームは一度だけ』。わけのわからないタイトルばかりだが、作者はどれも同じだ。ファンなのかもしれない。貴重な暇つぶし道具なので丁寧に戻しておく。冷蔵庫、洗濯機、ガスコンロは備え付けだからこれだけの荷物に、消耗品はスーパーで買えば確かに生きるのには事欠かない。それにしても引っ越しにこの荷物の量というのは、いくらなんでも少ない気がする。よほど自分に興味がないか、そもそも長期間滞在する気はないのか。後者だとしたら、せめて私が四冊とも読み終わるまではいて欲しい。

「お?」

 カップ麺が転がってきて、私の足をすり抜けていった。放ったままのツナギに乗り上げて止まった円柱と逆方向に首を回す。

「あんたさ」

 女の声が聞こえる。この部屋には私以外に声をかけるような対象はいないし、第一、私に、女の声が、聞こえている。彼女は長い黒髪を貞子のようにすだれにしながら般若の形相でこちらを睨んでいる。隠れていない右側の、わずかな光に青く浮き上がる白眼と暗く沈む黒目の対比が絶妙にホラーだ。だらりと垂らした両腕の先の、重そうなビニール袋からは洗剤やお茶、そして大量のカップ麺が顔を出していた。

「やっぱり見えてんじゃん。なんで最初無視したんだよ」

「幽霊なら何してもいいと思ってるわけ。いい度胸じゃない」

 垂れていた前髪を乱暴にかきあげる。左眼が見えた。光の加減か、微妙に右眼より茶色がかっている。右の前髪を耳にかけたら手を離して、また隠れてしまった。暑くないのかその髪型。

「幽霊嫌いなの」

「大嫌いよ」

 私の声も向こうに届いているようで、会話が成立していることに少なからず感動を覚えた。彼女は見える人間で、おそらく視覚、聴覚のリンクを持っているのだろう。私にも彼女の声が聞こえることを鑑みると、一定範囲内あるいは相互認識下においてはお互いのリンクが共有されるのかもしれない。

 彼女はスーパー袋を足で壁際に寄せながら私が散らかした部屋を眺める。拳を握ったのはまあ、そういうことだろう。ご機嫌取りも兼ねて精一杯の笑顔を貼りつけつつ、半分本音を言ってみた。

「私はお前と話せて若干嬉しい」

「若干て何」

「いやお前が邪険にするから」

「嫌なら出て行って。今日から私はここに住まなきゃいけないの」

「出て行けるなら出て行ってるわ。残念ながら地縛霊なんだよ。だから私と仲良くなる努力をした方が建設的だと思うぜ」

「あっそう。じゃそこのツナギ取ってくれる」

「ほらよ」

 襟の部分を引き寄せて放る。片足を掴んで受け取ったせいで上半身が空しく床を滑っていった。

「幽霊のくせに素直ね。気持ち悪い」

「取ってやったのに酷い言い草だな」

 糸のように細められた瞼からのぞく黒目はいやに大きく、流し目も似合うなということでなかなか美人に昇格した。態度はどうにかしてほしい。

「使えるものは使うまで。でも馴れ合うとかは別」

 手繰り寄せたツナギをそばに置いてスーツを脱ぎ始める。見られるの気にしないんだ、と思いつつ別に目を背けてやる義理もないので見続ける。何がとは言わないが段ボール箱の中身と同じくシンプルイズベストといったチョイスだ。ジャケットとパンツをそれぞれハンガーに吊るし、ツナギに足を通す。脱いだワイシャツを丸めながら袖も通した。長すぎる裾と袖をそれぞれ二回ずつまくって、あわせのジッパーを上げていく。途中でやめる。

「下着見えてるけど」

「閉まらないの見てわからない?」

「サイズ合ってないんじゃん」

「私の身長で女物だと丈が足りないの。仕方なく着てる男物だと胸囲が足りないの」

 わざとらしく胸の下で腕を組む。たゆんという効果音が幻聴できるくらいには効果があった。いや女に向かってそういうことしてもしょうがないだろ。

「巨乳も大変ですねえ」

 私だって見た目的には小さくないが、まあ、ほぼ胸筋である。と、彼女がこちらに手を伸ばしてくる。咄嗟に避ける。

「ナニ触ろうとしてんだよ。そもそも触れねえだろ」

「じゃあ避けなくていいでしょ」

「そういう問題じゃないだろうが」

「あんただって私の着替え見てたじゃない」

「見られたくなかったならそう言え」

「仕返しの口実になるから黙ってただけ」

「性格悪っ」

「あんたの口ほどじゃないわ」

 お前の口も充分悪いんだが。同性に嫌われるタイプだと思うけど、外では猫でもかぶっていたのだろうか。容易には想像がつかない。それにしても、完全に自己紹介の機会を逃している。お互いに名前も知らないで罵声交換会絶賛開催中というのもどうなんだ。

