第2話 起

 時はわずかにさかのぼる。

地災対策室において「書庫」と呼ばれるのは地下の二フロアのことだ。地下二階には主に古書や貴重書、〝特別な〟封印を必要とする書籍が保管されており、入室には一定以上の権限を必要とするが、地下三階は地上階にある資料室に置いておけなくなった――もしくは置いておく必要のなくなった――少し情報の古い報告書や資料ファイルが並んでおり、地災対の職員ならば誰でも閲覧が可能である。

 エレベーターのドアが開くと同時に流れ込んできた空気はわずかにほこりっぽく、ひんやりしている。紙の保存のためフロアが一定の温度と湿度に保たれているためだ。

「よし」

 ちいさくつぶやき、暦は一歩を踏み出す。

 日々発生する地災対応のため全国を飛び回っている暦たちは、本部に戻ることがほとんどない。一日本部待機が決まっている日などもっと少ない。

 本部に戻ったときの義務となっている研究班による健康チェックやたまっていた事務作業を片付けると、職務上のバディである幸路に声をかけ、暦はここへとやって来た。

 本部で空き時間――正確には待機時間だが、呼び出しがない限り本部内であれば好きにしていい――ができたときにはだいたいここにいる。

 暦には探している人がいる。正確にはヒトではない彼は、かつては「妖怪」や「怪異」と呼ばれた特異存在で、暦の恩人で、養父だ。

 そして、暦に説明なしに「変若水」を飲ませ、不老不死にして、ヒトの世に放り出すように戻し、行方をくらませた。

 玉兎。

 暦が知っているのは彼の呼び名と、彼がおそらくかなり強大な力を持つ特異存在だったことだけだ。

 彼を見つけて、一言物申してやる。

 その目的を達成するためには特異存在の情報が必要で、地災対策室の情報網と蓄積された資料が利用したかった。暦が地災対策室に所属した理由のひとつである。

 地災対の方でも、変若水などという反則的なものを所持する特異存在を放置しておくわけにもいかず、暦を保護する経緯の中で玉兎は「重要優先確保対象」の指定を受けた。彼の案件は地災対においてかなりの優先度で処理されることになっている。

 そのため、暦が玉兎のことを調べることは推奨されこそすれ反対されることはない。

 上の階にある資料室の資料は比較的最近集められたものなので、紙として収拾されると同時に電子化・データベース登録されている。玉兎についていくつかキーワードから検索をかけてみたが、見つけることはできなかった。と、なると次に調べるべきは現在いる地下三階「書庫」だが、この部屋の資料は大半が電子化されておらず、簡易な目録はあるものの詳細な内容についてはめくってみなくてはわからないことが多い。

 結果、暇さえあればここに引きこもることになっているのだ。

 こないだは確かあそこまで見たから、と作業の進捗状況をメモしてある手元のタブレットを確認しながら通路を数歩進んだ暦は、いつもは無人の閲覧席に人の姿を見つけてぎょっと立ち止まった。

 ここにあるのはそれほど重要度も利用頻度も高くないゆえに地下におろされた資料だ。情報として新しいわけでもない。暦のようなよほどの物好き以外はひっくり返したりしない。

 自分より先に誰かがいるのを見たのは初めてだった。

 その人物も暦の気配に気づいたのだろう、顔を上げるとぱっと笑みを浮かべた。

「あっ、ちっちゃい先輩だ。こんにちは!」

 元気のいい挨拶だが、その呼び方はどうなのか。

 確かに千歳はもともと童顔かつ成長が遅かったうえに変若水を飲んだ十六で成長が止まっている。時に中学生に間違えられることもあるが――。

 染めているのか深い緋色の髪をぴょんぴょこ跳ねさせ、猫っぽいわずかに目じりのつり上がった大きな目をした青年には見覚えがある、気がする。ここにいること、暦を見知っていること、暦を「先輩」と呼ぶことから地災対の後輩であることは確実だが、はっきり名前が思い出せない。と、なると、四月に配属になった研修中の新人だろう。

 彼らとは数日前に本部にどうしても立ち寄らねばならなかった――そして、三十分に満たない滞在時間で次の現場へと向かった――ときにすれ違いがてら軽く挨拶しただけなので、いまだはっきり顔も名前も覚えられずにいる。職場の特殊性ゆえ高校や大学卒業前の配属もざらにある地災対だが、とりあえず、今回の新人は全員暦(の見た目)よりは年上に見えた。

