異界からの勝算 五

 にしても、こんなところへ引き摺り込んでおいて、精霊王はどうするつもりなのだろうか。この森を抜けたら、また何か新しい進展でもあるのだろうか。


 分からないながらも、兎にも角にも歩き続けることしか出来ない。


 白と黒の斑な森を歩いていて、陸王りくおうはいよいよ気分が悪くなってきた。胸苦しいという言葉では片付けられなくなっているのだ。はっきりとした吐き気が胸の内から喉へと遡って、喉奥でわだかまっている。その感覚は、一歩踏み出すごとに確実に強くなっていった。嫌な汗もかいている。それが脂汗なのか冷や汗なのかも判別しきれなかったが。


 吐き気を散らすように陸王は息を吐き出した。


 身体も重苦しい。圧がかかっているような感じだ。


 そんな状態で歩いていると、足下に折れた棘があるのに気付いた。よく見なくても、白と黒が反転している部分がある。


 はっとして顔を上げた。

 そして辺りをよく見てみる。

 跡があった。


 幹から生えている棘を折った跡が。しかもその折れた付近には手形があった。影の部分に白く色が反転して。


 形を合わせなくても、それが自分のものだと陸王にはすぐに分かった。


 手は自分の身体の中で一番目にする機会が多い。


 その手形は、大きさと言い形と言い、陸王のものとそっくり同じものだった。


 陸王は目を瞑って、疲れた息を吐き出した。知らず、めぐり廻って元の場所までやって来たのだと思うと、身体中からどっと力が抜けるようだった。


 果たしてここは、どの辺りだろうかと思う。森に入ってきてからほとんど真っ直ぐに歩いていたつもりだったが、途中で方角を誤っていたのだ。だとしたら、ここは森でどのくらい深い位置に当たるのか。


 陸王は途方もない疲労感に襲われて、その場に腰を下ろした。辺りには張りだした根もあったが、その上には座らなかった。棘が生えているからだ。だから真っ黒の地面にじかに座った。


 尻に冷えた土のような感触が伝わってくる。手で探ってみると土のような感触があったが、相変わらず手には何もつかない。


 疲労の上に徒労が重なって、陸王はぐったりと項垂れた。


 暫くそこでじっとして、疲労と強い吐き気に苛まれていたが、陸王は気分を入れ替えるように顔を仰向けた。


 果たしてここから再び初めて、道を開くことが出来るだろうかと考える。


 考えながら、一歩間違えば思考は無気力に陥ると思った。調子を崩した身体を無理に引き摺って延々歩いてきた先が元の場所だったという事実が、酷く堪えている。気を抜けば無気力にもなろう。


 努力が全て徒労だったのだから。


 しかし、だからこそ余計に陸王は気を張らなければと思った。身体は酷く辛い状態になっている。強い吐き気は喉に蟠って、喉奥を苛める。黙って座っているだけでも、身体は圧に押し潰されそうだ。嫌な汗も毛穴からじくじくと湧き出している。呼吸するのも苦しい。いくら空気を吸い込んでも、肺が酸素を取り込むのを拒んでいるようだった。


 暫くその場所で青息吐息で座り込んでいたが、やがて陸王は意を決したように立ち上がった。だが無理に立ち上がったせいで、力の入りきらない足下が蹌踉そうろうとする。そのせいで危うく身体を幹の棘に突き刺すところだった。その事で一気に気が引き締められ、下半身に強く力を入れることが出来た。


 それを契機に、黙っていてもいいことはないと思い直す。心身共に辛かったが、黙っていても始まらないのだ。今は我武者羅にでも行動すべきだと、そう思った。


 そうして一歩を踏み出した途端、喉奥が引き攣るような違和感を覚えた。これまで抑え込んできた吐き気がいよいよ強くなって、耐えがたくなってくる。陸王は下腹に力を入れて、痙攣を起こしそうな胃をなんとかなだめた。いっそ、胃の中のものを全て吐き出してしまえば楽になるのだろうが、それを自分に許したら折角張った気が緩んでしまいそうで怖かった。


