エナ

噫 透涙

杉田薫の場合

杉田薫すぎたくゆるが彼女を美しいと思ったのはいつだっただろうか。

実際彼女が客観的に見て美しいかどうか、それは知らない。

だけども、薫は彼女を美しいと思った。

彼女に出会った時に、ひょっとして気付いていたかもしれない。これが始まりであると。それでも見ぬふりをしていた。親友の恋人に恋をするなど、言語道断であったから。あくまで親友の恋人、そして知人。それに留めておこうと思った時には、すでにおかしかった。留めておくという意識が生まれるのは、確かに彼女に何かを感じていたから。

だから見ぬふりをした。自分は誰にも恋をしないし、したこともない。一生それでいいのだと思って。

やがて、彼の想いは確信に変わることになるのだが。


彼らの出会いは大学一年生の初夏。みんなが半袖を着始めた時である。薫は夏でも基本的には半袖を着なかった。なぜなら夥しい数の傷跡が腕にあったからである。隠すというより、見せないことでのメリットを選んだ。この傷で落ちた面接は数知れず。春に仲良くしていた友達は、夏になると他人行儀になる。この傷はどうしても避けられない苦痛の果てにつけたものだが、それを他人に理解せよと言うのも傲慢である。それに、自らの経た苦痛を他人に推しはかられるのもいい気はしない。かくして、彼は一年中長袖を着ていた。簡単なこと、スーツを着ていれば怪しまれない。基本在宅勤務の彼も、家でスーツを着て仕事をすることは、むしろ効率化につながる。気分の問題、スーツを着れば自動的に仕事が捗るという、ただの心理的効果。

 大学卒業後はエンジニアになった。ある時、勤務中に大学時代の親友から連絡があり、会わないかという話になった。いつ仕事をしているのか、分からない奴。そいつも在宅勤務で、フリーランスをしているという。名前は大熊礼人。特にあだ名で呼んだりせず、薫は大熊と呼び捨てていた。

 大熊は大学卒業後、薫とは別の会社に就職し、若くして独立した。故かいつも自信があって、堂々としている。かと思えば物腰柔らかで同胞は多い。

 人と話をしても人間関係という渦の中に人を巻きこまない薫とは真逆の人物である。薫はおどおどしているわけでもなく、れっきとした普通の人間というふうだが、仕事の才が突き抜けていること以外はなんといって取り柄のない男だった。

 そんな彼と大熊が友達になり、親友と呼べるまでになったのは水森恵奈の存在が大きい。水森恵奈は大学の同輩で、明るく社交的な女性だった。薫と大熊は彼女を「エナ」と呼んでいた。文章で名前を書くときも、なぜか片仮名で「エナ」と書くことが多かった。それはただ単に漢字変換が面倒だったこともある。

 エナは大熊によるとかわいいのだという。それはそうだ、と薫は思った。大熊はエナと恋人関係にあるのだから、褒めるに決まっている。薫自身はエナのことをかわいいと言ったことはない。そういう一言でエナのことを括りたくなかったという思いがあった。思えばその頃から横恋慕は始まっていたのだろう。エナのどこが良いのか。そんなものは考えても仕方のないこと。人間は、良いところがあるから好きになるという単純な構造ではない。そして薫も、単純ではないため、エナに惹かれている理由は分からなかった。

 大熊は折り入って話したいことがあるのだと、薫に連絡したということで、二人は会うことになった。場所は薫の家。大熊も薫も騒がしい場所は好まないし、環境に煩わされることを嫌っていた。

 大熊はエナを連れてやってきた。

「久しぶり。元気にしてた?」

 大熊は薫に瓶ビールの入った紙袋を渡して靴を脱いだ。エナも隣でヒールを脱いでいる。

 リビングに案内し、麦茶をコップに注ぎ、テーブルに置いた薫は、そわそわしている二人に何か良くない悪寒を感じた。

 大熊は近況報告を始め、エナはにこにこ笑いながら相槌を打っていた。仕事が軌道に乗ってきたこと、そして大熊とエナは互いの両親に挨拶を済ませたということ。つまり、結婚すると報告しに来たのだ。そこで初めてエナが口を開いた。

「くゆ君は最近どうなの?」

 エナは薫のことを「くゆ君」と呼んでいる。「くゆる」の前の二文字を取ったものである。

「ま、順調だけど。とにかく忙しいんだよね」

 薫はそこから何を話したかあまり覚えていない。二人が結婚するというのが、あまりに大きく彼の心を揺さぶった。

 実を言えば、薫はエナは自分と結ばれるのだろうという夢を抱いていた。いつか大熊を見捨てて、自分の元へ来るのだと。それに根拠はなかったし、ただの夢物語だったが、いざ叶わないとなると激しく吐き気がした。

 エナのために何かをしたわけでもない。大熊がエナに尽くし尽くされるのを横で見ていた。だけど、いつかは自分の元へ来てくれる。そんな確信はあったが、願望に過ぎなかった。

 大熊が、

「じゃ、このへんで帰るわ」

 とエナを伴って家を出て行ったあと、 薫は便器に嘔吐した。


 翌日、エナから連絡があった。薫の家に忘れ物をしたのだという。エナが一人で取りにくるということになり、薫は動悸が止まらなかった。インターホンが鳴った時、少し飛び跳ねたくらいである。

