異界からの勝算 四

 陸王りくおうは更に確かめようと、地面に手をついてみた。指先にもざらざらとした感触がある。けれど、砂も土も何も手につかない。指先で引っ掻いてみたりもしたが、何も取れなかった。


 怪訝には思ったが、触ってみてもほとんど何も確かめられないのではしょうがない。今はっきりしていることは、地面はざらついていて、僅かに隆起があると言うことだけだ。


 屈んでいた身体を伸ばし、顔を上げると、唐突に遠くに白いものが見えた。今まで何も見えなかったのに、急に何かが現れたのだ。それも、左右にずっと長く伸びているようだ。両端は遠さに見切れている。


 そこで陸王は歩き出す前に、一度背後を振り返った。前方同様、何か変化が起きているかも知れないと思ったからだ。


 だが、背後には黒い世界が広がっているだけで、これと言ったものは何も見えなかった。


 それを確かめて一つ吐息を吐き出すと、陸王は白い何かがある前方へと足を進め始めた。


 遠くに見える白いあれはなんだろうかと思いながら歩き始めて、陸王はふと胸苦しさを覚えている自分に気付いた。どうもさっきから調子が悪い。歩き続けながら陸王は大きく息を吸い込み、吐き出すのを繰り返した。


 胸の中に何かが詰まっているような胸苦しさだ。それは何度呼吸を繰り返しても消えることはなかった。それどころか、一歩足を踏み出すごとに存在感を増していっているようだ。


 今更、人の皮で出来た水袋のことを気にしているわけではあるまいと思い、この胸苦しさの原因が分からなくて、内心で苛立ちながらも首を傾げるしかなかった。


 そのままひたすら歩き続けて、ようやく白いものの正体が分かる位置までやって来た。


 木だったのだ。


 真っ黒な空間の中にそびえ立つ、真っ白な木。


 それが林立している。光源がどこなのか知らないが、木立には影があるようだ。並び並んだ木々の枝、幹が互いに影を作り出して、一本一本の白い木が白と黒の斑に見える。


 それによくよく見れば、幹にも枝にも棘が生えていた。そして、葉は一枚もついてない。


 そんな木々が立ち並んで、白と黒の斑な森を作っている。


 その森は、左右に延々と木立を続けていた。終わりがどこなのか見えない、途方もなく広く深そうな森だった。


 その頃には息苦しさが更に高まって、自然と陸王は肩で息をするようになっていた。胸の内に詰まっている何かは更に大きくなって、息苦しさと気分の悪さで、肌が粟立っている。嫌な汗までかいている始末だ。背中がじっとりと湿っている。


 陸王は一度立ち止まり、今感じている全ての不快なものから逃れるように、大きく息をついた。そして、同時に歩を進め始める。


 だがそこで不可思議な感覚に囚われた。


 陸王が歩くのと同時に、森も少しずつ近づいているような奇妙な感覚だ。


 それを怪訝に思って、陸王は足を止めた。が、そうしていても、森が近づいてくるようには見えなかった。立ち止まったまま僅かばかり様子を窺っていたが、やはり勝手に近づいてくる気配はない。


 何かの錯覚だったかと思い直してまた足を動かし始めると、途端に斑の森が近づいてくるように見えた。


 陸王はそこでもう一度足を止めた。途端、森の動きも止まる。


 一体どんな錯覚なのかと思うが、こんなわけの分からない世界でかいが出せるわけがなかった。辺りを見回してみても、前方に斑の森があるだけで、あとは真っ黒いままだ。


 陸王は化かされているような気分になったが、ここが正常な世界ではないことを考えて、胸の内にわだかまる不快さを抑え込むように歩き出した。すると森もまた動き出す。それを確認して、動くのなら動けばいいと思った。いっそその方が、森に辿り着くのが早くなりそうな気がしたからだ。


