返らぬ逆言、孵るは禍事
なっぱ
第1話 序
目の前のヒトは先ほどから眉ひとつ動かさず手元の書類に目を落としている。せわしなく動くのは、文字列を追う目だけだ。
一通り読み終わったらしく、顔を上げると彼女――先ほど斎川雛子(さいかわ・ひなこ)と名乗っていた――はこちらを見上げた。
「こちらで作ったたたき台からほぼ変更がないようだが」
「必要なかった」
短く答えると、切れ長の目がすがめられる。
「……こちらとしては大変助かる申し出だが、そちらにうまみはないだろう。本当にかまわないのか?」
薄く形のいい唇、絹糸のような細くまっすぐに流れる黒髪――これで振袖でも着ていたら、まるで日本人形が生きて動いているように見えるだろうが、雛子が着ているのはダークグレーのパンツスーツのセットと白のブラウスだ。
内閣官房所属地災対策室室長。
その肩書にふさわしい装いなのだろう。
官公庁街のビルに一室を与えられ、重々しいデスク――とはいえヒトとは違う膂力を持つ彼には軽く蹴り飛ばせるが――の向こうに腰を下ろした、現代における「怪異退治」組織の長。
「かまわない。そもそもこの申し出はこちらからしたものだぞ」
ちいさく鼻を鳴らしてから答えると、彼女の目がわずかに細められた。
「……話には聞いていたが、ずいぶんと変わっている。人間臭い鬼もいたものだな」
聞きなれた評価にちいさく鼻を鳴らす。
昔から「風変わり」と呼ばれてきたが、正直周囲の評価などどうでもいい。自分は人間に慣れあった結果こうなったのではなく、元来「そういうもの」というだけの話なのだから。
「では、ここに署名を。そちらの文字でかまわない」
雛子は書類の最後のページを開くとそこに設定されていた欄にまず自分の名前を書き入れ、こちらに向かって差し出した。勢いのある筆致の彼女の名の下に、ヒトには読めない文字で己の真名を記す。
もう、知る者はほとんどおらず、呼ぶ者はより少ない名。知られても、彼より力ないものが下手に悪用しようとすれば相手が滅ぶだけだが、存在そのものと強く結びついているがゆえにそう簡単には明かせない。
最後にヒトにその名を呼ばれたのは――、と思い出したくない記憶にぶつかりそうになり、目の前の作業に意識を戻す。
同じ書類をもう一部差し出されたのでそちらにも署名し、二部の契約書に雛子と彼、それぞれの拇印で割り印し、出来上がった書類を一部受けとる。これで定められた事務作業は終了だ。彼からしてみれば、口約束だろうが「応」と答えた瞬間に契約は成立しているのだが、ヒトにとっては重要なことらしい。
「あとは、呼び名を――」
雛子の言葉の途中で、ノックもなく、彼女の執務室のドアが開け放たれた。
「室長ー、大変だよー」
人間の耳には聞こえなかっただろうが、少し前から駆け寄ってくる足音は聞こえていたし、その足音は彼にとって聞き覚えのあるものだった。
「あれ? 鬼薬師? え、鬼薬師だよねー?」
ドアを勢いよく開けて入ってきたのはやはり見覚えのあるヒトで、この国に住むヒトにしては大きな図体をしているが、間延びした話し方とどこかおっとりとした雰囲気、太めの眉に垂れ気味の目のせいで飼いならされた犬のような雰囲気を放っている。こちらの姿を認め、きょとんと目を丸くしているとなおさらだ。
名は、標野幸路、だったはず。
「どうしたのー、その格好」
ヒトの街に出てくるのに、本来の姿――角や鋭い爪を持つ鬼の姿――では騒ぎになるだろう。そう思って変化のまじないでヒトらしく見えるように消してきた。
「どこかおかしいか?」
取次を頼んだ受付でも、雛子からも、特に何も言われなかったのだが。
「いやいやー、なんかふつうにナンパされそうだけど、平気だったのー?」
服変えても派手だねー、と笑われ、改めて今の自分の恰好を見下ろす。
何の変哲もない鼠色の上下――作務衣だ。
