エナの場合

 妊娠が発覚した。相手は紛れもなく、恋人である大熊礼人だ。彼女を押さえつけ、無理やりエナを犯す男。避妊はなし。いつ犯されるか分からないのでアフターピル、緊急避妊薬をイヤホンケースに入れて持ち歩いていた。しかしいつか定かではないが、飲み忘れたらしい。それとも効かなかったのか。生理が止まり、一週間。妊娠検査薬を使うと陽性だった。

 大熊は普段は紳士的な男だ。そのまま紳士と言っても過言ではない。しかしエナへの執着は相当なもので、他の男に笑顔を向けると犯される。まるで自分のものだと、印を押すかのように。

 エナはいつか大熊は変わってくれると思っていた。自分への執着はなくなり、適度な距離を持って、一緒にいてくれると思っていた。だが、それは叶わなかった。

 元々二人は結婚を視野に入れていたが、エナの親が反対した。別れろとは言わないが、結婚は断固拒否という感じだった。エナの親にとって、エナが結婚して幸せな人生を歩むことは到底拒否すべきものだった。望まぬ子として産んだエナに苦しめられてきたという、一種被害妄想のような思念があった。だから交際は続けていいが、結婚は許さない。エナは幸せになれない、なってはいけない。それが彼女を押しつぶし、大熊はより一層エナに執着するようになった。

 たった一人、エナを束縛しない者がいた。大学の同級生である杉田薫だった。彼は大熊の親友であり、エナの理解者でもあった。エナは彼を信頼し、尊敬していた。どこか人を拒絶する薫はエナにだけは心を許し、精一杯甘やかしてくれた。まるで、理想の父親のようだった。

 妊娠を大熊に告げると、とても喜んだ。すぐに産婦人科に行こう、と車を出した。診察の結果、まだ心拍を確認できる段階ではないが子どもは宿っているようだった。

 大熊は帰りの運転で言った。

「エナ、これで結婚できるね」

 大熊の狙いはそれだった。エナを妊娠させ、彼女の両親に結婚を認めてもらうことだった。大熊はただ彼女に執着していただけではなかった。計算を尽くして、エナに基礎体温を測らせ、排卵日前後は毎日抱く。そうして子どもを作り、授かり婚を虎視眈々と狙っていた。

 結果、両親は結婚を認めた。自分たちと同じ過ちを犯した娘を視界に入れたくない。縁を切るという大前提で結婚を許した。大熊の狙い通りだった。

 大熊は大学卒業後、エンジニアとして勤務した後フリーランスに転向した。収入も安定し貯金もある程度溜まったところで、子作りを開始した。エナよりも育児に詳しくなり、子どもを育てる気も十分にある。子作りに関してはエナに同意を求めなかった。同意されることより、反対を恐れた。

 エナはこっそりアフターピルを飲んでいた。正直、子どもを育てる自信がなかった。親に愛されなかった自分が、親として子どもを愛せると思わなかった。それでも妊娠したものは仕方がない。いざ、自分の体に命が宿ると愛おしく思えた。この子を殺すことはできないと思った。そして愛する大熊の子を産みたいと思った。

 実際に入籍した後は、大熊は大きく変わった。紳士的なところは相変わらず、そして妊娠したエナに輪をかけて優しくなった。エナに対する執着というのはほとんどなくなり、全て順調かと思えた。

 が、エナは大熊に、薫に結婚報告した後襲われたことを話してまた一変した。大熊は思い出した。エナは他の男を惹きつける力を持っている。いつ自分を捨てるか分からない。子どもを連れて出ていくかもしれない。そう考えて、エナに仕事をやめるように言った。稼ぎはあるから、専業主婦になるようにと。彼女は大熊と同じく在宅で仕事をすることを条件に、辞職を呑んだ。

 エナが妊娠してから、大熊は酒をやめ、夜の営みをすることはなくなった。

「妊娠中は頑張りすぎちゃだめだからね」

 エナがつわりで吐くたび、背中をさすり、食べられるものを探した。唯一食べられたのは、ファストフードのみだったので、毎日三食、買いに車を走らせた。

 エナは幸せだった。多少の執着心は受け入れるとして、夫の嫉妬心も自分で薄めなければならないと思った。

 籍を入れてから、妊娠して体調が悪いこともあり大熊には強く当たることもあったが、仲直りをした。臨月に入り、お腹が大きくなり、つわりもおさまった頃になると、一層子どもが愛おしく思えた。大熊はエナに無痛分娩を選ばせた。

「僕のために苦しむことはないよ。無痛分娩でも痛いものは痛いんだから」

 麻酔の分だけ金額が加算されていく仕組みと知り、分娩では麻酔を節約しようと思ったが実際はそれどころではなかった。

 入れられる限界まで麻酔を投入してもらい、子を産んだ。

 大熊はひどく喜んで、エナの頭を撫でくりまわし、子どもを家に連れて帰った後も積極的にミルクを作り抱いてあやした。

 出産後、母親には産後うつの可能性はあったが、大熊が世話をよくするのでまったく症状はなかった。

 エナの親は態度を一変させ、子どもが生まれた頃に連絡をしてきて、孫を可愛がった。そしてエナに今までの仕打ちを謝り、絶縁を解消した。それからはエナには優しくなった。

 全てが上手くいくようになったエナだが、薫のことはひっかかっていた。かつて一瞬愛した男。捨てた男を未だに覚えている。子どももいるし夫もいる。それでもなぜか忘れられなかった。連絡先は消したし、もう彼の家も売りに出され繋がるすべはない。

 あの時彼を選んでいたらどうだっただろうか。こんなもしもを考えても仕方のないことだと分かっている。それでも夜眠る前は彼のことを思い出すのだった。

 ある日、薫が新聞に載った。新しい発見をしたとかで表彰されたらしい。連絡先も載っていた。

 電話をかけてみた。すると彼が出た。

「もしもし、エナだけど」

「エナ? 何の用?」

「別に、なんでもない」

 エナは電話を切った。なんでもないのだ。ただ彼の声が聞きたかっただけ。それだけだった。

 泣き始めた我が子を抱いて、今日の夕食の献立を考え、夫に聞いてみた。

「今日の晩御飯は春巻きでいいかな」

「おいしそうだね。僕が作るから、ゆっくりしててね」

 手を止めた大熊は再びパソコンに向かってキーボードを打ち始めたが、エナの方に振り向いて驚いた。

「エナ、どうしたの」

「なんでもないよ」

 なんでもない。涙が流れるのはなんでもない。なんでもないからだ。薫、彼にとって、自分はもうなんでもないからだ。

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