「笹垣」

 もともと細い目がさらに細められる。上下の睫毛がほとんど交差しているせいで眼球が影になって、正直に言うと怖い。そして呪詛でも飛び出してきそうな口が開かれる。

「は? ごぼう?」

 それは小学校の家庭科の授業で散々言われた。

「違う。あんたじゃなくて笹垣だから、私」

「長いからあんたって呼ぶわ」

 垂れてきた後髪を払って、思い出したようにポケットを漁る。尻ポケットから目当てのものを見つけた様で、一瞬口元が緩んだ。結構美人にランクアップ。

「一文字しか変わらねえだろ」

「ささ、って続くと発音しにくいでしょ。嫌なら下の名前教えたら」

 ポケットから取り出したヘアゴムをくわえながら器用に喋る。ヘアゴムをぴこぴこさせながら手櫛で適当に髪をまとめてくくる。まわりを一周飛んだら両手でシッシと追い払われた。うなじが綺麗だった。普通に美人だ。

「忘れた」

 職場では苗字呼びだったし、妹にはお姉ちゃんと呼ばれていたし。名前を呼ばれるような場面がないままかなりの時間を過ごした。

「……ウマとシカならどっちがいい?」

「なんだその悪意ある二択」

「じゃあガキ」

「私のが年上だっつーの」

 彼女は見たところせいぜい三十代後半だろう。私は二十七で死んで、そのあと六十年くらいここにいる。この半世紀余りで新しく増えたものはほとんどない。減っていくばかりだった。哀愁に沈んでいると彼女が虫けらでも見るかのような目で見てくる。

「もう自分で考えるか素直にあんたでいいでしょ」

「素直だと気持ち悪がるくせに」

「それもそうね」

 結び目が気になるのかまとめた髪をいじりながら、半ば上の空といった風に答える。どういう返答をしたところで何かとケチをつけますと宣言されたようなものじゃないか。真面目に考えていたら日が暮れると思った。

「まぁ当分はあんたでいいわ。お前はなんて―の」

「うわ気持ち悪い。個人情報保護の観点からも非常によろしくないわ」

 虫けらから生ゴミくらいまでレベルを下げられた気がする。負けじとこちらもなかなか美人まで下げてやることにした。

「保護もクソもねえわ。桂だろ」

「なんで知ってるのよ」

「鍋の柄にでかでかと書いてあった」

「荷物を勝手に漁って得た不当な情報よね」

「訴えでもする気か? 幽霊を?」

「まさか。祓ってもらうだけ」

 臨兵闘者皆陣列在前、と唱えつつ妙に滑らかな動作で九字を切る。いやお前が祓うんじゃないのかよ。何ともない体を見回しながら肩をすくめる。

「それは願ったり叶ったりなんだけど」

「は?」

 刀印をこちらに向けながら怪訝そうに口元を歪める。じっと見ていると、皮膚に貼りついたほくろが一緒に動いて変な感じだ。

「正直未練もわからんし暇だったし。お前が死ぬ前に消滅しときたい」

 次いつ、見える人間がやってくるか知れないし。それに見えたからといって生きた人間には変わりないのだから、いずれ死ぬ。見えるというのはこちらに近いからで、それはつまり死に近いということだ。しばらく黙っていると彼女の私を見る目が道端に吐き捨てられたガムを見るくらいのものになった。

「こんな部屋が終の棲家になってたまるかって感じ」

 刀印を素早くサムズアップに変えて、次の瞬間にはダウンさせる。流れるようなその動きに、練習でもしたんじゃないかと疑う。こんなもの練習してどうする。

「いつまでいんの」

「きっかり一ヶ月。そういう契約」

「じゃあサクッと霊媒師でも何でも呼べよ」

「経費で落ちないから嫌。それにあんたの願いを叶えてやるつもりはないし」

「何お前、仕事で来てんの」

「何だっていいじゃない」

 カップ麺を投げつけられる。一応受け止めてツナギに乗り上げたものと並べて床に置いた。

「当たらねえし麺が砕けるだろ」

「私が食べるんだからどうでもいいでしょ」

「それもそうか。砕いとこ」

 カップに手をのばしたら落ち武者並みに虚ろな目で睨まれたのでそっと戻しておいた。普通の顔に戻った桂は私が床に戻したカップ麺をわざわざ取りに来て、ビニールをはぐ。段ボール箱から箸と鍋、タイマーと座布団を出す。座布団を敷いて、残りのものを両手に抱えて台所へ立つ。

「机は?」

「必要ない」

 しばらくして箸を重しに蓋を押さえたカップとタイマーを持って戻ってくる。私がぶちまけた荷物から距離を置いて座り込んだ。確かにカップ麺なら机は要らないかもしれない。しかし仕事で来てるんじゃないんだったか。そういえば筆記用具もろくに入ってなかったけれど、書類とか作らなくていいのだろうか。本土と通信できるような機器も見当たらなかったし。大家に言えば固定電話くらい貸してくれるだろうが。まあ何でもいいか。彼女の仕事がどんなものであれ、少なくとも霊媒師ではないようだから私には関係ない。タイマーが鳴ったらしい。上に置いていた箸を取り上げて蓋を開ける。もうもうと湯気が立ち昇った。彼女は蓋を完全に取り去る派のようで、用済みの蓋は適当に広げられたゴミ袋へ落っこちていく。再び箸をカップの上に鎮座させて座布団を抱える。

