異界からの勝算 三

 ぽたん、ぽたんと、小さく水音が鳴っている。しかしそれは、やけに重たい音だった。


 小さな音なのに、重い音。それに重なるような、何か嫌な音もあった。そんな音が延々反響している。見事なまでの不協和音だった。頭の芯にまで忍び込んでくる。


 まさに異常な音と言わざるを得なかった。


 それが空間と頭の中に響いている。ずっと、ずっと遠く深くまで。


 無意識のまま、酷く嫌な音だと感じていた。けれど聞こえ続ける。耳を塞いでしまいたいと思いながらも、それが出来なかった。


 どのくらい、それを意識の狭間で聞いていただろう。


 陸王りくおうははっと目を開けた。開いた視界の中に裸足が映り込む。ぱっと瞼を開いた瞬間に見えたそれの数は無数。先の先にまで、誰かの裸足が続いているのだ。


 何が起きたのか、瞬時には分からない。ただ、自分が俯せになっていると言うことだけは理解した。頬に固い感触があり、無数の足が視界の中で真横に向いて立っていたからだ。


 陸王は何を知るよりも先に、四肢に力を入れた。手足の感触はある。力も入る。右手には吉宗の柄の感触があった。ただ、左肩だけが痛みを訴えている。その痛みを無視して、両手両足に力を入れて起き上がった。


 そして驚く。


 少女達が周りをずらりと囲んでいたからだ。

 しかも全裸の上に縄をかけられて。


 辺りをぐるりと見回してみたが、どこまでも十六、七頃の少女達が延々と立っている。皆、穏やかそうに目を閉じたままで、縄をかけられて突っ立っているのだ。だが、てんでんばらばらな方を向いている。


 辺りに光源らしきものは見当たらなかったが、少女達の顔立ちや体つきは全てはっきりと見て取ることが出来た。


 そのほかには何もない。


 それにしても陸王を驚かせたのは少女達がいたからだけではない。


 人の気配などなかったのだ。それは今も感じられない。夥しい数の少女達が縄をかけられて立っているのに、生き物の気配が一切なかった。


 人の足を目に入れたときはまだ頭がぼうっとしていて、何が起こったのかよく分からなかったが、今は理解している。人の気配がないことを。それが一番、陸王を驚かせた。


 気配を殺しているにしてもこの数だ。しかもどこにでもいそうな少女達に、果たして気配を殺す芸当など出来るだろうか?


 答えは当然、否だ。

 少女達はおそらく生きていないのだろうと思う。


 陸王は手にしていた吉宗を鞘に戻し、目の前に立っている少女の頬に手を伸ばした。


 温かい。頬の弾力もある。それを知って、陸王は眉根を寄せた。生きている気配はないのに、体温があり、肌の弾力もあるなどとは。


 怪訝に思って、今度はその少女の腕を取ってみる。

 やはり温かい。

 けれど、何か違う気がした。


 腕を持ち上げると、奇妙なところから折れ曲がった。肘や手首から曲がったのではない。全く予想もつかない場所から、ぐねっと曲がったのだ。それは、骨があるとも感じられない感触だった。そして柔らかいのに硬い感触。それには覚えがあった。


 セレーヌのほらで寝かされていた、水で出来た寝台とよく似た感触だったのだ。


 試しに陸王は、少女の二の腕を握りしめてみる。


 ぐしゃりと潰れた。そして指先の方へ向けて肌が張る。


 その様を見て、最悪だ、と思った。


 醜悪なことに、それは人の形をした水袋だったのだ。


 それに少女達の年の頃にも思い当たる節があった。ここに少女達は、かつての贄ではなかったのか、と思ったのだ。贄の少女達がどうやって喰らわれるのかは知らない。だが、やはり喰らわれるのだ。


 表面だけを残して、内側を。


 そして喰らったあとは水袋状態で保存される。腕に痣はなかったから、喰らうときか喰ったあとかに消されるか消えるのだろう。


 そんなことを思う陸王にも、徐々に理解できてきた。ここがどこなのか。


 今現在、こんな醜悪なものを保存する手合いと言えば、精霊王だろう。狂った精霊達の集合体。おぞましい標本を保存しているこの場所は、精霊界かそれに近いどこかだ。


 少なくとも、人の住んでいる地上ではない。


 そこで、はたと思い出すことがあった。今も痛む左肩を触手で穿たれて、そのまま泉の中に引き摺り込まれたことを。泉に引き摺り込まれるままに、この世界に連れてこられたのだ。


