博士の思考
生糸 秀
博士の思考
「辞めることについて、博士はどう思いますか。」
博士は、コーヒーを飲むふりをしながら、にやりとした。
「君の言う、辞めるとは、何のことかな?部活?学校?あっ分かった、人生をやめたいんだろ?」
「なにが分かったんですか!人生じゃないですよ!ひどいな~」
博士は僕の反応を楽しんだ後、まじめな顔になって、もう一度聞いた。
「で、何を辞めたいんだい?」
「部活です。僕、吹奏楽部なんです。でも、正直僕が一番下手だし、もうこれ以上頑張ってもみんなに追いつける可能性もないし・・・」
「ほう。それで、部活を辞めたいんだ。」
博士はまた、コーヒーを手にもって、口に近づける。飲んではいない。
「もちろん辞めるなんて、無責任だし、よくないってことは分かってます。でももう限界なんです。自分が一番下手だなんて突き付けられる毎日が、僕には耐えられないんです。」
「そうか。」
博士は、そう呟いて壁に貼ってあるポスターを見つめた。
「僕はね。辞めることが悪いなんて思わない。無責任だとも思わない。」
博士は、壁のふざけたポスターを眺めながら、そういった。思考を整理するときの、いつもの癖だ。ごちゃごちゃしているものを見てると、考えにくいんじゃないかと思ったけど、博士はそれがいいと言っていた。
「辞めることが、イコール負けにはならないんだよ。僕は何度もやめてきた。でもこうして今、成功しているだろう?」
「今、成功してるんですか?」
博士は、どう見てもお金持ちには見えないし、有名にも見えない。第一僕が訪ねたら、いつも一人で、コーヒーを飲むふりばかりしている。
「成功してるさ。失礼な子だな。僕はこうして今生きている。人生を楽しんでいるじゃないか。」
博士はふっと笑った。
「いいかい?辞めるためにはね、始めなきゃいけない。そして、そのことを辞めたいと思うまで、やり続けなければならないんだよ。」
「はぁ。」
僕はピンとこないけど、とりあえずうなずいた。
「君は、吹奏楽部をもうやめたいと思うまで、続けた。そうだろう?」
「はい。でも、辞めてしまったら意味がないじゃないですか。」
「違うよ。辞めるとき、みんな辞める瞬間ばかり考えているけど、そこに至るプロセスを、もっと見るべきなんだよ。辞めたいと思えるということは、そう思えるほど今まで頑張ったということなんだよ。その努力を認めてあげるべきなんだ。別にやめたっていいんだ。どうせみんな、人生を辞める日が来る。ずっと続けられることなんてないんだよ。タイミングが違うだけさ。」
博士がそんなに肯定してくれると思わなかった。辞めるといった僕のことを、馬鹿にしてからかってくると思っていた。でも、予想に反して、博士は僕に温かい言葉をくれた。
「博士がそんなに優しい言葉をくれるとは思いませんでしたよ。」
「全く、僕を何だと思っているんだい。まぁ僕は、僕の考え方を伝えたまでだけどね。」
博士はまた、コーヒーを口に近づけた。飲んではいなかった。
「博士、コーヒー飲むの、辞めたらどうなんですか。」
博士はふと、コーヒーを飲む手をとめ、こう言った。
「あのねー。僕はコーヒーの香りが好きなんだよ。飲もうとしている訳じゃない。もとから飲もうとしてないのに、飲むのを辞めることはできないの。」
それは筋の通った言い分だ、と思って、僕は思わず吹き出した。
博士の思考 生糸 秀 @uisyu
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