異界からの勝算 六
気が付けば、泉の中にいた。
「大丈夫か?」
雷韋が陸王に問うが、陸王は引き摺り上げられる際に水を吸い込んでしまって噎せていた。
雷韋は陸王の隣に移動し、その背中を懸命にさすってやる。
「できるだけ息、静かに、ゆっくりしろ」
それでも陸王は激しく噎せている。雷韋の言う理屈は分かるが、今はただただ苦しかった。それに、身体の反射的な動きを制する術がない。身体は勝手に、気管に入り込んだ水を排出することだけを優先して動いていた。陸王の意思とは最早関係がない。
それから少しして、陸王はようやくまともに息が出来るようになった。その間、雷韋が背中をさすり続けていたが、陸王の落ち着いた様子にほっとしている。
「息、もう出来るか?」
「あぁ」
陸王はまだ肩で息をしていたが、返答を返せるまでには回復していた。
「陸王、記憶、ちゃんとあるか?」
「記憶?」
雷韋の方へ顔を向けて陸王が
「さっきあんたの様子が変だったから、吉宗を怒鳴りつけたけど」
それを聞いて、陸王ははっとした顔をする。けれど、何も言わない。
その様子に雷韋は、再び問いかける。
「
「あぁ。俺の名だ」
「よかったぁ。んじゃ、俺は? 俺は誰だ?」
陸王は僅かに考え込んだが、不意に口端をにやりと笑ませて言う。
「サルガキだ」
「あ、ひっでぇ! ……ん~。でもよかった。ちゃんと記憶が戻ってきたみたいだな」
サルガキと言われて
それは雷韋特有の、裏も表もない子供の笑顔だった。
その笑みを見た瞬間、陸王の中に安堵が広がる。まだ混乱していて整理できない記憶もあるが、あぁ、この笑顔だと思うと、自然と口元に苦笑が浮かんだ。いや、それは自嘲だ。こんな顔を見て安堵を覚える自分がおかしかったのだ。だがそれは、己を卑下したわけでも、雷韋を馬鹿にしたのでもない。
単純だと思っただけだ。
多分、お互いに。
そこで陸王はふと真顔になり、小さく息を吐き出した。そうしてから雷韋に問う。
「雷韋。俺はどのくらいの間いなかった」
雷韋はその言葉に、きょとんとした顔になる。
「何言ってんだよ。一瞬だよ。あんたが泉の中で倒れた瞬間、あんたはいなくなった。その時、精霊王の気配も一緒になくなったのを感じたから、俺はすぐにそのあとを追って次元の壁に穴を開けたんだ。そうしたら、混沌があんたのすぐ傍にあったから慌てたよ」
「一瞬?」
今度は陸王がぽかんとする番だった。
「なら、俺は一瞬で帰ってきたって事か」
「うん、そうだけど……。もしかしてあんたの方じゃ、物凄く時間が経ってたのか?」
「体感では、
「……そっか」
雷韋はどこか深刻そうに頷いた。
「でも、こっちじゃほとんど時間は経ってない。だから見ろよ、あの人達」
雷韋の目が向いたのは村人達の方だ。突然、村の仲間の首が刎ねられて、自分達もわけの分からないものに襲われたのだ。騒然とした空気と、雷韋が
それは当然だろう。村人達の理解の範疇を易々と超えた事態が起こっていたのだから。
しかしそこで陸王は急に思い出したことがあった。この泉が穢されていると言うことだ。こんな中に雷韋がいていいわけがなかった。雷韋自身も入ることを嫌がっていたはずだ。
「雷韋、お前こんなところにいていいのか。泉の水は穢されてんだろうが」
「いや、それは平気だ。今はもう、泉の水は清浄に戻ってるから。でも、まだ精霊王の世界とは繋がってる。次元に穴が開きっぱなしだから」
そう言って陸王の正面に回り込むと、その脇を飛沫を上げて叩く。そこには暗い穴が開いていた。だが不思議なことに、穴の中へ水は落ちていっていない。物理的なものではないからだろう。