「こんにちは、おっきい後輩」

 嫌味も込め、挨拶を返してやる。

「やだなぁ、先輩。おれ、そんなに特別おっきくないですし。あと、名前は守家(もりや)だからモーリーって呼んでくださいって」

 こないだ挨拶したときに言ったじゃないですかぁ、と嫌味も通じていなさそうな朗らかさでからから笑う彼の顔を見つめ、暦は思い出す。

 守家。そうだった。数日前、彼はそう名乗っていた。その後の余計なあだ名とともに。

「それを言うなら、きちんと先輩の名前は呼ぶべきじゃない?」

 ほら岩長先輩って、とうながせば、守家は首をかしげた。

「えー先輩ってなんとなく岩長っぽくないからなぁ」

 勝手なことを言ってうんうんうなる。

「ああ! じゃあ姫先輩って呼んでもいい?」

 ぽん、と手を打ってうれしそうに提案してくる。

 岩長から姫への連想が日本神話の「イワナガヒメ」に由来するのだとしたら、それはそれで女性には嫌がられそうな連想だが――ある意味暦にはふさわしい連想でもある。

「……いいよ、好きにして」

 面倒くさくなって投げれば、守家は「はい、姫先輩」とにこにこしながらうなずいた。

「それで、姫先輩はこんなところに何の用で来たんですか?」

「電子化されてない資料の確認、だけど――」

 暦の視線が自分の手元に向いていることに気づいた守家は、こちらと話しながらも動かしていた手を止めた。

「おれは、その電子化されていない資料の、電子化作業のお手伝い」

 まだバディになる予定の先輩が帰ってこないので、と続けて、不平をあらわに唇を尖らせる。

「早く現場に出たいんですけど!」

 地災対に配属になった新人は、まず本部で基礎研修を受ける。専門用語や職域における権利関係、データの見方といった現場でも必要になる知識の講義や、報告書の作成のしかた、経費の請求方法など事務的なことまで。一通り叩き込まれたところで、現場経験が五年以上ある調査員とバディを組み、現場研修に移ることになる。基礎研修が一ヶ月、現場研修が三ヶ月程度で「研修中」の看板は外される。めったにないことだが、研修中に本人からの申し出、もしくは先輩調査員からの報告で「適性なし」として配属が取り消しになる者もいる。

 ちなみに研究班枠で採用された新人は最初から研究班に叩き込まれるので調査員といっしょの研修は受けない。

「あー……」

 万年人手不足の職場の現状をかえりみて、暦は何とも言えない声を上げた。

新人を現場研修に送り出すためには、これまでのバディの組み換えなど調整が必要となる。組分けが整ってからも、組む予定の相手がもともと抱えている案件によっては新人は基礎研修後もしばらく本部預かりとなることがある。遊ばせておくわけにはいかないが、さりとてできることは多くない。結果、さまざまな雑用に駆り出されることになる。現在の守家のように。

 持ち込まれたノートPCと、そこに接続されたスキャナー、傍らに積み上げられたファイル。言われずとも、彼が何の作業をしていたのかはわかる。

「書庫」資料の電子化・データベース登録は、以前から「やるべきだろう」と話には出ていた作業だ。ファイルにとじ込まれた書類をひたすらスキャン、とり込んだ画像データに文章読み上げ用のプログラムを走らせてから間違った読み上げをしていないか確認したうえで電子化、画像データと文字データを資料の基本情報をいっしょにデータベース登録、という地味に手間のかかる作業のうち、もっとも肉体的な負担の多い部分――資料の山のスキャン――を肉体的に若く、手の空いている彼に押し付けたのだろう。

「おつかれさま。助かるよ」

 彼が現在スキャンしている資料は玉兎に関連しそうにない資料――閉じ紐を外され、傍らに置かれた表紙には「関東地方の国つ神の祭祀についてⅡ」とある――だったが、「書庫」の資料が資料室のように電子化されれば暦もここまで下りてきて重い紙の束をひとつひとつ引っ張り出して確認する必要もなくなる。

 彼にはがしがしがんばってほしい、と励ましの言葉を送った暦だったが――。

「ん?」

 ふと目に留まった単語に手を伸ばした。

「どうしたんですか?」

 スキャンが終わったのかこれからなのか、それはわからないが、表紙を外され、積み上げられた紙の束のいちばん上にあった一枚を引き寄せ、怪訝そうな顔をする守家にかまわず目を走らせる。

 曲淵集落の共有地にある社に祭られているのは、誠のある言葉を好み、寿ぐ言霊の神。神名はミコトミノリノヤドリヒメ。

 それほど強い神ではない、と書かれているので、正式な分類では「国つ神」に分類されることもない特異存在なのだろうが、社に名のみ残して消えたり留守居にしたりしている国つ神が多い中、神祭の時期以外滅多に姿を現さないが、確かに社にとどまっている珍しい「神さま」とのことだ。

