異界からの勝算 七

 そして、それは突然来た。

 目には見えぬ大きな存在。


 それが現れたとおぼしき瞬間、陸王りくおうは頭の芯が揺さぶられるような衝撃を受けた。一気に思考が吹っ飛びそうになる。意識を失うなどとは甘い言葉だ。思考を根底から根こそぎこそぎ取られて、全く別のものに取って代わられる。


 そんな感じだ。


 意識を失った瞬間、自分が別の生き物になってしまいそうな恐怖を感じた。


 なのに、甘い囁きが聞こえてくる。心を柔らかい手で撫でられるような、いとを慈しむような安心感があった。


 この両極端な感覚が混沌なのだろう。一言で言えば、愛と憎悪が同時に存在していると言ったところか。


 片方はどこまでも甘く優しい。

 もう半分はどこまでも冷たく、酷く恐ろしい。

 奪い、奪われる感覚、与え、与えられる感覚にも似ていた。


 全てがあり、全てがないというのはこういうことなのかと、はっきり理解しきれないままに、雷韋らいの操る混沌は宙に開けた次元の穴へと近づいていく。


 そしてその穴からは、今や色々な生き物が次々と顔を現していた。

 一つ目の鳥に似たもの、虎に似たもの、三つの口がある犬に似たもの、五本の指先一本一本に一つ目とぎざぎざの棘のような歯を持つ巨大な何者かの手。様々な生き物が顔を出しては、むしゃりむしゃりと喰らっていく。


 見えないのに、混沌が喰らわれているのだと理解出来た。混沌と思われる存在が徐々に小さくなっていくからだ。そして小さくなるにつれて、混沌から感じ入られていた感覚は薄れていく。


 それが半分以下にまで減った頃、突然次元の穴から水が噴き出してきた。まるで、徐々に小さくなっていく混沌を護るかのように。


 その時、雷韋が火花を散らせていた混沌を、宙に開けた次元の穴のほうへ放った。そして代わりとでも言うかのように、素早く火影の刃で吹き出してきた水を貫く。


 水からは水蒸気が上がり、形もないままにのた打った。


 ここでもし雷韋が攻撃されれば終わりだ。陸王は吉宗を引き抜くと、雷韋の斜め前へ出た。


 雷韋は何も言わず、ただのた打つ水の塊をめ付けていた。また火影から循環する力を送り込んでいるのだろう。集中し、興奮している雷韋の瞳は瞳孔が完全に開ききって、光を反射してぎらついている。


 その間にも、混沌の気配はなくなっていった。最後、欠片かけらのような存在感が感じられたが、一つ目の鳥に似た獣がそれを啄んで、次元の穴へ引っ込んでいく。そのあとを火花を纏った混沌が襲う。次元の穴にぶつかった混沌は、そのまま激しい火花を散らし、弾ける音を立てて散ってしまった。


 そうして宙には何もなくなった。次元の穴も失われている。


 元々、次元の穴は人工の混沌を操って開けたものだ。閉じるときにも混沌の力を使ったのだろう。


 雷韋は混沌を操りながら、その一方で精霊王の核を散らそうとしている。同時に二つのことを成しているのだ。


 陸王はその技量に驚くほかなかった。


 そんな陸王を横目に、雷韋は必死に火の精霊を支えていた。この機会を逃せば、二度とこの水の精霊王を散らすことは出来なくなるだろう。


 それでも、抵抗は随分と弱まっていた。混沌がなくなったからだ。混沌の影響下にあれば、まだまだ精霊王は抵抗しているはずだ。


 狂う為の力の源なのだから。


 精霊王は火影に串刺しにされながらも、次元の穴に向かって降りていこうとする。それをさせまいと、雷韋は火影を高々と掲げた。


 こうなれば、精霊王に出来るのは自分の巣穴に逃げ込むことだけだ。攻撃をする余力は既にない。攻撃を仕掛けられたのは、混沌が傍にあるときだけだ。全てがあり、全てがない混沌から攻撃する力を引き出して、水はそれを体現していたのだから。


