蠢動 六

 僅かに緊張した心音が耳に響くが、雷韋らいは納屋の角を注視した。


 そうして中年の男がのっそりと角を曲がってきて、曲がった角で松明を闇の中に翳そうとしたその瞬間、雷韋は男の首筋に向かって火影を突き出した。


 火影の刃は赤々と光を放っている。雷韋が精霊にそうするよう命じたからだ。


 男はよほど驚いたに違いない。声を発するいとまもなく、唐突に首筋に迫った刃に目を奪われていた。



「騒ぐなよ。ほんとは俺だってこんな手荒いことしたくないんだから」



 雷韋は囁きながら立ち上がり、男を人差し指で手招きする。けれど雷韋は、手招いたその男に見覚えがなかった。村長と一緒に山から下りてきた男達の誰でもない。交代したのかも知れない。山から下りてきた男達はもっと若かったが、この男はどう見ても中年以上だ。



 男は雷韋と首元の刃とを交互に見遣ってから、ごくりと唾を飲み込んだ。そして雷韋が指先で男を招き、男が一歩進むと雷韋は一歩身を引く。そうやってじりじりと納屋の半ば辺りまで来たとき、雷韋は男の背後に陸王の姿を見た。



陸王りくおう



 雷韋が驚いて小さく叫ぶと、陸王は吉宗の刃を男の喉首に水平に宛がった。



「このまま大人しくしてろ。騒げば首を掻っ捌く」



 耳元で声音低く告げられて、男は固まったように動かなくなった。それを見て、雷韋は火影を引いて精霊界に送還した。と同時に、少し不貞腐れたような顔をする。



「なんであんたが表側から来るんだよ。見張りは?」

「当て身を食らわせて、納屋の中に放り込んできた」



 陸王がそう言うと言うことは、雷韋が男の注意を引いている間に、雷韋とは納屋を逆に廻って正面に出たと言うことだろう。そうして見張りのもう一人を気絶させてきたと言うことだ。


 それを頭に軽く巡らせてから、雷韋は呆れたように言った。


「何してるかと思えば、何やってんだよ。ほんとにもうさ」

「結果として上手くいったんだ。これはこれでいいだろう」

「も~」



 文句を言うように唸って、雷韋は腕を組む。



「そんで? これからどうすんのさ」

「この男に水場まで案内させる」



 何事もないような口振りで陸王は返してきた。



「水場って、山の上のあの泉か? そんなら俺達だけでも行けるだろ?」

「あそこじゃねぇ。村の水源だ。おおもとの水源はあの泉だろうが、ここにも水源があるはずだ」



 言って、陸王は男の喉に刃を当てたまま、もう一方の手で肩を掴む。



「この村のどこかに水源があるはずだな。どこにあるか案内しろ」



 陸王に言われて男は数度頷いたが、肩を掴まれたときから足が震え始めていた。冷や汗もびっしりと額に浮かんでいる。


 その様を感じてか、陸王は僅かに声音を改めた。



「大人しく言うことを聞けば傷つけん。さ、水源の場所まで案内してくれ。夜中だが、人目につかないよう遠回りしてな。だが、妙な気は起こすなよ。お前の首を掻っ捌くのに瞬き一つの間もいらんのだ」



 陸王に言われて、男は小さく頷いた。



「む、向こうだ」



 震える声で言って、ゆっくりと歩き出す。と、その手に持っている松明を陸王は取り上げた。男はびくりと肩を揺らしたが、陸王は構うこともなく雷韋に声をかける。



「雷韋、火を戻せ」



 その言葉に雷韋は頷いて、



「火よ!」



 左手を軽く掲げて呼ばわる。すると松明の炎が雷韋の左手の中に音もなく吸い込まれて消えていった。


 男はそれを見て、小さいが、引き攣ったような悲鳴を上げた。そんな男に雷韋は言う。



「騒ぐことないよ。ただ単に火を吸収しただけなんだからさ」



 そうは言うものの、男にとっては、いや、この村の者にとって魔術など縁のないものだ。今の光景をの当たりにして、驚くなという方が無理な話だった。


 そうして月明かりだけになった闇の中で、陸王は男に声をかけた。



「これだけ月明かりがあるんだ。村のもんなら道筋くらいは分かるだろう」



 陸王の言葉に対して、男は震えながら小さく頷く。


 陸王はさっき現れたときから、声音低く男に話しかけていた。その声の調子で、男は生命に危害が加えられると思っているのだ。傍にいる雷韋でさえ、情け容赦がないと思っているくらいなのだから。