 そうして歩き続けて、森も自ら近づいてくる中で、ようやく邂逅があった。


 森の眼前にまで辿り着いたのだ。

 近くで見ると、木々に落ちている影は酷く濃い。

 それに、枝や幹から伸びている棘は太く長かった。


 それを見て、それはそうだろうと思う。遠目からでも棘があることが分かったくらいだ。


 このまま森に入ることは出来そうだが、些か棘が邪魔になる。棘を掴んで力を入れると、軽い音を立ててあっけなく折れた。どうやら棘は硬くはないようだ。


 陸王は折り取った棘を掌の上で見たが、次の瞬間、愕然とした。


 真っ白な幹から生えていた棘もまた白かったはずなのに、陸王が掴んだとおりの形にそこが黒くなっていたからだ。


 いや、黒くなっていると言うより、影になっていると言った方がいいだろうか。表現としてはその方がよりしっくりくる。


 そんな光景に思わずぞっとした。


 陸王は近場の木立に棘を投げつけた。と、またしても軽い音を立てて棘はぶつかって音を立てたが、棘がぶつかった場所がまた黒くなる。棘の形そのままに。


 その有様が陸王には奇っ怪に感じられた。まるで自分が影を連れているような気分になったのだ。


 嫌な予感しかしなかったが、陸王は幹にも掌で触ってみた。白い幹は、陸王が撫でたとおりにその場所へ影を作る。かと言って、陸王の掌には格別な変化はない。掌は飽くまでも掌でしかなかった。


 そこでふと思い立ち、今度は影の部分を触ってみた。


 すると、そこから影が取り除かれる。触れたとおりに影がなくなって、白い表面が浮かび上がってきたのだ。


 本当にこれは一体全体、どんな現象なのだろうか。


 森自体が近づいてくるように見えたこと、木々の枝にも幹にも棘があること、そしてこの不可思議な影のこと。何一つ常識が通じない。わけが分からない。


 そんなわけの分からない現象の中で、今もずっと胸苦しく、息もかなり上がっていた。身体全体がぞわぞわとして、鳥肌も止まない。陸王は左腕を袖の上から、なだめるようにさすった。


 自分を落ち着けようと思ったのだ。


 粘ついた汗が、つ、とこめかみから顎へと落ちてきて、そのまま真っ黒い地面へ向けて滴り落ちる。


 陸王は目を閉じると胸元を片手でつかんで、荒く息を吐き出した。一度、二度。そうして、分からないことは考えまいと心を落ち着ける。


 この世界がなんなのか分からないのであれば、考えるだけ無駄だ。今分かっていることは、ここは陸王の常識の外にあると言うことだけだ。確かなのはそれだけ。ならば、それでいい。余計なことを考えて、いたずらに心を摩耗させることはない。


 それでも、ただ一つだけ。


 雷韋らいが今どうしているかが気にかかった。陸王と同じようにこの世界に引き摺り込まれているのか、それとも自分だけなのか。


 未だ雷韋との邂逅はない。


 気になるが、雷韋は雷韋でこんな世界ならばどうにでもするだろうとも思えた。こうした魔術的な空間は、ある意味、得意分野かも知れない。だから雷韋のことを思って、悲観することは何もないのだと思う。


 陸王はそう考えて、森の中へと入っていった。


 森の中はしんとしていて不気味だ。木々が乱立しているのに、普通の森と違って葉擦れの音がないのが妙な気分にさせてくれる。根が大きく露出していたり、絡まって地表に出てきているのに、深く黒い地面の中に根を張っているのが分かった。木々の幹も太いものから細いものまで様々ある。そして真っ黒な空に向かって、天高く伸びているのだ。葉がないから枝が絡まっている様子なども全て見えた。中には枝同士で棘と棘を突き刺し合って、一つに見えるところも珍しいことではない。


 陸王は、歩いて行くのに邪魔な棘だけを折って歩いた。半分は目印目的でもある。


 その際、触れた棘や幹の白と黒が逆転するのが、相変わらず薄気味悪かったが。


 そのまま歩いていたが、森は深かった。既に、入ってきた場所など分からなくなっている。森の奥へ入ってから、どのくらい時間が経っているのかも分からない。


 いや、この世界に連れ込まれてからどのくらい経っているのだろうか? そちらの方が重要だった。体感としては、少なくとも一刻いっとき(約二時間)ほど経っている気がした。


 それだけ経っていて、この世界に引き摺り込んだものの姿をまだ目にしていない。ここへ連れ込んだのは精霊王の筈だが、それらしきものは何もなかった。ひょっとしたら、既に目にしていながら陸王が気付いていないだけなのかも知れないが。何せ陸王は、種族として精霊を感じる能力が欠落しているからだ。


 天使族と魔族は風の精霊の加護を受けていながら、それを感じる力がない。


 人間族だけが辛うじて風の声を聞くことが出来るだけだ。


 それが世界の理。決して動かすことは出来ない。


 だからもしかしたら、どこかで精霊王を目にしているのかも知れなかった。陸王が気付けないだけで。

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