 次元を開いたのだろうな、と頭の片隅で思う。ただ、意識を失っていた理由は分からない。精霊王が次元を開いたときの衝撃で意識を断たれたのかも知れないし、そうではないのかも知れない。


 兎に角、陸王は何某なにがしかの理由で意識を断たれていた。


 その時、ふと雷韋らいのことが頭を過る。果たして、陸王が泉からこの世界に来たあと、雷韋はどうしたかと。もしかしたらここにいるかも知れないと思ったのだ。場所が違うだけで、精霊界なのか、それともそれに近い場所なのか分からないこの世界に。


 何も分からない。ではどうする?

 動くしかないだろうと思った。

 雷韋がこの世界にいるかどうか分からないが。


 兎にも角にも、ここがどんな場所なのか知ることから始めようと思った。


 陸王は少女達を掻き分けて、輪の外へ向かって歩き出した。


 けれど腕や肩にぶつかるその感触が気持ち悪かった。

 柔らかいのに硬いあの独特な感触。


 それが人型の水袋だと言うことも大きい。そして、陸王に掻き分けられた少女達がばたばたと倒れていく。倒れた拍子に互いに潰し合って、目、耳、鼻、口から透明な液体をぶちまけた。血の臭いは全くしない。どこまでも本当に、人の形をした水袋なのだ。


 将棋倒しのように次々倒れていく少女達は液体を漏らしながら首や腕や足を折り、捻じ曲げ、潰れ果てていく。


 最後には、本当に人の皮だけが残された。

 完全なる抜け殻だ。骨すら残らない。


 悪趣味極まりなかった。狂気の沙汰としか思えなかったが、そもそも精霊王は狂った精霊の塊だ。狂気じみたことをするのは、実は筋が通っている。


 ぞっとしねぇな、と呟きつつも、開けた先には空間が広がっていた。どこまでも真っ黒な空間が。


 それは暗いというのでも、闇というのでもない。ただただ真っ黒な空間なのだ。自分の手足を見れば、陽の下で見るようにはっきりと見える。けれど、この空間がどこまで続いているのかは分からない。それは見えないのだ。上を見上げてみても下を向いてみても、右も左も全てが真っ黒だった。


 陸王は嘆息をつくと、一度背後のばらばらな方向に向いて突っ立っている少女達を見遣る。


 残された少女達の皮や、倒れることを免れた水袋に酷い嫌悪感を催すが、彼女達は全て、これまで贄になって殺された少女達だ。嫌悪と共に哀れみも感じた。


 けれども、すぐに気持ちを切り替えた。そして、さて、と思う。


 精霊王が何故自分をここに連れてきたか分からなかったからだ。なんの目的があってこんな場所へ? 今年の贄を連れ去った当人だからなのか。だから、あんな気味の悪い場所に落とされたのか? が、考えたところで結局は分からない。この空間のどこかで精霊王を見つけたとしても、人の言葉を喋るとも思えなかった。もし雷韋が共にいたなら、色々分かることもあるだろう。雷韋の見てくれは小さな子供だが、魔術にはさとい。魔導士としての知識もかなりあるようだ。それから言えば、些か魔術を扱えるとは言っても、陸王は門外漢だ。魔術のことも精霊のことも、一般的に知られている以上のことは何も知らない。雷韋がもしこの世界にいるのならば、早々に合流したかった。


 そんな一縷の望みをかけて、陸王は歩き出した。

 不協和音が鳴り続けるこの場所から。

 肩の怪我を根源魔法マナティアで癒しながら。


 しかし、歩けども歩けども、何も見えてこない。時折背後を振り返ったが、少女達の姿が徐々に遠のいていることから、前進はしていると思った。水音も、少女達から離れるごとに小さくなっているような気がした。傷が癒えていくのも分かる。それだけ時間が経っていると言うことだ。


 が、その少女達の姿も遠くになりすぎて遂に見えなくなっても、水音が途絶えても、怪我が癒えても、空間はずっと広がったままだ。どこまでも行ける。


 おそらくは更に遠くまで、なんの目印もないまま続いているのだろう。


 そんなことを考えながら歩を進めていると、足下がざらついていることに気付いた。これまでは土の感触とは違う、ぬめっとした独特な感触だったが、今はざらついているのだ。僅かに隆起もある。けれど足下を見ても何も見えない。真っ黒な地面があるだけだ。

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