第3話 承

 有料道路に乗り、一般道に降り、さらに交通量のすくない道に入り、二時間半と少し。途中で何回か地災対本部の番号と、幸路の公用・私用の端末から着信があったが当然無視した。

 ばれるのは時間の問題だったが、思ったより早かった。だが、幸路では暦に追いつけないし、それ以外に追って来られる人員もいない。悪いが用が終わるまで本部で待っていてほしい。

 たどり着いたのは、資料にあった山間の集落だ。今は町名変更があったので資料に記されていたのとは正式な市町村名称が違っているが、出発前に確認したので間違いない。

 北の山裾からそれほど広くはない川原を持つ南の清流に向かって緩やかに下る土地はお世辞にも広いとは言えない。まばらに建つ家々と集落をふたつに割るように東西方向に走る二車線の道路、畑と木立。それがこの集落――曲淵のすべてだ。

「わー……予定通りに到着するの、ひさびさだ」

 助手席に座って曲淵の様子を眺めながら、暦は思わずつぶやいた。

「ナビ通りに運転すればたいがい予定通りに到着しません?」

 守家の言うとおりだが、そうはいかないのが幸路との外出なのだ。

 不思議そうにしている彼にひらひらと手を振ってその話を切り上げる。通り沿いの民家を訪ね、家の前に車をしばらく置かせてほしいと頼む。

「こんななんもないところに、何の用なんだい?」

 呼び鈴に応じて玄関に現れたのは畑作業から少し遅い昼食に戻ってきたところだったらしい家の主人だった。こちらを半ばにらみつけるように見てくる日に焼けた顔には、うろん気な様子と好奇心を半々に浮かんでいる。

 確かに、この集落には外から人が来るような要素は見受けられない。暦たちはまるっきりの不審者だ。

「少々確認したいことがあってまいりました」

 ポケットから身分証を出して提示した暦に続いて、隣の守家もあわてて胸ポケットから同じものを取り出す。

 警察手帳に似たそれをうさんくさそうに目をすがめて確認した男性が、ぽかりと口を開いた。

「えっ、お嬢ちゃん、地災対の人?」

 こんなにちっちゃいのに? と言わんばかりの視線には慣れている。むしろ面と向かって言わなかっただけ目の前で太い眉を上げて驚きをあらわにしている男性は〝デリカシー〟というやつを理解している。

「この近くで地災でも発生したのかい?」

 困るなぁ、と顔をゆがめる彼に、暦は首を横に振って見せる。

「いいえ。最初にお伝えしましたとおり、今回は確認作業――現時点で何か問題が発生しているわけではありませんのでご安心ください」

 暦の見た目に不相応の落ち着いた言動は家の主人の信頼を勝ち得たらしい。彼の肩から力が抜ける。

「そうなのかい? でも、ここいらに地災対の人が出張ってくるようなもの、何かあったかね」

「こちらに保管されている資料にはお社があると記載があったのですが、ミコトミノリノヤドリヒメの」

 首をひねって訊ねてきた主人が、暦の言葉にますます首をひねる。

「みことみの……? うちのとこのお社って言えば、淵向こうのサカゴトさまだけだよ」

「……サカゴトさま?」

 今度は暦が首をひねる。

「そう、サカゴトさま。逆夢を口にすれば意味が反転するって話があるだろう? おんなじように、サカゴトさまには本当の願いとは逆の言葉を口に出して祈るのさ。そうすれば、サカゴトさまの力で祈りは反転して本当の願いがより強く叶うって言われてる。実際、叶ったってやつもちらほらいるしなぁ」

 書庫で見た資料にはそんなことは書かれていなかった。ただ、「誠のある言葉を好み、寿ぐ言霊の神」と。

 すっと、何かが背筋を冷やした。

 予感、というようなはっきりしたものではない。ただ、何か据わりの悪い、落ち着かない気分になった。

「あの、ではそのサカゴトさまのお社はどちらに」

「それなら――」

 丁寧に道順を説明してくれた男性に礼を言うと、暦は足早に道を進む。守家はそんな暦を不思議そうに見ながらも一歩後ろをついてくる。

 ゆるやかに下る道を行けば、それほど進まず川原に出る。流れはそれほど大きくない。夏でも冷たそうな水が勢いよく流れ、ちょうど暦の目の前で大きく蛇行している。腰までありそうな深さの淵では澱む水に新緑の葉がたゆたっているが、内側では瀬の水が渦巻きしぶきを上げる。