変化のまじないを肉体にかける際、普段から身にまとっている袍や袈裟が人間にとってはある種の宗教的な意味を持つことを思い出して服も着替えてきたのだ。そもそも袍や袈裟もこだわりがあって着ているわけでもない。今着ている作務衣同様、昔間借りしていた寺の僧侶がくれたものを使い続けているだけだったが、ある種特徴的な格好をしていると時おり顔を出していた集落の住人たちがすぐに自分を「鬼薬師」だと認識してくれる、という便利さがあった。
今となっては、見守るべき土地も、ヒトも、なくなってしまったのだが。
「……この近くまで、おまえたちのものとは違う〝道〟を使ってきたからな。それほど声はかけられなかった」
自分の肌の色がこの国の一般的なヒトよりも濃いことや、顔の造形が目を引くことは何となく知っているし、ヒトの異性(時には同性)から秋波を送られることも少なくない。
正直めんどうくさいので普段から街に出るのは必要最低限にしている。
「あー、そっか、鬼薬師は〝ハザマ道〟使いこなせるんだねー」
いいなー、と唇を尖らせた幸路を今まで黙っていた雛子がうながす。
「何か急ぎの用事があったのではないのか、標野」
ヒトとは違う聴力で幸路の接近に気づいていた彼とは違い、彼女は分厚い扉が押し開けられるまで幸路には気づいていなかったはずだが、部下の出現にも顔色ひとつ変えずに椅子の背もたれに身を預けている。
「あぁー、そう! そうなんだよー!」
くしゃくしゃ、と前髪を乱し、幸路はうなった。
「……コヨが、脱走したんだよー」
ぴくり、と雛子の眉が動く。出会ってからこれまで、能面のように動かなかった彼女の顔に現れたいちばんの変化だった。
かくいう彼も思い切り顔をゆがめてしまった。
コヨ――こと、岩長暦のことを彼は無視できない。
彼女とは、ある種の縁を結んでいるがゆえに。
厄介で、愚かな、人間の娘だ。
「岩長の就業時間中における公舎外の単独行動は禁じていたはずだ。公用車の使用申請も彼女では許可されないし、単独で公舎を出たら守衛からお前かわたしに連絡が入ることにもなっている。バディの標野がここにいる以上、どこにも行けないはずだが」
雛子の声は、これまでよりも一段低い。
暦のことを「厄介」だと思っているのは自分だけではない、とよくわかる対応の数々に、目を離せばすぐに死にそうな(・・・・・)娘の姿を思い出す。
「それがさー、四月に入ったばっかの新人の子のこと丸め込んだみたいでー」
まいったよー、と眉を下げれば、幸路は途方に暮れた犬のような顔になる。
「わたしの訓示をきちんと聞いていないことが丸わかりだな。ろくな交渉力もない岩長にたぶらかされた青二才はどこのどいつだ」
訓示でまで取り扱いを注意喚起されているらしい。
「具体的に誰かまではまだわかってないよー」
すぐすっ飛んできたんだもん、と唇を尖らせて幸路がぼやく。
「見慣れない若い男の子と出てったけどいいんですかー、ってなじみの守衛さんから念のためにって連絡なかったら、気づけなかったよ……」
コヨ、今日は書庫にいるって言ってたし、とそこまで言って、幸路はちらりとこちらを見てきた。
「ねえねえ、鬼薬師ー」
「なんだ」
だいたい何を言われるのかは察しがついたが、とりあえず聞き返した。どうせあちらもこちらの返答について想定しているはずだ。
「コヨのこと捕まえに行くの、手伝ってくれなーい?」
やはり、とため息をこぼし、彼はうなずく。
「……いいぞ」
いまいましいことだが、あの娘のことを無視するわけにはいけないのだ。もし、危険なことをしようとしているのならば、なおさらに。
「さっすが、おかーさん、面倒見がいいね!」
軽口を叩いた幸路を横目に睨みつける。
「行くぞ」
さっさと首ねっこを捕まえなければ、何をしでかすかわからない。
率先して部屋を後にした彼は、部屋に残った雛子が「おかーさん……?」と眉間にしわを寄せて首をひねっていたことを知らない。
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