 テーブルに麦茶を出し、玄関のドアを開けるとエナがいた。

「ごめんね、くゆ君。すぐ帰るから」

 彼女はスニーカーを脱ぎ、リビングへ直行した。

「エナ、急がなくていいから。多分探してたの、これだよね」

 薫は黒いイヤホンケースをエナに手渡した。

「そう、これ。ありがとう。じゃ、帰るね」

「あ、待って」

 エナはちょっと驚いた顔で振り向く。呼び止められるとは思わなかったのだろう。

「せっかくだし、ちょっと話そう」

 自分がこんなことを言うのは初めてで、薫は自分自身に驚いた。エナと二人きりになることは今までもなかったことはなかったが、完全に大熊の影がないことは初めてだった。

「いいよ。これからはゆっくり話す機会なんてないしね」

 その一言で薫は凍り付く。

 そうか、結婚したら他の男とはこうして話すことはない。当たり前だ。当たり前だけど。

「まあ、座って」

 エナは麦茶の出されたテーブルにつき、椅子を引いたが、薫はエナの腕を取ってソファに座らせた。エナははっとして、従った。薫は正面に相手を置いて話すことは得意じゃないと、昔予め言っていたので、そのことを思い出したのだろう。

「エナ」

「ん?」

 エナは小首をかしげている。その様子がたまらなく愛おしかった。ソファに座らせたはいいものの、何の話をするかは決めてなかった。

「なんでもないよ、忘れて」

「ん」

 なんでもないわけがない。一番話しやすい体勢を作っておきながら何も言わないのは道理に合わない。

 二人は黙っていたが、そのうちエナがこらえきれなくなって、言った。

「なんでもないなら帰るね」

 エナは立ち上がり、玄関へ歩みだした。薫はいてもたってもいられなくなって、エナを後ろから抱きしめた。

「行かないで、エナ」

 硬直するエナの背中に、口づけをした。

「愛してる」

 エナは何も言わなかった。

 薫はそのまま泣き始めた。エナをしかと抱きしめたまま、時には強く腕に力をこめて。やがて涙が止まり落ち着いた時、絶望が襲ってきた。

 ついに言ってしまった。蓋をしていた気持ちを当の本人に言ってしまった。

「くゆ君、帰るね」

 エナが薫を振り払って、急ぎ足で玄関へと向かったが、薫はエナの腕を掴んで引き寄せ、抱きとめた。そしてエナの首に手を添えて口づけをした。

 気まずそうに目をそらす彼女の手を取り、薫はゆっくり自分の手を絡めた。そのままソファに押し倒し、エナのブラウスのボタンを外していく。そこでエナが口を開いた。

「だめだよ。そんなことは許されない」

「嫌だよ。エナが俺以外の奴と結婚するのは」

「わがままだよ」

 このままエナを汚せば心変わりしてくれるのだろうか。そんなわけはないと頭の隅では分かっているが、手は止められなかった。エナは抵抗しなかった。今抵抗したとて、男の力に敵わないことは知っていた。

 過去に薫には何人か恋人がいた。ただし、彼女たちは彼を本当には愛していなかった。そのため彼に飽きると関係は自然消滅していき、彼は一人になった。そんな彼をいつも励ましていたのはエナだった。彼の孤独を理解していたのはエナだけだった。

 エナもまた大熊に出会うまでは孤独だった。ずっと心に穴を抱えて生きていた。だからこそ、薫の心の穴を埋める言葉が見つけられたのだ。きっとそこから彼はエナに惹かれていった。でも、それが決定打かといえばそうだとは言い切れない。エナの笑顔、声、匂い、全てが高貴で輝かしいものに見えた。大熊と友人関係が続いていたのも、エナの存在があったからだと言っても過言ではなかった。

 薫はエナに何度も口づけをした。そうして大熊を塗りつぶしてやろうという試みがあった。エナが抵抗しないことに疑問は抱かなかった。それどころではなかった。ブラウスのボタンを外し終え、白い肌が見えると、もう理性というストッパーは効かなくなっていた。エナの指を噛み、そのまま口に含んで舌でぞりぞりとなぞった。エナから甘い呻きが漏れる。いつも大熊にされていることを、薫にされている。大熊と薫は真逆のような人間だったが、同時に似てもいた。

 ただ、それ以上はできなかった。エナを本当に汚すことはできなかった。それほどにエナは大きく美しい存在だった。モナリザに欲情できないのと同じだった。

 薫は、ごめん、と呟いて彼女のブラウスのボタンを留めた。エナは神妙な表情で目を伏せていた。薫はまた泣き出した。エナは座り直し、彼の頭を胸で抱きしめた。

「くゆ君。本当にお別れだよ。もうやってしまったことは取り消せないよ」

「分かってるよ。エナは大熊と結婚するんでしょ」

「そうだよ」

 エナは泣き咽ぶ薫の髪を撫でて、背中を軽く叩いた。

 薫は立ち上がってエナを玄関まで送った。エナは最後に笑って去っていった。

 広いリビングにこだました彼女の声を反芻しながらソファに座る。ふと気づいた。エナは忘れ物を置いて行った。黒いイヤホンケース。中にはイヤホンが入っているだろうが、念のためジッパーを引っ張って開けてみた。

 中に入っていたのはアフターピル、緊急避妊薬だった。

 嫌な予感がする。

 薫は家を飛び出し、エナを追ったがもう彼女はいなかった。

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