 曲淵、という集落の名は、この淵あってのもの、ということか。

 斜面、とはいえ集落をつくることができる程度のこちら側とは違い、川の向こう側にはすぐそばまで山が迫っている。岩肌は覆いかぶさるように空と太陽の光をさえぎっているが、一部は切り崩され、切通しのように細い道が作られていた。その入り口に設けられた石造りの鳥居に向かって、こちら側から人ひとり通るのがやっとのちいさな橋がかかっている。

 社はこの先だ。

「彼岸、てことかな」

 つぶやき、橋を渡る。岩の間を抜けると、別の岩肌に囲まれたスペースに出る。道はそこで行き止まりだ。

 社は、背後にそびえる岩肌と一体化するように作られていた。

 木の柱に支えられた軒と、その下に置かれた賽銭箱――その向こうにもともとあった空洞を利用したのか岩をくり抜いたのか、岩肌に空いたくぼみに木枠の格子戸がはめられている。格子の隙間からくぼみの一番奥に神棚が設けられ、布に包まれたご神体が安置されているのが見えた。

 社、と呼んでいいのか迷うくらいに質素な様子で、ときおり手入れはされているのかひどく傷んでいるわけではないが古ぼけている。

「言われるがままに来ましたけど、結局、姫先輩は何しにここまで来たんですか?」

 窮屈そうに切通しの道を抜けてきた守家がきょろきょろとあたりを見回していまさらそんなことを問う。

「雰囲気あるぅ」

 わくわくした様子なのは待望の現場だからだろうか。

「神さまに会いに来たんだよ」

「えっ、神さま、いるの?」

 さらに色めき立つ守家にさあね、と肩をすくめると、暦は社を正面に立ち、ぱんっぱんっとよく響く柏手を打った。

 いてくれると、否、出てきてくれるといいな、とは思っている。

「サカゴトさま、いえ、ミコトミノリノヤドリヒメさま、いらっしゃいましたら、どうぞお姿をお見せください」

 本当は祝詞のような形式にのっとったのほうがいいのかもしれないが、残念ながらそういった素養はない。だいたい、「神さま」というやつは気まぐれで、礼を尽くそうが出てこないときは出てこないし、興がのれば適当に呼ぼうが応じるのだ。すべて彼らの気分次第、ならば、これで出てきてくれたらもうけもの、くらいのチャレンジはしてもいいだろう。

「主を呼ばうは、どちらさまでしょう」

 果たして応えはあった。

 びくり、と身をすくませた守家に視線で「黙ってて」と念を押し、暦は声の出どころへ顔を向けた。

 社の格子戸の脇に、その子はそっと控えていた。当然、先ほどまでそんなところに人の姿はなかった。

 おかっぱの髪に、十前後の華奢な身にまとうのは縹の水干。

 彼が身にまとう色彩を認めた瞬間、身体が強ばる。

 かつて祖母の家の裏山で、雪の中、暦の前に現れた彼――玉兎。雪に溶けて消えてしまいそうだった彼と同じ、純白の髪、白銀の目、雪白の肌。色を持たないのに、内からほのかに光って見えるような存在感。

 外見年齢はまったく違うのに、ミノリを「主」と呼ぶ少年は玉兎によく似た雰囲気をまとっていた。

 鏡写しのように。

「――――っ」

「ひめせんぱいっ」

 動揺して固まった暦を不審に思ったのか、近寄ってきた守家があわてたように裾を引いてきた。

 特異存在をこちらから呼び出しておいて、現れた存在からの問いかけを無視するのは、まずい。

 はっと息を吐いて、暦はこわばっていた顔に笑みを浮かべる。

「わたしは〝淵の端のミノリ〟さまとかつて縁を得ました者。こちらにおいでになるとうかがいますミコトミノリノヤドリヒメさまがわたしの知るミノリさまでいらっしゃるようでしたら、おうかがいしたいことがございまして参上した次第にございます」

