呪い、そして精霊王 六

「ところで花梨かりん。お前、金の数え方は分かるのか」

「かね? 何、それ。見たことも、聞いたこともないわ」


 喉につかえるように言葉を吐き出す。

 その答えに陸王りくおうは、こめかみを片手で揉んだ。


 納屋からまともに出たことのない花梨だからその可能性はあるだろうとは思っていたが、見事に的中してしまったことに頭を悩めた。最低限、金の使い方や物の価値などが分からないと、この先一人ではやっていけないからだ。街や村で、騙されてものを高く売りつけられることもあるだろう。価値観が分からないと相手の思う壺だ。いくら稼いでも足りないことになる。


 花梨にとっての一番の懸念はそれだった。だが、それを一から教えるのは実に面倒なことだ。花梨が落ち着ける場所を探すまで暫く共にいることになるだろうが、その合間合間に教えていくしかないと陸王は腹を括った。


 雷韋らいの思惑とは言え、花梨とはなんだかんだ関わってしまったのだから仕方がない。陸王自身もそれは諦めている。


 その代わり、これ以上の雷韋の要求もセレーヌの助けを求める言葉も無視する。


 陸王も譲歩したのだ。花梨を救ってやろうと。それだけで勘弁願いたい。これ以上の揉め事に首を突っ込むのは御免だった。


 そうは考えていても、背後から感じられる雷韋の気配はしょんぼりとしている。それだけが気にかかった。


 だからこう言ってなだめるしか手はない。



「雷韋。好奇心は猫も殺すってことわざが大陸にはあるだろう。くだらんことに首を突っ込むな。所詮、俺達には関わりのない事だ。花梨一人を逃がすだけで妥協しろ」

「それが出来たら、こんなに心が苦しくなったりしねぇよ」



 絞り出すような雷韋の声が背後から聞こえてきたが、陸王はそれを黙殺した。そう返ってくるのは分かり切っていたからだ。


 それなのに雷韋は続けた。



「昨日の、村の偉い人か? 村長か誰か。そいつも言ってたじゃんか。姉ちゃんを贄にして水の恵みをなんとかって。花梨姉ちゃんも言ったけど、姉ちゃんが逃げたら村に水の恵みがなくなる。もし俺達がここから引き返して精霊王を散らせば、村に水の恵みがきっとある。それ出来るのってさ、セレーヌじゃないのか? あいつ、精霊王に呪いかけられたって言ってたじゃんか」

「知るか」



 陸王はにべもなく返した。


 雷韋は陸王では駄目だと思ったのか、今度は花梨に声をかける。



「姉ちゃん、村の奴らが困った事になったら、あんたはほんとに嫌じゃないのかよ」

「え?」



 突拍子もない事を聞かれたとでも言うような声が花梨から漏れる。



「村の奴って、なんだかんだ言っても仲間じゃんか。親戚だっている。俺と陸王が原因取り除いたら、姉ちゃんは贄には二度と選ばれない。そうすりゃ、村で生きていけるぜ」



 雷韋が言い募って、陸王が花梨を見た時、彼女は酷く嫌なものを見るような目つきで雷韋を肩越しに振り返っていた。



「どうして私が村の人達の事を心配しなきゃならないの」



 贄になるのは嫌だと吐き捨てたときのように、はっきりと嫌悪を滲ませた低い声が少女から漏れる。



「私はあの村で、人間としてもまともに扱われなかったのよ。ただ贄にする為だけに生命を繋がれてただけ。生かさぬよう、殺さぬように。贄に選ばれて隔離されてた間、村の人達が私をどんな目で見ていたか知ってる? 『死ね』って目で見られたのよ。誰も彼も同じだった。伯父さんの家にいた時だって、誰も私を気にかけてくれる人さえなかった。納屋の外に出ている時に村の人と出会っても、目さえ合わせてくれなかった。そんな人達をどうして私が心配しないといけないのよ!」



 言葉を口にしているうちに感情が昂ぶってきたのか、花梨は最後には声を荒げていた。



「でもさ、だって……」



 何かを言いたいのに、雷韋には継ぐ言葉がなかった。


 さもあらん。そう陸王は思った。花梨が言ったように、彼女は贄としてこれまで生かされてきたのだ。酷い仕打ちも多々あっただろう。そんな花梨に、村と村人に愛着をなどと求めても反発されるだけだ。心配する事すら馬鹿らしい。