「食わねえの。伸びるぞ」

「猫舌なの」

 冷ますのならかきまぜた方がいいと思うんだけど。あぐらの上に抱えた座布団に顎をのせながら細々と伸びる湯気を見つめている。背中をぐっと丸めるその姿勢に何だか見覚えがあって、暇つぶしも兼ねつつ問いかける。

「桂ってさ、上に兄姉いる?」

「……なんでそんなこと訊くの」

「妹っぽいと思ったから」

 私の妹もよくそうしていた。彼女はふうんと鼻声を漏らしながらこちらをじろじろ見る。不服だが自分が姉っぽくないのは重々承知の上だ。両親も私も生来からガサツと評されるような人間で、逆に妹は私達を反面教師にしたのか人並みに女の子らしく育った。一方の私は職場が職場だったのもあり、ガサツさに磨きをかけて今に至る。見ていても得るものがないと諦めたのか、彼女は思い出したようにカップに箸を突っ込んでぐるぐるかきまぜた。勢いを増した湯気を遮るように再び箸を置く。

「兄が、いるけど。今どうしてるかは知らない」

「何だそれ。絶縁でもしたわけ?」

 何か言いかけて、思い直したように口を閉じる。箸を手に取って麺を一筋すくいあげた。背中が動くくらいに息を吸って、大げさに吐き出す。麺は風圧でぷらぷら揺れて、スープが数滴床に飛び散った。およそ上品とは言えないレベルの音を立てて麺をすする。噎せる。スーパー袋からペットボトルの水を渡してやったのに、受け取らずスープで流し込む。指の間から見えた文字はシーフードだった。スープが熱かったようで舌を出しながら数秒。器用にそのまま話し始める。

「別に、あんたに関係ない」

 不快そうに寄る眉根にまた何か、共通点を見いだしてしまう。

かつて私と妹は同じ顔で向き合って、同じように顔を顰めていた。いつもの喧嘩とは明らかに違った空気の中で、私が彼女に言い放ったのがこれだった。関係ない。もともと私達の間に走りはじめていたヒビを亀裂に成長させ、叩き折るのには充分すぎるくらいだった。妹は私を引き留めるのを諦め、私は妹の制止に最後まで耳を貸さなかった。今思い返せばそれが私の生死を分けたわけで、いうなれば私は、そこで、間違えたのかもしれない。

「関係ないから」

 同情も非難もしない。口を出さないで欲しい。ここで引き下がれば同じ轍を踏むだけ。

「関係ないから、話したっていいじゃん」

 彼女に対して意見する資格を私は持ち合わせていない。だからただ話を聞く。聞いたからといってどうなるわけでもない。でもそれは、聞かなくたって同じだ。

「私は少なくとも一方的に桂と仲良くなりたいと思ってるからさ」

 湯気の途絶えた容器を握りしめて、長い前髪の隙間からわずかに瞳がのぞく。どこか遠くを見ているような、茶の左眼。すぐに顔を背けられたせいで見えなくなってしまう。

「はは、なにそれ、気持ち悪い」

「お褒めに預かりコーエーです」

 呆れたように笑いながら箸を運ぶ。持ち上げる途中で麺が切れた。

「……フブキのせいで麺が伸びた」

 唐突に思える単語に目が点になったような気さえする。まだ吹雪くような季節じゃないが。そもそもこの島に雪は降らない。

「何の話だよ」

 それぐらい察しろ、と顔に書いてあった。わかりやすいんだかわかりにくいんだかわからない。説明プリーズ、と両手を出したら箸で刺された。通り抜けるだけだけれど。聞こえるように舌打ちされる。それから呻りながら空中に箸を回して私の眉間を射抜く位置で止めた。察しの悪いあんたのために特別に教えてあげるわ、と上から前置きしてひと呼吸おく。

「あんたのあだ名」

 自信ありげに言いつつそのまま腕を伸ばしてきたのでさすがに避ける。刺さらないし痛みもないが目のそばは怖い。幽霊だから何してもいいと思ってるのは桂の方じゃないのか。

「フブキ?」

 限界まで首をかしげる。笹垣と何の関連があるのかさっぱりだ。まだゴボウとかの方が理解できる。彼女は期待を裏切られたのか盛大に溜息を吐いた。悪かったなどこまでも浅識で。

「嫌ならあんたって呼ぶわ」

 だからといって解説してくれるわけではないらしい。意地悪だ。

「嫌じゃねーけど。フツーの名前でびっくりした」

「今からウマに変えてもいいけど」

 シカよりはウマの方が好きらしい。私はシカの方が好きだ。どうでもいいが。

「めんどくせーなお前」

 彼女はすっかり冷えているだろうシーフード麺をすすりながら、これまた器用に舌を出して見せた。

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