 はっきりと告げれば少年はわずかに目をすがめた。そのしぐさに、暦の中に残っていた動揺と緊張が消えうせる。

 こんなに似ているのに、違う。彼は、玉兎ではない。――他人の空似、と呼ぶには似すぎている気もするけれど。

「主は今、とても大切な時期なのです。誰にもお会いになりません」

 ミコトミノリノヤドリヒメが〝淵の端のミノリ〟であることは否定されない。で、あるならば、一目でもいい、会って玉兎のことを訊ねたい。

「それは神祭の時期であることと何か関係がありますか?」

 先ほど会った集落の男性は何も言っていなかったし、現在の社の様子から何か準備が進んでいるようには見えないけれども、資料にあったとおりなら神祭の時期は今年の今頃になるはずだ。

 そして、神祭に彼女は姿を現すはず。

「……よく、ご存じで。しかし、時が満ちるまで、主はヒトの子に姿は見せませぬ」

 これといった表情は浮かべず、水干姿の少年は淡々と「お引き取りを」と頭を下げた。

「それは、いつに――」

「暦!」

 なるのです、とじれて大きくなってしまった声をさえぎるように、悲鳴じみた叫び声に名を呼ばれた。

 一拍遅れてぱぁんっと社の格子戸がはじかれたように外に向かって開く。ぶわりと風が押し寄せてきたかと思えば、やわらかな身体に全身を包まれる。

 反射的に全身が強ばりかけたが、すぐに力が抜ける。

 暦の身体は、このぬくもりを覚えていた。

「主。お身体に障ります」

「もうここまで来たら何も変わらないわ」

 声の調子は平坦だがいちおう彼女の身を案じているのだろう少年の言葉に、ミノリの返した言葉はどこか冷えていた。以前一度会ったきりで彼女のことをよく知っているわけではないが、どこか印象が違う、と彼女の顔を見上げようとしたのだが――。

「あぁ、無事だったのね、暦。よく顔を見せて」

 それより先に彼女の手に頬を包まれ、抱き寄せられていた顔をぐいっと上向きにさせられる。

「あの方があなたを放り出したと聞いて以来、心配していたのよ」

 どこか怒ったように言って、でもすぐにふんわりと記憶にある通りのおだやかな笑みを浮かべる。

「大きくなったわ。やっぱりヒトの子はすぐに変わってしまうのねぇ」

 確かに彼女に会ったのは十二の頃で当時よりは成長したものの、変若水のせいで七年分は歳をとっていないのだが、ミノリ――というよりも特異存在にとってその程度は誤差範囲内なのだろう。

 現に彼女の容色は何ひとつ色あせていない――が、ミノリにも変わったところはあった。

「ミノリ、その、お腹は?」

 自分を抱き寄せた彼女の腹部は――ゆったりとした天女のような装束でもごまかせないくらいに――大きく前にせり出している。まるで、子をはらんでいるように。

「あぁ、これは――もうすぐ生まれるの」

 そっと腹に視線を落とす彼女の表情は曇っているように見えたが、暦は身体を起こすとおそるおそるそこへ触れた。

 おとなしい子なのか動きは感じられなかったが、じんわりと伝わってくるぬくもりに自然と頬がゆるむ。

「……よい言葉が、君を守ってくれますように」

 かつてミノリが暦に願ってくれたように、暦も願う。

 世界が幸福に満ちているとも、善意であふれているとも、思わない。でも、不幸と呪いで染まっているわけでもない。それを暦は教えてもらったから。

 生まれてくる存在が、守られ、幸いでありますように、と。

 ぽたり、とミノリの腹に触れさせた手のひらの上にしずくが落ちてきた。雨? と首をかしげつつ顔を上げ、暦は眉をひそめる。

「ミノリ……?」

 ミノリが泣いている。声を殺して、ぽろぽろと両の目から透明なしずくをこぼしつづけている。

「どうしたの? どこかつらいの?」

 今も静かにたたずむ少年も「身体に障る」と言っていた。もともとどこか具合が悪かったところを無理して出てきてしまったのかもしれない。

 そうだとしたら休ませなくては、とあわてる暦に、彼女はかぶりを振る。何も声にはせず、涙を流したまま、何度も、何度も。暦は彼女の手をぎゅっと握りしめることしかできない。