 それは当然の帰結だった。


 これは雷韋の特性なのか、この少年は考えが甘い。そしてどこまでも素直だ。馬鹿正直なほど。どんな者であろうと、いい人だと思い込む癖のようなものがあるのだろうか。


 少なくとも、相手があからさまな悪人でなければ。



「雷韋。お前には花梨を説得する事は出来ん。説得するって前提がそもそも間違ってるんだからな」



 陸王の言葉に反応してか、雷韋から再び吐息が零れる。遣り切れなさを伴って。


 その呼気こきが聞こえた時、陸王は小さく鼻で笑った。世の中、善人ばかりではないのだ。むしろ、悪人の方が多いのではないかとさえ思う。隙を見せれば喰らわれるだけだ。


 その先からは会話もなく、ただ黙々と歩き続けた。


 花梨も気分をこれ以上ないほど害したようだし、雷韋には何かを言う言葉も見つからないようだった。


 そうして黙々と歩いて行くうちに、それまで咲き誇っていたアイオイの花が見えなくなった。匂いも僅かばかり薄くなる。


 丁度、アイオイの花が咲いていない辺りまで来たのだ。



 ここを抜ければ、また傾斜に沿って立つアイオイの木々が出迎えてくれる。そこが山を下りる下り勾配だ。


 陸王は軽くそれを花梨に告げてから、休む事なく歩みを進めていった。


 だが唐突に花梨は歩みを止めた。



「嫌だわ。なんだか凄く嫌な感じがする」



 肩越しに陸王が振り返ると、花梨は辺りをきょろきょろと見回して両腕を抱くようにしてさすっている。



「嫌な感じ?」



 陸王が問うと、花梨は二、三度頷いた。



「とっても嫌な感じなの。気持ち悪くて、鳥肌が立つ。身体に何か膜のようなものが貼り付いてるみたい」



 その言葉に、陸王も辺りを窺い神経を張り巡らせた。けれど小動物がいるような気配はあっても、他には何も感じなかった。肌に何かが貼り付いているような感じもしない。第一、ここを通るのは二度目なのだ。何かあるのなら、最初に通った時に感じたはずだ。だが、怪しげな何かなど全くなかった。


 雷韋も気にしているのか、辺りをきょろきょろと窺っている。しかしその表情は、困った時のような困惑した顔だった。と言う事は、雷韋も昨夜以上のことを何も感じていないという事だろう。


 そうしているうちにも、花梨の身体が小刻みに震え始めた。



「嫌よ、嫌。何、この感じ。怖い!」



 最後に叫ぶと同時に、花梨は数歩後退あとじさった。そして間を置かず、そのまま踵を返して走り出してしまう。



「おい!」



 陸王の声があとを追うが、花梨の背中に当たっただけにすぎなかった。少なくとも、彼女を安堵させる言葉ではなかったのは確かだ。


 陸王と雷韋は同時に走り出した。


 所詮、女の足だ。男の足に敵うはずもなく、あっという間に捕まえられた。特に足の速い雷韋には。



「姉ちゃん、どうしたんだよ。何もないって」



 花梨の腕を取って、必死に呼びかける。


 けれど花梨の身体は震えていた。さっきよりもはっきりと。大きくがたがたと。



「嫌なの! いやぁ、怖い!」



 花梨の瞳は恐怖に見開かれて、焦点が合っていない。完全に恐慌状態に陥っていた。


 震えるその肩を、陸王が抑え込むように掴む。



「花梨、しっかりしろ。何もねぇ。俺の目を見ろ」


 頬を軽く張って、陸王は花梨の顔を自分の方へ向けさせた。

 その瞳は恐怖の為か、瞳孔が大きく開いている。


 陸王は必死に花梨の焦点を合わせようとしたが、それは無駄に終わった。それどころか恐怖に取り憑かれた花梨は身体全体で暴れて、雷韋の手を振り払い陸王の手を撥ね除けてまた走り出していた。


 そのすぐあとを雷韋が追い、距離を開けて陸王も追った。



「雷韋、花梨が落ち着くまで手は出すな」

「え? でも」

「いいから言う事を聞け。どうせ俺達の方が足が速い。正気に戻るまで待つんだ」

「お、おう。分かった」



 素直に返事をしたかと思えば、雷韋は花梨と併走を始めた。恐怖の色一色の花梨の顔を確認しながら。


 そうして走って、ある瞬間、花梨がばたっと倒れた。全力で走った事で、花梨の体力の限界が一気に来たのだろう。その様はまるで、糸の切れた操り人形のようだった。


 花梨は草むらの上に倒れ込み、身体全体で忙しなく呼吸を繰り返している。


 その頃には陸王も雷韋もかなり息を乱していたが、花梨ほど酷くはない。膝に手を当てて呼吸を整えるくらいの体力は残っていた。


 それにしても、かなり戻ってしまった事になる。道程の半分は戻ってしまっただろうか。


 陸王が屈んだ状態から身体を起こしたとき、雷韋が花梨のそばにしゃがみ込んでその背に手を乗せた。するとすぐに淡い緑の光が手に宿る。


 植物の精霊魔法エレメントアだ。

 昨夜は陸王もこれに助けられた。


 陸王が二人の様子を眺めていると、精霊魔法を受けている花梨の呼吸が急速に穏やかなものになっていく。表情も苦しげなものから安らかなものへと変わっていった。

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