呪い、そして精霊王 七

「姉ちゃん、大丈夫か?」



 雷韋らいが心配そうに声をかける。声をかけられた花梨かりんは少しぼんやりしている感じはあるものの、雷韋の言葉にゆっくり頷いてみせた。それに、そのおもてからは恐怖の色がすっかりなくなっている。



「もう苦しくないだろ?」



 その言葉にも花梨は頷いてみせた。雷韋も口元に笑みを乗せて頷き返すと、今度は上体を起こしてやり、そのままその場に座らせる。



「なぁ、さっきさ、何が怖かったんだ? こんなところまで走ってきてさ」



 花梨はぼんやりと宙を眺めたかと思うと、雷韋と陸王りくおうの顔を交互に見た。それから口を開く。



「自分でもよく分からない。ただ、あそこにいるのは嫌だったの。凄く嫌な感じがして、ただ怖くなった。どうしてそんな風に思ったのか自分でも分からないわ。なんとなくあそこにはいちゃいけない気がして、気が付いたら走り出してたの。とても黙っていられなくて」

「今、ここまで来てどうなんだ」



 陸王が問うと、花梨は首を横に振った。



「何も感じないわ。焦りも怖さも何も」

「ま、だろうな。半分近く戻って来ちまったしな」



 陸王は溜息交じりに言葉を吐き出した。けれどすぐに言葉を紡ぐ。



「だが、あそこからしかこの山を下りる道はねぇぞ。どうする。もう一度行ってみるか」



 それにはすぐに花梨が激しく首を振った。亜麻色あまいろの髪が大きく揺れる。



「嫌! あそこには戻りたくない」



 怯えきった表情を陸王へと向ける。



「だったらどうしたいってんだ。俺達はあそこしか道を知らねぇし、お前は村に戻りたくねぇんだろうが」

「そう、だけど」



 陸王に返す言葉尻が自然、萎んでいく。



「だったらどうする。俺はいつまでもこんなところにいるつもりはねぇ。村に戻りたくねぇんなら嫌々でも俺達についてくるか、それともセレーヌのところで村の連中に見つからねぇように暮らすかだな」

「そんな! 嫌だわ。洞窟の中にいるなんて嫌」

「別に外に出られねぇわけじゃねぇ。今だってこうして洞窟の外にいる」



 面倒臭そうに言いながら髪を掻き上げる。


 その仕草が花梨には苛立っているように見えて、自然と萎縮してしまった。あれも嫌、これも嫌では、話が進まないのは花梨にだって分かっているのだ。彼女自身にもどうしていいのか分からない。だから俯くほか出来る事はなかった。


 その顔を雷韋が覗き込んだ。



「姉ちゃんさぁ、俺だってどうにかしてこの山から出してやりたいんだぜ? なんで逃げちまうのさ」

「分からないけど、とても怖かったの。とっても」



 雷韋は花梨から目を逸らして、う~むと唸って腕を組む。



「で、結局どうする」



 単刀直入に言葉を放ったのは陸王だった。


 花梨としては村の近くにもいたくない、セレーヌと洞窟に一緒にいるのも嫌だとなれば、無理にでも森を抜けるほかないからだ。どの道を取るのも花梨の自由だが、何もかも嫌だと言っていられないのも事実だった。だから腹を括れとの意味合いを込めて言葉をかけたのだ。


 花梨は悲痛な表情で、



「あの森に行くのは嫌だけど、山を下りるにはあそこに行かなきゃ駄目なのよね」



 そう言って考え込むように拳を作って唇に押し当てたが、やがて心を決めたようだった。陸王を見上げて言葉を紡ぐ。



「行くわ。そして山を下りる。どう考えてもここにはいられないもの」



 言うと、覚悟を決めたように立ち上がった。



「もう一度、私を連れて行って」



 陸王に詰め寄るように言い、未だしゃがんだままの雷韋を振り返る。


 その肩に陸王は片手を乗せた。



「今度は逃げねぇな」



 花梨は二度三度と瞬きをしてから、しっかりと頷いて返してきた。



「よし。だが、三度目はねぇぞ。もし次に逃げ出すような事があったら、俺はお前をここで見捨てる」

「分かってるわ。今度はどんな事があっても逃げ出さない。逃げ出したら、置いていかれても文句は言わないわ」



 その言葉が切っ掛けになり、三人は再び崖を左手に見て歩き出した。



          **********


 そうして道を引き返したが、結局、花梨が山を下りることはなかった。


 本人はかなり我慢をしたつもりだろうが、またしても逃げ出してしまったのだ。逃げないようにと繋いだ雷韋の手を握りすぎて、痣を残してしまうくらいには我慢していたが、それでも駄目だったのだ。