「暦」

 やっとミノリが言葉を発する。

 なに、と答えた暦に、彼女は涙をこぼしつつも笑った。

「さいごに、あえて、よかった」

「え」

 ふっとミノリの全身から力が抜け、地面にくずれ落ちる。

「ミノリっ!」

 暦がしゃがみ込むより先に、ミノリの全身ががたがたと震え始める。腹をかばうように震えのせいでままならない手足を動かして丸くなったかと思うと、見開かれた目のふちに先ほどのものとは違う、生理的な涙が盛り上がる。

 尋常な苦しみようではない。

 食いしばられていた口が開き、あたり一帯に響き渡る悲鳴が吐き出された。

「ああああああああああぁあああぁぁぁあああああああああ!!」

 同時に彼女を中心に小規模ながらも力がはじけ、暦の身体は吹き飛ばされる。

「あっぶな」

 地面に叩きつけられそうになった身体を守家が抱きとめ、いっしょに地面に転がる。

「なに、これ、どういうこと」

 身体を起こし、混乱のままに視線をさまよわせる。先ほどと何ひとつ変わらぬ静かな表情でこちらを見ている水干姿の少年と目が合った。

「なにが、起きてるの」

 長いまつ毛の生えそろった少年のまぶたがゆっくりと上下する。

「時が満ちたのです」

 これまでぴくりともしなかった唇の端がゆるゆるとつり上がっていく。

「さぁ、神祭が始まりますよ」

 美しい笑みなのに、冷え冷えとした気配にぞっとして暦の全身は強ばる。

「あーーーーーあああああああぁあぁあああぁあああぁぁあああっ」

 ざわり、と叫び続けるミノリの全身を何かが包み込む。

 特別なものを見る目を持たない暦には、それが何なのかわからない。ただ、何か悪いものであることだけはわかる。

「ミノリっ」

 呼びかけても彼女の視線はうつろに宙をさまようだけでこちらを見てはくれない。

 どうして。何がどうなっている。

 手を伸ばしても、彼女はもう握り返してくれない。

「うあああああぁぁああああーーーーーーーーーーーーーっ」

 ミノリの叫び声に応じて、今度はぞわり、と何かが自分の中から奪われそうになる。

 これは、まずい。

 死なない自分はいいが、守家は――。

「コヨっ!」

「下がれ」

 あわてふためいた声と、いらだちを押し殺した静かな声。

 自分をかばうように前に立ったふたつの背中に見覚えはあるものの、どうして彼らがここにいるのか、暦にはわからなかった。


***


「ゆき? 鬼薬師?」

 背後で呆けた声を上げた娘の姿をちらりと一瞥し内心安堵する。ひとまず、憔悴はしていないようだ。

 彼女は変若水を飲んだ不老不死。どんな傷を作ろうと一瞬で元の姿に戻ってしまうが、以前連続で変若の力を使ったときにはひどく疲れた顔をしていた。

 そのくせ、「なんでもない」と本人は言うのだ。許せるものか。

「幸路」

 ここまで同行したヒトの子の名を呼ぶ。

「お前も下がれ」

「でも――」

 彼の隣に立って前を――地面に丸まって絶叫を続けるミノリを見つめる幸路の目の色がふわりと色を変えていく。濃い茶色から、冷え冷えとした白銀色へ。

 それと同時に、いつもほほえんでいるように見えるおだやかな気配が消え去る。

「よくわからないけど、あれはよくない気がするよ。大したことはできないけど、おれも控えておいた方がいいと思う」

 いつも間延びしているしゃべり方も、今は硬くこわばっている。

 さすがに勘がいい。

 内心でつぶやきながら、本部で彼と交わした会話を思い出す。

『で、コヨを追うに当たって、まずしておきたいのは目的地の特定なんだけどー』

 室長室から場所を移し、調査員のデスクが並ぶフロアにやって来た幸路がそう切り出す。

『あいつに発信機はつけていないのか?』

 先ほどの雛子とのやりとりから、そのくらいされていてもおかしくないくらいの信頼感のなさだと思ったのだが。

『いやー、そういう話もたびたび出るんだけど、本人が嫌がるのと、さすがに人権的にどうかーって却下してきたんだよねー』

 だけど今回みたいなことがあるなら持たせることになるかも、と苦笑しつつ、幸路は自分のものらしきデスク――くっつけて並べられ、いくつかの島を形成しているデスクのうち、中央寄りの島の突端に位置する――に近寄り、パソコンモニターのスリープを解除する。