 そして、彼女が姿を現し、自分に捧げられた奉納品と祈りに応える神祭は十二年に一度――干支がひとつ巡るごとに一回、皐月の頃に、とある。

「……これ、いつの資料?」

「え? えーっとぉ」

 暦の問いかけに守家はパソコンを覗き込む。スキャンの前に基本情報の打ち込みは済ませてあったのだろう。

「四十年とちょっとくらい前です!」

 資料に記されている神祭の干支は今年と同じ、季節もちょうどそろそろだ。

「あー……」

 うなって、暦は額に手を当てた。

 これは偶然か、それとも何らかの縁なのか。

 淵の端のミノリ――そう呼ばれていた特異存在に、暦は会ったことがある。

 玉兎に拾われたばかりの頃、彼女は玉兎の元に「ご挨拶」に来ていた。会ったのはそれっきりだったが、華やかさはないものの、やさしく、おだやかな笑みを浮かべた人だった。

『よい言葉が、あなたを守ってくれますように』

 そっと自分の頭をなでたやわらかな手の感触は今でも覚えている。

 彼女のことは、ほかの通り名を知っている幾人かの特異存在と同様に探していた。玉兎を訪ねることを許されていた彼女ならば、今も玉兎の居場所を知っているかもしれないからだ。

 もし、曲淵のミコトミノリノヤドリヒメが暦の知るミノリならば、できれば会いに行きたい。会って玉兎の現状を知っているか聞いてみたい。

 資料に記されている彼女の社のある場所だって車で行けば二時間半程度――それほど遠くはない。うまくいけば往復しても就業時間中に帰ってこられる。玉兎の案件だと言い張れば、職場放棄だと重く処罰されることもないだろう。

 今日を逃せば明日からはまた方々飛び回ることになる。かといってバディである幸路に頼めばきちんと室長の許可をとったうえで車を出してもらうことになる。が、諸事情あって方向音痴をこじらせている彼が運転手では何かあったときの緊急呼び出し時にすぐ戻ってこられない、という理由で外出は却下される可能性が高い。

 では幸路以外に誰か付き合ってくれる人は――と本日本部待機をしている同僚の顔を思い浮かべてみても、そもそも万年人手不足の部署にそんな暇人は存在しない。ならばひとりで、と思っても、いちおう免許は持っているものの見た目が若すぎる暦は公道での運転を見とがめられるし、公用車の使用は認められていない。

 何より、暦は就業時間中の公舎外での単独行動を禁じられている。公舎から出た瞬間、守衛室から室長へホットラインで連絡が行く。信頼がなさすぎる。

 休日の行動までは禁じられていないのだから休日に行けばいい、と言われればその通りなのだが、次の「休日」にこの近くにいられる保証もない。

 手詰まりだ。

「姫せーんぱい、眉間のしわ、すごいよー」

 いつの間にか、守家に至近距離から顔を覗き込まれていた。

 近い、と押しのけながら、ふと魔がさす。

「……ねえ、守家は運転免許、持ってる?」

「運転? できるよ!」

 きょとんと目を丸くした後輩相手に、いけない、と思いつつも言葉を重ねてしまう。

「公用車の使用申請のやり方、覚えてる?」

「もっちろん。ついこないだ習ったばっかだからね!」

 これはいけないことだ、わかっている。自分だけでなく、守家のことも巻き込んでしまう。

 暦の現場経験はまだ五年に満たない。だから、彼を連れ出しても研修だなんて言い訳もできない。

「せーんぱいっ」

 やっぱり駄目だ、と頭を振ろうとした暦に、守家がにっこり笑いかけてきた。

「おれ、現場に出てみたいです!」

 まるでこちらの頭の中を見透かしたように言う。

「ばれたらいっしょに怒られてあげますから~」

 暦が手にしたままだった資料を取り上げ、目を通し、にっこり笑う。

「いっしょにいけないこと、しましょ?」

 ね? とまるで悪びれることなく言い放った後輩を見つめ、暦は頭を抱えた。

「いけないこと」だとわかっているなら、とどめなくてはならない。それが正しい先輩の姿というものだろう。

 だが――。

「モーリー」

 顔を上げ、まっすぐ彼を見つめてあえてふざけたあだ名で呼んでやる。

「はいっ、姫先輩」

 はずむような声で返事を寄こした後輩に、笑ってみせる。

「共犯者になってくれる?」

「よろこんでっ」

 そう答えた守家は、とてもたのしそうな満面の笑みを浮かべていた。

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