「陸王、詳しい話はあとだ。まだ精霊王を完全に散らしたわけじゃない。核になる部分が残ってて、それがあんたを攫ったんだ。今もその力をこの穴の中から感じる」
「だったらどうする。俺が囮になるか?」
雷韋はそれに首を振った。
「取り敢えず、泉から出ちまおうぜ。それからここに精霊王を引き摺り出す」
「出来るのか、そんなことが。精霊王は誰の言うことも聞かんのだろうが」
「あいつは混沌から力を貰ってる。ここに先に引き摺り出すのは混沌さ。混沌が引き摺り出されたら、力の源を追って精霊王も出てくる」
「混沌がやばいらしいと言っていたのはお前だろう」
「大丈夫。ちゃんと考えがある」
大真面目に言って、さ、出ようぜと立ち上がり、陸王も立ち上がらせた。
と、その時に気付いたのだが、胸の悪さも吐き気も陸王の中から消えていた。あれほど苦しめられたというのに。けれど今はそれをどうこう言っているときではない。精霊王を散らすのが先だ。
そうして泉から出ると、雷韋は火影の切っ先を泉の真上に当たる宙に向けた。それから雷韋は
少しすると、切っ先が向けられた場所から火花が散るような音が鳴り始める。いや、音だけではない。実際の火花が陸王の目にも見えた。それが徐々に大きくなっていき、空間が歪んでいく。
雷韋は精霊語を奏で続けていたが、最後の最後で強く息を吐き出し、詠唱を終了させた。
そして出来上がったのは、精霊王の世界へと続くと言われている穴と同じような穴だった。
暗くぽっかりと、空間に口が開いているのだ。
「雷韋、あれはなんだ」
「次元の穴。火と水の精霊力を合わせると、人にも操れる小さな混沌が発生するんだ。それで次元に穴を開けた。あんたを助けるときに開けた穴も、これと同じように開けたんだ。本当は
「召喚魔法? 何かを召喚したかったのか」
「召喚獣。次元の穴を勝手に出入りできるくらい力の強い召喚獣だ」
「って事は、そいつが際限なく出てくるってわけか? どう考えても危険だろう」
「大丈夫。俺を信じろ。でも、心は強く持っててな」
それだけ言って、今度は泉の中にある次元の穴に火影の刃を向けて、雷韋はまた精霊語を唱え始める。少年の唇から放たれる音階を聞けば、それがさっき詠唱したものと同じものだと分かった。
そして、また火花が飛び散り始める。弾ける音もはっきりと聞こえた。
だが、さっきと違うのは、雷韋の詠唱が終わってもその場に火花が飛び散っていることだ。激しい火花が散って、弾ける音も腹に響くようだった。
「今、穴の中にある混沌を俺の操る混沌で引き寄せてる。陸王、絶対に自分を保ってくれよ。混沌には全てがあり、全てがない。なんでも吸収するし、何でも排出する。そんなもんに引き摺られないでくれよな」
言う声音は真剣そのものだった。どこにもいつもの子供っぽさはない。
今、雷韋は一人の魔道士なのだ。そして魔術を操っている。
と、火影の先がくっと上へ動いた。
それを見て陸王は、来るか、と思う。精霊王の世界にいたときの記憶は曖昧だ。始めならまだしも、最後の方になるとはっきりしない。いずれ戻るのか、それとも戻らないのか、それは分からない。それでも覚えていることがあるとすれば、雷韋が何かを必死に言い募っていたことだろう。だが、知りたければまたあとでいくらでも聞けると思った。だから今は、これから現れる混沌に引き摺られないようにしなければと覚悟を決めることだけだ。
その間にも、ゆっくりと火影の刃と火花は、上へ上へと引き上げられていく。
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