『今回は公用車で出てくれたんで位置情報はつかめてるんだけど、行く場所によっては準備が必要だし、このまますぐに後を追うわけにもいかなくてー』

 モニター上で明滅しつつ移動するオレンジ色の光が暦の乗る車なのだとすると、高速にでものったのか、ぐんぐん離れていっている。

 地図上の方向としては北西だが、これだけでは何の手がかりにもならない。

『あー……それからー』

 幸路の言うとおり特定できるものなら先に目的地を知っておいた方が動きやすいか、とつぶやいていると、幸路が大変言いにくそうに申し出た。

『それから、おれねー、めちゃくちゃ道に迷うから、場所が特定出来たらできるだけ早く出たいんだよねー』

『方向音痴なのか?』

 だが、今の車にはカーナビゲーションシステムという便利なものがあると聞いている。そんなにダイナミックに迷うほうがむずかしいと思うのだが。

『うーん……方向音痴って言えばそうとも言えるんだけど、よくうっかり迷い込んじゃうんだよねー、〝ハザマ道〟に』

 えへへ、と笑いながら幸路は頭をかいた。

 ハザマ道、と人間たちが呼ぶのは「特異存在」が使用する時空の歪んだ道――のようなものだ。強大な力を持つ特異存在が時空の隙間につくるハザマと仕組みは同じだが、ハザマ道は自然発生したものがほとんどである。うまく使えばふつうの道を使うよりずっと早く目的地に到着できるが、内部は複雑で、よほど気配察知に長けているか使い慣れていない限り迷ったり思わぬ場所に出たりすることが往々にしてある。

 そもそもハザマ道への境界を越えることだってそう簡単にできることではない。ましてや、ただの人間には。

『あはは、おれ、実は父親が〝妖怪〟なんだよー。だから、いちおうハザマ道の入口ひらくこともできるんだけど、それとは別にうっかり迷い込んじゃうことも多くってー、しかも気配察知はそこまで得意じゃないっていう』

 こちらの視線の意味を正確に汲みとり、幸路はあっさりと自らの出自を明かす。

『父親とは子どもの時以来会ってないから力の使い方とかほとんど教えてもらってないし、力自体ほぼ受け継がなかったから仕方ないんだけどさー』

〝ササラ〟とは、人間や時に獣の中に生まれてくる彼らが本来持ちえない異能を宿した存在のことを言うが、彼らが力を宿す経緯はさまざまだ。

 幸路のような近しい直系にいる「特異存在」やササラから異能を受け継いだもの、はるか昔に宿った力がよみがえった先祖返り、まったくの突然変異――先天的なササラもいれば、「特異存在」に祝いや呪いを与えられた副産物として異能に目覚めたもの、自らの命の危機や何らかの衝撃で能力が開花したもの、数は少ないが臓器移植や輸血でドナーと同じ異能が宿ったもの――後天的なササラもいる。

 だが、迷おうが自力で道から出てこられるならヒトの持つ気配察知能力としてはじゅうぶん以上に優れている。妖怪や精霊と呼ばれるものでも、力弱いものはハザマ道に迷い込んだまま出てこられなくことが少なくないのだから。