 男が少しでもおかしな行動を取れば、きっと陸王は彼を殺してしまう。


 雷韋にはそう思えた。それだけ陸王からは真剣で、残虐なものを感じていたのだ。正直言って、少し怖いとも思った。


 男はただ陸王に促されるようにして、人家のない畑の小道を歩いていく。陸王と雷韋は余所者で、この村には不案内だ。どこへ繋がっているかは分からなかったが、今は黙ってついて行くしかない。


 誰もが無言だった。脅されている男は言うに及ばず、陸王も男を捕まえたまま案内されるに任せている。その後ろから雷韋がついて行った。


 やがて三人は、人気のない林の中へと入った。


 雷韋はきょろきょろと辺りを見回していたが、陸王は視線だけ投げて様子を窺う。今のところおかしな事はない。延々と木々の間に闇がわだかまっているだけだ。


 が、ある地点まで来たとき、雷韋が「あっ」と声を上げた。



「どうした」



 陸王が声をかけると、



「水の精霊がいる」



 そう言って走り出す。



「おい、雷韋」



 陸王が大声で制するも、雷韋は所々に月光が差し込んでいる闇の向こうへと消えてしまった。腹の中で、クソガキがと罵っても何の意味もない。その代わりに陸王は男を急かした。



「もっと速く歩け」



 そう言ったものの、吉宗の刃が喉首に当たっているのだ。男も急ごうにも急げない。


 それを察したのか、陸王は刃を首筋に移動させた。吉宗の刃を肩で寝かせて頸動脈の辺りに固定する。それでも肩に置いた手は外さなかったが。逃げられたら堪ったものではない。



「これで随分動きやすくなっただろう。先を急げ」



 促されて、男は僅かに歩く速度を上げた。


 それから更に歩いて行くと、月光に晒されている広い場所に出た。そして、そこには雷韋の姿もある。


 雷韋の目の前には、山中の泉をそのまま小規模にしたような泉があった。だが、この泉に石柱は立っていない。飽くまでも規模を小さくした形状なのだ。だから岩壁があって、その前に半円を描く泉がある。



「ここが村の水場だな?」



 陸王は男に声をかけた。すると、そうだ、と弱々しい声が返ってくる。



「雷韋、どうだ」



 今度は雷韋に声をかけると、少年は肩越しに振り返って首を振った。



「やっぱりここも汚染されてる。水も大地も」



 泉の表面はしんと静かで波打っていなかった。そこに僅かだけ欠けた月が、揺らぎもせずに蒼い顔を映している。


 水面上の月に陸王は僅かだけ目をすがめた。それから男の肩に置いた手に力を込める。



「ここで何か変わったことはないか」



 その声は無表情だった。それに押されたように、男はそろりと肩口で振り返る。



「あんた達はなんなんだ? 余所者のくせに、何が目的なんだ」



 その言葉は、震える舌でようやっと口にしたという感じだった。納屋からずっと脅され続け、今もまだ脅されたままだ。陸王の刀は男の頸動脈を狙い澄まして肩に乗っている。



「お前らを悪いようにはしねぇつもりだ。その為にもやることがある。だから異変が起きたのなら起きたと言え。何も変わり映えがないなら、そう言えばいい」



 陸王の言葉に男はしばし沈黙したが、ぽつりと言った。それは呟くような声音だった。



「泉に湧く水が涸れた。贄が……」

「贄? なんだ、そいつぁ」



 花梨のことだとすぐに気付いたが、陸王は敢えて素知らぬふりで鸚鵡返おうむがえした。


 何故なら、男は『贄が』と口走ったからだ。



「な、なんでもない。兎に角、水が涸れたんだ」



 男は小さく左右に首を振って、震える言葉を吐き出した。

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