 雷韋はあと一息とみて、とどめを刺すかのように火影から炎を吹き出させた。そうすると、更に精霊王の力は弱くなっていった。精霊がめぐる力に影響されて散っていくからだ。


 最後の最後、残ったのは一滴の水だけだった。それが火影の刃の上を滑って、やがて廻りに散っていった。


 途端、岩壁から水が噴き出してきた。



「水だ」



 雷韋がぽつりと言う。


 精霊王の力が完全になくなった為に、本来湧くはずだった清浄な水が今、ようやく溢れ出したのだ。


 それを見届けて雷韋は全身を脱力させて、その場にへたり込んだ。あとは泉の中に開いている次元の穴を閉じれば、本当の終わりだ。


 雷韋は脱力しながらも、「よっこいしょ」と年寄りのようなかけ声をかけて再び立ち上がり、陸王と顔を見合わせた。



「終わったか」

「次元の穴を閉じたらな。それだけやって、ほんとに終わり。これで泉も村の人達も……」



 言いかけたとき、背後から悲鳴が聞こえてきた。

 驚いて声が聞こえてきた方に二人は目を遣った。


 目に入った光景は、鉈を振り下ろした瞬間の男の姿だった。その顔には見覚えがある。


 陸王達には名前は分からなかったが、それは樹大じゅだいだ。


 だが、その目の前には誰の姿もない。周りの村人達の様子もおかしかった。


 虚ろな表情でふらふらしているのだ。



「なんだ? 混沌の影響が残ってるのか?」



 陸王の言葉に、雷韋は激しく頭を振った。



「そんなことあるもんか! ここからあそこまで六メートルくらいある。こんなに離れてたら、例え混沌の影響を受けたとしたって、呆然と宙を眺めてるくらいだ。でも、それもすぐに元に戻る。あんたがすぐに元に戻ったみたいに!」



 言い放って、雷韋は駆け出した。


 しかしそれを陸王が引き留める。陸王にはここにいても男達から殺気を感じたのだ。もし雷韋が彼らの元へ行けば、何をされるか分からないと思った。人の負の感情にさとい魔族ならではの引き留めだった。



「行くな」

「でも、だって!」



 陸王に腕を捕まれた雷韋がそれを振りほどこうとするも、陸王の力には敵わない。



「さっきの悲鳴は誰が上げた」

「分かんないけど、なんかみんなおかしい」

「おかしいと思ったら近づくんじゃねぇ。様子を見た方がいい」



 言う陸王に雷韋は何か言いたげな顔をしたが、雷韋にも何が起こったのか分からない。陸王の言葉はきっと正論だ。


 と、さっき鉈を振り下ろしていた樹大が、今度は別の男に向かって鉈を振り上げた。その背後でも、くわを持っている男がそれを振り回し始めた。


 鉈も鍬も凶器になり得る。それを頭や胴に受けた者達が悲鳴を上げて、飛沫をまき散らした。


 けれど、おかしかった。


 攻撃を食らった男達が上げた飛沫は、血飛沫ではなかったのだ。


 どうしてか、透明な液体だった。


 陸王の鼻にも血の臭いはしてこない。微かにもだ。いや、精霊王に殺された者達が流した血の臭いさえなかった。いつの間にか綺麗に消えている。


 そして同胞に傷つけられた者達が流した体液は、透明だ。もしやあれは水なのではないかと陸王は思う。


 だが、何故?


 その時にはもう、仲間内での殺し合いが始まっていた。まるで見境をなくしたように、狂気に踊っている。


 その様子を注視していると、一人、頭をかち割られた者があった。即死だろうと思われる。けれど、その死に様が普通ではなかった。身体が弾けたのだ。瞬時に透明な液体と化して。あとに残ったのは、例の独特な織物で作られた衣服だけだ。


 わけが分からないというのが正直なところだった。それは雷韋にとっても。どうして突然殺し合いを始めたのか、死んだ者が液体に変わってしまうのか。彼らはもう、精霊王の影響を受けずに生きていける。そのはずなのに、殺し合いを始めた。


 雷韋の中には、どうして、何故、と言う言葉しか浮かんでこなかった。



「雷韋、行くぞ」



 唐突に陸王から声がかけられて、一瞬、呆気にとられる。



「え? でも……」

花梨かりんがどうなったか知りたい」

「……姉ちゃん。そうだ、姉ちゃん」



 ぶつぶつと呟くように雷韋は言葉を口にした。


 今は次元の穴を塞ぐどころの騒ぎではない。そんなものはあとでセレーヌにでもやらせればいいのだ。

 陸王はそう思った。



「転移の術は使えるか?」

「結界の入り口までなら」

「よし、開け」



 言われるがまま、雷韋は転移の門を開き、我先にと飛び込んだ。

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