 幸路の父親はそれなりに力を持った存在なのだろう。

 しかし――。

『その手があったか』

 つぶやけば、幸路が目をまたたかせる。

『なになに?』

『馬鹿正直に後を追う必要はない、ということだ』

 迷って道を使いこなせない幸路にとってハザマ道の利便性など無に等しいだろうが、今日は自分がいる。

 そもそも、既存のハザマ道を使う必要すらない。

『あいつの目的地がわかったら、おれが道をひらけばいい』

 ここまでやって来たのと同じ方法で、だ。彼にとって、ハザマをつないで道をつくるのはそれほどむずかしいことではない。

 目的地がわからない限り移動はできないが、空間だけでなく時間もうまいこと調整できれば、彼女が目的地に到着するのと前後してつかまえることができるはずだ。

『えぇ、すごい、鬼薬師、すごいねー! やばーい』

 ぱちぱちと手を叩き、幸路が語彙力の死んだ称賛の声を上げる。

 そうして暦が乗った公用車の信号が止まる場所を見届けた結果――そこは彼も面識のある相手の住処だった。

 ミコトミノリノヤドリヒメ。

 たいそうな名前をヒトによって与えられた彼女は彼同様「変わり者」と名高かった。だが、彼女とて「そういうもの」として生まれ落ちた、というだけのこと。

 ヒトに寄り添い、ヒトに捧げられるものを受けとり、そしてそれを恵みとして返す。彼女がそれに不満を抱いている様子はなかったし、彼女とヒトの関係は良好だった。

 本来の意味で神と呼ばれるには力は弱かったが、ヒトの子らが正しく彼女を奉っている限り、彼女は彼らにとって「良き神」であるはずだった。

 それが、このありさまはどういうことだ。

 彼の眉間に、自然と深いしわが刻まれる。

 目の前にうずくまり、金切り声を上げ続けるミノリの身体からはまがまがしい気配が発せられている。純粋な力だけで言えば自分のほうに軍配が上がるはずだが、単純にはいかなさそうだ。

 幸路は父親ゆずりの感覚で異変を察知している。

 だが――。

「ふたりともどいて。ミノリが変なの。それに、お腹に子どもだっているんだから!」

 どんっ、と背後からの衝撃に振り返れば、焦燥に顔をゆがめた暦がこちらを押しのけて前に出ようともがいている。

「やめておけ」

「なんで! わたしの血を飲ませれば治るかもしれない。少なくとも、状態はこれ以上悪くならない」

 ヒト相手であれば、与えた相手の時間を一時的に止める――かりそめの変若の力を与える――暦の血は有効だろう。だが、特異存在相手にどう作用するかはわからないし、仮にミノリの苦しみを取り除くことができたとしても、それは――。

「それをしたら、ミノリはミノリではなくなる」

 彼の袖をつかんで思い切り引っ張っていた暦が硬直する。

「どういうこと……?」

 おそらく暦がそうだったように、彼も玉兎のハザマでミノリに会ったことが幾度かある。

「ご挨拶」に来るたび、彼女は違う姿をしていた。

『こんにちは、鬼の子』

 ふくよかな、やさしい笑顔の似合う姿。

『あら、でっかくなって! もう鬼の「子」なんて呼べないわね!』

 からからと豪胆に笑う、あでやかな美女。

『調子はどーおー? 薬の勉強始めたんですって?』

 ぱっちりと大きな猫のような目を好奇心に輝かせ、こちらをからかうように笑ういたずらな顔。

 記憶は「ミノリ」のままなのに、容姿も雰囲気も毎度違う。混乱して渋い顔をする彼に、玉兎は笑って種明かしをした。

『ミノリはね、淵の精なんだ』

 良いものも悪いものも、力あるものも儚いものも、よどみ、澱となって沈む淵の主。

 澱んでこごった「何か」にいつか誰かが願って産み落とされた「神」。

『良いものはともかく、悪いものが溜まりすぎるのはよくないからね。彼女は十二年に一度、自分自身を生まれ変わらせている』

 記憶は引き継ぐが、十二年ごとに「ミノリ」は新しい「ミノリ」になる。

〝淵の端のミノリ〟はそういう存在だ。

「彼女は、十二年に一度己をはらみ、神祭で己で己を産み落として死ぬ」

「は……」

「だから、今のミノリが死ぬこと自体は、自然なことなんだ」

 目を見開いた暦の手から力が抜け、するりと落ちる。

「もし、変若の性質を得てしまったら、生まれ変われなくなったミノリは悪いものをためこみ、いずれ変質するか儚くなるだろう」

「……でも――」

 叫ぶミノリをちらりと見て、直視にたえかねると言わんばかりにぱっと目を伏せる。唇を噛み締めちいさく震える姿に押し殺した息をもらす。

 言いたいことはわかる。

 ミノリの代替わりがあれほど苦しむものだとは聞いていないし、第一あんな呪いにしか見えない黒々とした気配をまとった状態が正常だとも思えない。

 自分も苦しみを感じているように全身をすくませている暦を背後にかばったまま、彼はここに駆け込んだ時から気になっていた存在をにらみつけた。

「おまえは、なんだ」

 水干を身にまとった少年姿のそれの気配は人間ではない。最初はミノリの眷属かとも思ったが、ミノリがこんな状態になっているのに眷属には何の異変も起こらないなんてことはありえない。

