贄の証、発露 三
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二つの泉から湧き出す水が涸れてしまったことから、一度、セレーヌに今の水の状態を確かめようと思ったのだ。雷韋に分からないことも、精霊なればこそ分かることもあるかも知れない。
地面が崩れたあの場所から雷韋の目と月明かりを頼りにやって来たが、一向に人の姿も気配もなかった。
一応、これでも警戒しているつもりだ。この時間でも人がいるかも知れないとして。けれど、辺りには松明の明かりも何もちらとも見えない。
倒木の山を越え、折れた枝が折れた人の腕のようにぷらぷらと風に
「雷韋、この先にも何も見えんか?」
「ん~、見えないなぁ。それに、植物の精霊がごっちゃごちゃになってるくらいしか感じられないし」
「そうか。なら灯りを付けても大丈夫だな」
言ったとき、雷韋が掴んでいた陸王の腕を引っ張った。
「いや、灯りはいらない。セレーヌの結界の中は薄暗いだろ? 闇に目を慣らしておいた方がいいよ」
そう言われて、陸王は光の球を
陸王は小さく吐息をついて、辺りを見回す。ここも散々な有様だ。あちこちでアイオイの木が枝を折っている。幹が細いものだと、そのまま折れているものもあった。枝が折れ、幹が折れ、葉が重なって、あちこちに濃い闇溜まりを作っている。
そんな中でも雷韋は陸王の腕を引いて、すいすいと歩いて行く。
その様に、全く不思議なものだ、と陸王は思った。いくら夜目が利くとは言え、本当に闇夜の猫のように障害物を綺麗に
「なぁ、陸王」
「ん?」
返事を返すと、雷韋は陸王を見上げた。
「セレーヌには分かるかな?」
「何がだ」
「俺より詳しいことが、さ」
「あいつは精霊だろうが。狂ってるとは言え、精霊王に一番近い存在じゃないのか」
「うん、そうだけど」
「存在が存在だからな。分からなけりゃ嘘だろう」
「そうかも知んないけど」
「何がそんなに気になるんだ」
陸王は月光の明かりしかない闇の中で、猫の目のように光を反射する雷韋の瞳を見据えた。と、その瞳が前方に投げられる。
「なんか嫌な予感がするんだ」
その声は不安げに揺れていた。
「予感?」
雷韋の言葉に、陸王は思わず眉根を寄せる。
「そいつぁ、一体どんな嫌な予感だ」
前を真っ直ぐに見つめて歩き続ける雷韋に、疑問を振った。
けれど雷韋は首を振る。
「分かんないよ。分かってたら予感なんて言わない。でも、俺の予感は昔からよく当たるんだ。きっと、碌でもないことが起こる」
「そんないい加減なことをいきなり信じろってのか」
「胸の奥がざわざわする。これは悪いことが起きる前の感覚だ。……もっとはっきり分かればいいのに」
雷韋は掴んでいる陸王の手首を更に強く握った。その掌は緊張の為か、じっとりと汗をかいている。
それに対して陸王が何も言わずにいても、雷韋は悔しそうに顔を歪めながらも歩みを止めることはなかった。
だが陸王は何も言わないだけで、腹の中で恐ろしいことを考えていた。雷韋は嫌な予感がすると言った。碌でもないことだと。それは雷韋の本能的な危機察知能力ではないかと思ったのだ。
つまり、陸王が雷韋を傷つけることになるのではないかと。まだ月の影響力は十二分にある。昨日の夜中、雷韋が走り疲れて倒れた陸王を癒やしてくれた。その時に湧き上がってきた凶暴な本能が、今度こそは形を取って雷韋に向けられるのではないかと思ったのだ。
所詮、魔族は魔族だ。人と同じに生きられる高位の魔族とは言っても、その底には凶暴な本能が確実に息づいている。人の姿をしていながら、結局魔族は人族にはなれない。徹底して人族を喰らう化け物であり、押し止めようもない凶暴さと凶悪さ、そして残忍さがある。
陸王はそれを無理矢理飼い慣らし、理性で抑え込んでいるだけだ。特に今は月の影響もある為、陸王でもいつ暴走するか分からない状態だった。
戦場でさえ、戦闘は夕刻までと暗黙の了解になっている。何故なら、魔族が血の匂いを嗅ぎつけて湧くかも知れないからだ。
魔族は特に夜動く。その魔族の特性を知った上で、両軍示し合わせたように夕刻になると暗黙の了解で戦闘を中止し、敵味方の区別なく、その日出た遺体は焼いてしまうのだ。魔族が一匹でも湧こうものなら、どれほどの被害が出るか分からない。戦どころの騒ぎではなく、両軍全滅の可能性もある。これまでにもそんな例はいくらでもあった。しかも魔族はしぶとい。なかなか死なないのだ。陸王のように人の姿をしているなら、胴を断ったり首を刎ねたりすれば死ぬが、下位の魔族は異形の姿がほとんどだ。首に当たる部分さえないことも多い。下位の魔族であればあるほど、殺すことが難しかった。だから殺し合いの戦場であっても、夜間の戦闘は決して行われない。
魔族はそれほどまでに恐れられているのだ。
雷韋は陸王が高位であれ、なんであれ、魔族であることを知らない。陸王もわざわざ言いたくもなかった。よもや自分の対が、全ての人族の大敵である魔族だなどと知ったらどうなることか。人族を喰らう化け物なのだと。間違いなく雷韋は恐れをなして逃げ出すだろう。正体を知られれば、そこで全てが終わる。見事なまでの終わりの始まりだ。雷韋は逃げ出すだろうし、そうなれば彼らは二度と再会することなく、遠く隔たった場所でそれぞれ狂い死にするのだ。
それが魂の条理。
本来対は、対極を嫌うことも、拒むことも、憎むことも出来ないと聞く。対を拒むと言うことは己の魂をも拒むと言うことだ。相手を否定すれば自分を否定することにもなる。これも魂の条理だ。
その前提があったとしても、陸王は雷韋と出会ったこと自体が間違いだったのだと思った。こんないびつな太極魂なら、出会うことなく死んだ方がまだしもましだ。
特段、陸王は他人からどう見られようと構わない。けれど、対である雷韋に嫌われるのは堪える。出会ってしまった以上、雷韋に恐れられ、嫌われるのはどうにも辛いと思うのだ。対だと思えばこそ、尚、辛い。
雷韋を知らなければ、こんな風に思うことはなかっただろう。しかし、出会ってしまったのだ。その結果、正体を知られて恐れられ、嫌われ、離れられる。
もし雷韋の言う悪い予感が陸王の考えていることと一致するなら、それは本当に碌でもないことだ。
この上もなく、碌でもない。
だから陸王は厄払いでもするかのように、雷韋の頭をひっぱたいた。
「いって! なんだよ!」
「暗い顔しててもしょうがねぇだろう。お前の言う予感とやらが当たるという確証もねぇんだ。仮に悪い予感が当たったとして、精霊王はどうするつもりだ。投げ出すか?」
「誰もそんなこと言ってねぇよ! 精霊王は絶対に散らす。……ただ、ちょっと気になっただけだ」
雷韋は最後にぼそりと呟いて、歩む足を速めた。
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