大熊の場合

 許せなかった。薫の家に一人でエナに忘れ物を取りに行かせた自分が。

エナが薫に襲われたのは自分のせいだと思ってもいい。男の家に自分の妻を一人にして行かせるなど、あってはならなかった。

エナは妊娠している。どんな危険からも守らなければならない。それをできなかった自分が憎い。

その怒りはエナが子どもを生んだ後も残っていた。あの時ああしていればのもしもは尽きることはない。

だが同時に優越も襲ってくる。襲われても薫を拒んで帰ってきたエナ。彼女は自分のものだ。誰にも渡さないし、これからもずっと愛し続ける。

エナは灰色の人生に咲いた一輪の花だった。モノクロの世界でただ一つ色づく存在。彼女こそが自分の運命だと確信した。そして彼女もまた自分を受け入れてくれた。

だからこそ邪魔者はいささか鬱陶しかった。

エナの両親も邪魔だった。結婚を意固地になって反対する。彼女は親の所有物ではないのに。だから彼女を妊娠させ、授かり婚として認めさせた。

仕事も安定し、貯金もできるようになった。全てを手に入れる準備はできた。あとは努力を惜しまず、彼女と苦労を一緒に乗り越える。そして人生の最期に彼女の笑顔を脳に焼き付けて眠る。人生設計としてはこんなものだろうと思っている。

大熊は人生プランのファイルを保存し、印刷した。そこにペンで修正を書き加えていく。だんだん煮詰まってくる。目指すべき方向が定まってくる。

子どもはとてもかわいい。そしてその子どもを生んだエナもかけがえのない愛しい存在。彼らを守るために何をすべきか、よく考えなくてはならない。まずは安定した収入、健康、コミュニケーション。仕事と生活の両立。やるべきことはたくさんあるが、暇な時間もつくること。そして再スタートして息切れを起こさず走り続ける。一見忙しい人生に見えるが、これが自分の望んだプランだった。二人を幸せにするために、自分が犠牲にならないために。

薫とは連絡を絶っていたが、ある日彼が新聞に載った。受賞インタビューでこんなことを言っていた。

「かつて大切な人を失くしました。それは仕方のないことだったのかもしれませんが、それを経験として仕事に活かすことで今回の結果に繋がりました」

 クソ食らえ。寝取ろうとしたくせに。

 インタビューによると薫は今も独り身らしい。全てを手に入れた自分とは雲泥の差だ。

 その新聞をキャンプ用の薪の中に入れて、封印した。来年家族でキャンプに行く予定にしている。その時に燃やすつもりだ。

「ねー! ちょっと来て!」

 エナが呼んでいる。

「どうしたの」

「喋ったの」

 子どもが笑顔で喃語を喋っている。

「パパって言ったよ」

 エナは嬉しそうにカメラを向けて録画している。子どもの最初の言葉がパパなのは、至福である。今夜はボジョレーヌーヴォーを開けると決めた。

 子どもを抱き上げて、パソコンの前に連れていく。キーボードの電源をオフにして、子どもの手をホームポジションに置いた。

「ここに親指を置いてね。ここに人差し指」

 子どもは嫌がってぐちゃぐちゃにキーボードを押し、案外楽しかったのか遊び始めた。そこで子ども用に買った、タイプライター型のキーボードを与えると、喜んで遊び始めた。

 無作為に鳴らすカチャカチャとした音にはセンスがこもっているように感じる。もう両手が使えるようだった。これで近い将来ブラインドタッチができるようになるだろう。

 この子はあまり人と目を合わせない。笑うことも少ない。ただそれが問題なのかどうかは、まだ判断するには早すぎる。医者の言葉だった。もし何かあっても、育てることを放棄することは絶対にない。子どもが独立するまでは親の責任だ。だが、一番は妻である。自分のモノクロの世界に咲いた一輪の花。摘み取って飾るより、水を与えて一生見ている方が楽しい。できれば自分より先に死んでほしくないが、彼女と同じ墓に入るためには子どもに根回しもしておいて、一生一緒に眠りたい。その為に墓も買うし土地も買うし、子どもに管理費を残しておく。

 そんなことを考えていると、将来への不安など抱いているひまはないと思った。キャンプで子どもと魚を釣って、衣を剥ぎ、塩焼きにして家族で食べる。そんな未来もある。いつか思春期になった子どもに嫌がられても、叱るべき時は叱り、道を示す必要がある。その為には過去に囚われてはいけない。

 過去を見ても未来へは進めない。十年後、二十年後の未来は自分の手にかかっている。逆に家族を守れればなんでもいい。使えるものはなんでも使う。家族のためならなんでも手に入れる。

「お風呂湧いたよ」

 エナが呼んだ。今行く、と返事をして、子どもを抱き上げた。

 今日はシャンプーハットを始めて使う日だ。嫌がらずにつけてくれればと願いつつ、支度をする。

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エナ 噫 透涙 @eru_seika

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