 胸元に爪を立てて、荒い息をつく。なんとか抑え込まなければ。その一念で、陸王は呼吸を繰り返した。そして歯を食い縛り、何度か固い唾を飲み込むと吐き気が僅かばかり治まっていった。ほんの僅かばかりだが、そんなことでさえも陸王を楽にしてくれる。


 身体が僅かながら回復したのを確かめて、また一歩を踏み出した。今度は身体にそれ以上の異変は起きなかった。ゆっくりとだが、確実に歩いて行ける。


 進んでいくと、所々で幹から伸びている棘が折られていた。それは陸王が目印にと折っていったものだ。


 その目印通りに行くと、廻り廻ってさっきの場所に辿り着くのだ。だから陸王は、それとは違う方向へと足先を向けた。そこでもまた棘を折っていく。


 どこをどう行ったのかは分からない。だが、さっきの場所とは違う方向へと向いているはずだ。身体全体で呼吸を繰り返し、そのままあてもなく進んでいく。


 けれど進むごとに、また体調が悪くなっていった。再びの強い吐き気。それに加えて目まで霞んでくる。それが堪らなく辛くて、陸王は傍にあった幹に手をついた。瞬間、白かった幹全体が黒に染まった。


 はっとして見上げると、上空の方では木々同士が影を作って、それが反転していた。ここに陽というものがあるのだとしたら、陽の当たっていた白い幹が真っ黒な影に覆われて、それまで影が落ちて黒くなっていた部分が白くなっていた。


 つまりその木だけに対しては、通常の黒い影ではなく、白い影が出来たと言うことだ。


 この森は普通じゃないと思ってはいたが、流石にこれほどまでの異常を示したことはなかった。


 半ば呆然として見上げていると、



「陸王っ!」



 聞き知った声が自分の名前を呼んだ。そして同時に、低い枝から腕が突き出てきた。


 その腕は細く、手もまだ成長しきっていない幼さを残している。



「陸王っ!」



 呼ぶ声は、その腕から発されていた。変声前の奇妙に高い声だ。陸王はこの声の主を知っている。



「こっちだ! 掴めっ!!」



 声音には、はっきりとした必死さが滲んでいた。


 声は急かすが、陸王は声の主の名前が分からなかった。知っているのに、知らない。その顔も見慣れているような気がしたが、記憶の中の顔はぼやけている。いや、今にも記憶の中から消えそうだ。



「早くしろ、陸王! 掴め!!」



 必死に伸ばしているのだろうその指先が震えている。まるでその様は、もう少し努力すれば目的のものを掴めるといったていだった。


 否。実際、陸王とは目と鼻の先にある。陸王が手を伸ばせば、余裕を持って繋がれる距離だった。なのに陸王は掴もうとはしなかった。


 どうしてか、どんどん陸王の中から抜けていく。急激に失われていくのだ。


 感情も、記憶も。


 急速に失われていく記憶の中には自分の名前もあった。今では自分が誰で、ここがどこかも分からなくなっている。どうして目の前に手があるのかも分からなかった。子供の、少年の手が。


 自分が何をすべきなのかも分からなくなっていく。



「早くしろ! 混沌が近くにある! 早くしないと巻き込まれるぞ!」



 声は捲し立てるが、陸王は既にその言葉の持つ意味すら分からなくなっていた。頭がぼんやりとして、溶けてしまいそうだった。



「吉宗!!」



 声が叫んだ瞬間、陸王の耳に強烈な耳鳴りが走った。


 その音にはっとする。失われていく一方だった感情や記憶が、ほんの欠片かけらだけ戻ってきた。


 この場所は危険だと言うこと。

 目の前にある手は自分を救ってくれるものだと言うこと。


 陸王はあとも先も考えずに、目の前の手を握っていた。途端、引き上げられる感触と共に、全身を水が包み込んだ。

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