 つまり、明らかな異分子だ。

 ちいさな姿が宿す色彩も、気配も、どうにも落ち着かない気分にさせられる。

 記憶にある師の姿にあまりに似ている。それなのに、絶対的に何かが違う。

「名乗るほどの存在ではありませんよ。わたし自身はただの枝、いえ、枝についた一葉にすぎませんので」

 はぐらかすようなことを言う相手に、彼は保っていた変化の術を解いた。

 赤黒い角に、赤黒く鋭い爪、それに鬼としての気配――すべてをあらわにする。変化したままより、元の姿のほうが戦う際には動きやすい。

「それでも、わたしに挑むことはおすすめしませんよ、幼い鬼の子」

 余裕の態度を崩さず少年姿のそれはほほえみ続ける。「幼い」などとひさびさに言われたが、言った相手の外見がこれでは反感しか覚えられない。

「あなたでは、いえ、地上に生まれ落ちた存在ではわたしには勝てない」

 ちらりと流し目で見られ、背筋に寒気が走る。

 くやしいが、本能が告げている。目の前のこれは彼より数段上の存在だ。手を出した瞬間、あちらがその気を出せば意識するより早く何ひとつ残さず消し飛ばされるだろう。

 動くなよ、と幸路に目配せするが、心配するまでもなく彼は青ざめた顔で奥歯を噛み締め、立っているのがやっとの状態だった。

 目の前の存在の目的が何かはわからないが、少なくともこちらを排除しようとする動きはない。

 優先すべきは、暦たちを無事に撤退させることだ。

「わたしの邪魔さえしなければ、あなたがたには何もしませんよ」

 こちらの頭の中を読んだようにふふっ、と笑って、少年は優雅な足取りでミノリに近づいていく。

「本当はそこのふたりを神祭の捧げものに、とも思ったのですけれど、まぁ、贄くらい別のところからでもすぐ用意できますからね」

 ミノリの傍らに立った彼が宙をつかむようにすると、どこからともなく手の中にまだ脈打ち、赤黒い血を滴らせる心臓が現れる。ひ、とその場の誰かが悲鳴を押し殺した声が、ミノリの叫び声の切れ間に妙に響く。

「さあ、受け取って。いい加減、抵抗するのはおやめなさい」

 幼子をなだめるように言いながら、心臓をミノリに向かって落とす。すぐさまミノリの身体――腹のあたり――から黒々とした気配が伸びあがり心臓を包んだかと思うと、赤黒く脈打っていた心臓は色あせ、ぱらぱらと塵になって砕け散った。

 どくん、とその場の空気を揺らして何かが脈動した。

「あああああああぁぁ、やあああああぁぁああああああああぁぁ!」

 いやいや、とミノリが首を横に振る。まるで、自身の生まれ変わりを拒むように。

「もう、あなたの時間は終わりです」

 古き澱みは清められなくては、と少年は慈しみ深い笑みを浮かべ、右手を宙にかかげた。べったりついていたはずの血はいつの間にか消え去っている。

 彼の手の内に今度はひと振りの剣が現れた。冴え冴えと冷たい白銀の光を凝らせればかくのごとく輝くだろう、神話の挿絵に描かれるような両刃の剣。

「おやすみなさい、やさしくあわれなミノリ。そして、おはようございます、無垢で呪わしいミノリ」

 剣が振り下ろされる。

 とっさに自分のすぐそばにあった細い腕を――傷つけてしまうかもしれない、という配慮もじゅうぶんにできなかった――つかんで抱き寄せ、視線をさえぎろうとした。だが、間に合わなかった。

 もともとおおきな少女の目が、こぼれ落ちそうなくらいに見開かれ、いつもは勝気に光るそこに絶望の色がひたひたと満ちていく。

「―――ぁ」

 すぐそばにいても、彼女がこぼしたのが吐息だったのか、何かの言葉だったのか、聞き取れなかった。

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