 けれど、何故それほどまでにあの場所を嫌うのか。感応力の強い雷韋でさえ、精霊の声が聞こえにくいとしか感じていない場所なのにだ。


 大体、あそこはなんなのか。何故そこだけ精霊の流れがおかしい? ほかの場所にはなんの異変もないのに。そして、どうしてアイオイの花芽が付いていないのか。


 雷韋を以てしても、その理由が分からないのではどうしようもなかった。やはり精霊の流れが関係しているのかも知れない。


 だがそこで、陸王には一つの案があった。

 陸王は雷韋に向かって、



「お前、転移の術は使えるか?」



 そう問うた。

 途端、雷韋の目が思わずという風に見開かれる。



「そっか! 転移の術があるんだった!」



 転移の術とは、一度行ったことのある場所と現在地の空間とを歪めて繋ぎ合わせる魔術だ。光の球と同じように、根源魔法マナティアの基本的な術の一つだ。


 けれど雷韋はすぐに暗い顔になってしまった。



「あ~、でも駄目だ。廃村に楔を打ち込んできてないよ」

「だろうな」


 逆に陸王は表情を変えることはなかった。むしろ、それが当然という顔をしている。


 転移の術には絶対不可欠なものがあった。それが『楔』だ。楔と言っても、目に見える物体ではない。術者にしか感じられず、見えもしない目印と言えばいいか。視覚、聴覚、嗅覚、触覚を使ってその場所を覚え、空間に目印となる術者の意識を打ち込むことから『楔』と呼ぶのだ。


 そして通常、楔を打ち込むのは都市や村と言った安全な場所だ。旅人には道中何があるか分からない。だから特に魔導士はいつでも安全圏に逃げられるように、安全と思われる場所に事前に楔を打ち込んでおくのだ。旅をしていれば、本当に色々なことが起こる。一人、二人でいれば道中、追い剥ぎに遭ったりするのも珍しくはない。商人などは特に危険だ。だから彼らは移動する際には必ず護衛を雇う。そのほかの旅人も、同じように旅する者達と道連れになることが多い。


 魔導士が旅をするときも大抵は道連れに加わるが、一人になることも多かった。魔導士が旅をする目的は、魔導の研究に必要なものを探して旅をすることが多いからだ。その際に追い剥ぎや野盗に襲われても、ほとんど魔術を使って争ったりはしない。彼らはただ逃げるだけだ。魔術は大きな力だ。腕力でどうにかするよりも、もっと恐ろしいものを内包している。だからこそ、魔導士は滅多矢鱈に術を使わない。安全な場所に楔を打っておいて、逃げの一手に廻るのもその為だ。


 雷韋も一人でいたときには用心の為に街や村に楔を打って歩いていたが、陸王と道連れになってからは自然と楔を打つようなことはなくなっていた。何しろ陸王は侍だ。侍の剣技はこの世で最高と言われている。更にその上、対であることも手伝って、完全に陸王の力に頼り切りになっていた。そうして陸王に頼りきりになり、雷韋はこれまでやってきた場所を、いつの間にかはっきりと認識しなくなっていた。そんなだから、廃村を覚える必要もなかったのだ。


 第一、こんな事態になるとは思ってもみなかった。それも楔を打たなかった原因の一つだ。


 雷韋はしょぼくれた顔をして溜息をついたが、陸王はそんな雷韋に向かって言った。



「戻るぞ」

「あ、え? どこに」



 驚いたように雷韋は顔を上げた。



「セレーヌのところにだ。あいつなら何か知っているかも知れん。その途中で花梨も拾っていく。さっきのあの様子じゃ、また走り疲れてどこかに倒れてるだろうからな。お前の転移の術にもさほど期待はしてなかった」

「悪かったな。じゃあ、これからあの村に俺一人で戻って、こっちに繋げようか?」



 上目遣いに言って、雷韋は歩き出そうとした。が、それを陸王に止められる。



「こっちのどこに楔を打つつもりだ」

「そ、そりゃ……、こことか?」

「なんの目印もない場所を覚えていられるのか?」



 そう言われると弱かった。



「じゃあ、一度セレーヌの結界まで戻って、そこに楔を……」

「結界の外と中を繋ぐことは出来んはずだろう。結界の中同士でなら繋ぐことは可能だが」



 見透かしたようなことばかり言ってくる陸王をめ付けて、雷韋は腹立たしげな息を吐き出した。それから何も言わずに駆け出す。


 どこかで倒れている花梨を捜しに行ったのだろう。


 陸王は内心で、せわしない、と思ったが、ここは雷韋の好きにさせようとも思った。第一、陸王は怪我を治癒させる根源魔法マナティアは使えても、精霊魔法エレメントアのように体力まで回復させるような魔術は使えない。回復の術なら、陸王より雷韋だ。


 そう考えて、陸王はゆったりと大股に歩み始めた。

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